第2話 タッチ

 掛け時計はちょうど16時半を指していた。カチカチという秒針の微かな音をかき消すように、屋上のカラスが騒がしく鳴く。耳を澄ますと軽音楽部のギターの演奏の音も聞こえる。あれは、ナンバーガールの『タッチ』か。掛け時計の隣には、世界遺産の写真がついたカレンダーが掛けられている。

「ちょうど一ヶ月前か」

 カレンダーを見ながら、アカネは呟いた。今日は5月18日。平凡な水曜日だ。

「何が?」

 本に目をやったまま、僕は尋ねた。

「岡田たちが屋上に侵入した日」

 アカネは棚上に置かれた、ホコリを被った青い地球儀をクルクルと回しながら言った。岡田はクラスに数人いる問題児たちの中心人物だった。

 僕は読んでいた本を机に置いた。『旅のラゴス』という本だ。

「どうやって?」

「ヨッシーの鍵を盗んだらしい」

 ヨッシーとは、僕らの担任吉川先生のあだ名だった。緑の眼鏡をかけている、いかにも気弱そうな20代半ばの国語教師。吉川先生なら盗まれてもおかしくないと思ってしまった。

「で、岡田たちはどうなったの?」

「さあね。職員室でバケツでも持たされたんじゃない?」

 いつの時代の話だ。僕は置いていた本をもう一度取り上げようとしたが、やめた。

「屋上に何があるんだろう?」

 アカネは振り向き、僕の眼をじっと見つめた。人の眼をじっと見つめるのはアカネの癖だった。彼女のボブヘアが風で少し揺れた。

「さあね。貯水槽と…後は何だろう。落書きとか? まあ、大したものはないでしょうね」

「いい休憩場所にはなるんじゃないかな?」

「屋根が無いから、雨降ったらヤバイでしょ。それに、晴れでも直射日光で暑いし、休憩場所としても最悪よ。まあ、愛の告白なんかにはうってつけかもね」

「意外とロマンチストなんだね」

 屋上での愛の告白とアカネとの間には、現世とあの世ぐらいの距離があると思うのだが……墓場で告白とかならまだ有り得そうだ。

 アカネは地球儀で僕の頭を軽く叩いたか。けっこう痛い。

「失礼なこと考えてるからよ。ていうか、休憩場所なら教室で十分じゃない。例えば、こことか」

 僕はあたりを見回した。第2多目的室。彩雅高校の南校舎3階、階段を上がった先に続く廊下を突き当たりまで進んだところに人知れず存在する教室。教室の中央にある机と壁際の棚、それ以外はほとんど何もない。まるで絶海の孤島だ。

 一応、文芸部の部室ということになっているが、部員は僕とアカネだけだったし、僕らはまともに部員として活動していなかったから、実質ここは僕らの休憩場所だった。

「じゃあ、何で岡田たちは屋上になんて行ったんだろう?」

「さあね。学校に対する反抗心から、とか? 何にせよ、ろくな理由じゃないわね。反抗なんて、くだらない」

 反抗なんて、くだらない。その通りだった。数十年前の学生たちは、屋上にバリケードを築いて立て籠もったり、拡声器を持って何かの決起集会を行ったりした。しかし、現代の学生たちはそんなことはほとんどしない。反抗とは、表を裏にひっくり返すだけの行為であり、何も生み出さないことをよく知っているからだ。仮に反抗をするとしても、それは屋上に侵入する程度の他愛のないものだ。

「まあ、でも、反抗することによって、ある種の『席』を得ることは出来るのかもね。何々に反抗しているグループの一員、みたいな。ちゃちな『席』だけど、まあ、無いよりはマシよ。『席』があるって、けっこう大事なことよ」

 そう言って、アカネは僕の正面の席に腰を下ろした。アカネの眼が僕を見つめる。黒くて大きな眼だ。じっと見つめていると、何だか吸い込まれそうな気がする。


「ところでさ、文芸部、廃部になるんだって」

「はあ!?」

 僕は持ち上げようとしていた本を床に落としてしまった。ガタっという音が教室全体に響いた。

「いや、なんで!?」

 というか、そういう大事なことは先に言ってくれ。

「部員が一人足りないこと、活動目的がハッキリしないこと、そして、顧問の先生がいないこと、この3つがマズイんだって。今朝、生徒会の子に言われたのよ。」

 僕は本を拾い上げた。よく考えれば、もっともな理由だ。文芸部ほど部活動と縁遠い部活はない。

「活動目的と顧問はともかく、部員が足りないって……文芸部に入りたい人なんているのかな?」

「さあね。気づいたらもう5月18日で、部活勧誘シーズは終わっているし、ほとんどいないんじゃない? そもそも文芸部の存在を知ってる子がいるかどうかすら怪しいし。それに勧誘するにしても、コーセーはともかく、私は、その……友達いないし」

 僕は苦笑いするしかなかった。ギターの音が止み、教室は静寂に包まれた。まるで、学校に僕とアカネの2人だけしかいないみたいだった。アカネは顔を机に乗せ、じっと僕の眼を見た。彼女が僕の方に手を伸ばす。


 突然、ガラっという音がした。教室の扉が開いたのだ。教室の前には、一人の少女が立っていた。腰まである長いポニーテールが大きく揺れる。胸元の赤いリボンから1年生だと分かった。訪問者は、はっきりとした声で言った。

「すいません。ここは文芸部ですか?」

 僕とアカネは顔を見合わせた。

「部員、足りたわね」

「だね」


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