アレグロ・レトリバー

ちくわノート

第1話 両親

 そのゴールデンレトリバーは子犬の頃から常に忙しなく動き回っていた。

 キャンキャン鳴きながら、庭をぐるぐると何周もすごい速さで走るその姿を見て、私はその犬をアレグロ・レトリバーと名付けた。

 アレグロは音楽用語で速くという意味で、テンポでいうと120~152BPMくらい。曲でいうとジャック・オッフェンバックの『天国と地獄』くらい。

『天国と地獄』を流すと、本当に嬉しそうに走ったし、その曲はアレグロ・レトリバーのために作られたんじゃないかってくらいよく似合っていた。

 私はアレグロ・レトリバーが好きだった。特に、アレグロ・レトリバーの走る姿がとにかく楽しそうで、大好きだった。私は来る日も来る日もアレグロ・レトリバーを見て過ごした。

 毎日アレグロ・レトリバーを見ていると、自然と寝る時間や起きる時間もアレグロ・レトリバーに合わせるようになった。辺りが暗くなり、アレグロ・レトリバーがとぼとぼと庭の奥に設置されている小屋に向かうと、私も毛布を被り、部屋の窓から、小屋からはみ出しているアレグロ・レトリバーのまん丸なお尻を見つつ、眠りについた。太陽が昇り、アレグロ・レトリバーが欠伸をしつつ、楽しそうに小屋から出てくると私もぱっちり目を覚まし、毛布を部屋の隅に追いやってアレグロ・レトリバーの一挙手一投足に注目した。

 私はいつも2階の自室の窓からアレグロ・レトリバーを見ていた。そこからは青々とした芝が広がる真四角な庭を一望できた。庭を囲うように白い木の柵が設置されていて、その木の柵の中がアレグロ・レトリバーの毎日の遊び場だった。

 アレグロ・レトリバーが庭の中で遊んでいると、道行く人がアレグロ・レトリバーに話しかけた。それは女子高生だったり、お爺さんだったり、家族連れだったりした。

 その人達は小屋に刻まれた彼の名前を見て、彼の名前を呼んだ。

 名前を呼ばれるとアレグロ・レトリバーはそれが誰であれ、しっぽを振って柵の前まで駆けてくる。名前を呼んだ彼らはその様子を見て顔を綻ばせ、柵の間から手を伸ばし、アレグロ・レトリバーの頭を撫でた。

 人見知りをしないのだろう。アレグロ・レトリバーは知らない人から頭を撫でられてもいつも嬉しそうな表情で受け入れた。番犬としては役立たず。

 私は1秒でもアレグロ・レトリバーの動きから目を逸らしたくないから、ご飯は自室で食べる。

 2階の窓から私のご飯をおすそ分けすると、アレグロ・レトリバーはしっぽをぶんぶん振って喜んだ。

 まあ、2階から餌をやるな、と怒られたのでたまにしかやらないけど。


 ある時、私がいつものようにアレグロ・レトリバーを見ていると、ドアをノックする音が聞こえた。

 私は返事をしなかった。アレグロ・レトリバーの息遣い、大地をかける音。それらを楽しんでいた私は至高のオーケストラの演奏を邪魔されたように感じて、不機嫌になった。

「なあ」

 ドアの向こうから父の声が聞こえた。

「いつまでそうしてるつもりだ?」

 質問の意図がよくわからなかった。私がアレグロ・レトリバーを見ていることに対して言っているのなら、それはアレグロ・レトリバーが眠りにつくまでで、アレグロ・レトリバーが起きたらまた再開する。こう答えるのが正解だろうか。それとも私が部屋から出ないことに関して言っているのなら、私はアレグロ・レトリバーを見る必要があるから、ずっと、というのが答えになる。

 ただ、父のそのような質問はこれまでもしょっちゅうあって、正直、面倒くさいけれど、それが父の生理現象なんだと思って我慢していた。いつもなら、無視をしていればやがて大きなため息とともに階段を降りる足音が聞こえてくるはずだった。

 しかし、その日はしつこかった。ドアをどんどん叩いて、いつまでも何かを喚いている。

 本当にうるさくて、1回文句でも言ってやろうか、と思ったところで、バキッという破壊的な音がした。

 思わずアレグロ・レトリバーから目を離してドアを見ると、バールの先端が私の部屋に突き出していた。バールは一度引っ込み、再びバキッと音を立ててドアを破壊していく。

 壊れたドアの隙間から父の姿が見えた。前見た時よりも白髪が増え、老けてるように見えた。

 ドアがドアとしての機能を失い、力尽きて倒れると父はずかずかと私の部屋に入ってきた。

「いったい、いつまでこんなことをしてるんだ! お前もいい歳なんだからいつまでも引きこもっていないでいい加減外に出ろ!」

 その父の怒声が聞こえたのか、アレグロ・レトリバーは小屋に引っ込んでいってしまった。私は寂しい気持ちになったし、父のせいでアレグロ・レトリバーが小屋に引っ込んでいってしまったという怒りが湧いた。

「おい、聞いてるのか!」

 父が私の腕を掴んだ。

 強い力で引っ張られ、私の体が窓枠から離れると、その途端、私はアレグロ・レトリバーと引き離されるんじゃないかという強い恐怖が私に襲いかかった。

 気がつくと、私は半狂乱になって暴れていた。部屋の中はぐちゃぐちゃになり、私は手当り次第物を掴んでは父に向かって投げつけていた。顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、なにかを喚きながら一心不乱に物を投げた。

 小学生の頃に使っていた黄色の鉛筆削り器を投げた時、それが頭に当たって父は倒れた。額がぱっくり割れ、血がベージュのカーペットを汚した。

 私は倒れた父の上に馬乗りになり、ひたすら父を殴り続けた。

 騒ぎを聞きつけた母がすぐに2階に上がってきて、悲鳴をあげながら、私と父を引き離した。

 しばらくして、母が呼んだ救急車が来て、父は運ばれて行った。

 ようやく静かになり、ぐちゃぐちゃになった部屋の窓からアレグロ・レトリバーを見ると、アレグロ・レトリバーはひょっこり顔を出し、嵐が去ったのを喜ぶかのように庭を跳ね回っていた。

 結局、父は5針を縫ったそうだ。私はそれを階下の話し声で知った。

 私の部屋のドアは応急処置的にドアの破片をテープで繋ぎ合わせたハリボテに変わった。すきま風が入ってくるようになった。

 父と母は私への干渉をやめた。

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