干渉

 その夜、小路亭にはいつもの常連客のメンバーが集まっていた。夕食を食べに来たのはもちろんなのだが、どこからどういうふうに情報が伝わったのだろうか、彼らの目的は山下の遭遇した出来事だった。

 話の出どころは篠塚くんしかありえないのだが、自分が知らないだけで常連客の間でSNSのグループができているのかもしれない、と小路丸は考えた。しかしそのことを彼らに訪ねたところで小路丸には教えないだろう。そういうものだ。

「山下くんがまたなにか騒動に関わってしまったようだけど、今回は食べ物絡みじゃないんだねえ」医大に勤めている今井先生が言った。

「食べ物がらみじゃなくっても先輩はちょくちょくトラブルを持ち込んでくるんですけれどね」そう小路丸は答えるが、嫌そうな顔はしていない。「野中さん、そんな端っこのテーブル席なんかに座ってないで、こっちに来たらどうなんです。ほらまだカウンター席も空いてるし」

「いえ、私はこっちでいいです」一人だけテーブル席に座っていた野中さんは首を横に振る。

 そんな野中さんの表情をみて、篠塚くんはにやりと笑った。「ははん、なるほど。ひょっとしてゾンビが怖いんですか」

 篠塚くんのゾンビという言葉にびくっと体を震わし、「うん、ホラーは駄目なの。お兄ちゃんが昔っからホラー好きで、というかうちの家族、私以外みんなホラーが好きなのよ。小さい頃なんか毎月ホラー映画の鑑賞会までしてたのよ。信じられる?」

「そんなに嫌いだったら来なければよかったのに」篠塚くんが言うと「単なる怪談話の集まりだったら来なかったわよ。でも山下さんがらみとなれば来るしかないじゃない」と答えた。

「まあほんとにゾンビが現れたというわけでもないし、野中さんが考えるような怖い方向にはならないとおもいますよ」小路丸が言った。

「そうですよ。その生き返った女の子も人を襲うわけじゃないし、母親が意識を戻していないってことで山下さんが預かっているそうじゃないですか。山下さんも人がいいなあ。じゃあぼちぼち始めますか。ところで彼はうちの会社でバイトしているバスティアンくんです。彼も山下さんの話に興味を持ったということで一緒に来ました」篠塚くんが隣に座っているバスティアンさんをみんなに紹介した。

「バスティアンといいます。フランスからやって来ました。今はこっちの大学で理論物理を学んでいますが、ITにも興味があって篠塚さんの会社でバイトをしています。お母さんが日本人なので日本語は大丈夫です。そのかわりお父さんとは仲が良くないのでフランス語はできません」

「みなさん、嘘ですよ。フランス語もペラペラです。つまらないジョークだからやめろといっているのに聞かないんですよ」バスティアンの口を塞ぎながら篠塚くんが言った。

「まあいいじゃないか。ところでいまのところ情報が少ないけれど、山下くんの勘違いで、死んだと思ったのは間違いで仮死状態だったのが息を吹き返したというだけなんじゃないのかねえ。もっともそれじゃあ話はそれで終わってしまうけれど」今井先生が常識的なことを言う。

「そりゃそうですけど、でもそれだと辻褄があわない部分もありますよ。心臓が止まったままという」篠塚くんが先生の意見に反論する。

「そうだねえ、山下くんがいくら普段の生活がいい加減だといっても彼はカメラマンだからねえ。観察力には間違いはない。となるとやっぱり一度は確実に死亡してそして生き返った。だけど心臓は止まったままである」

「心臓が止まったままでも生きているってありえないでしょう。あ、たとえば極端に鼓動が遅いだけとか。ほら、ネズミの鼓動は早いけれど象の鼓動は遅いっていうじゃないですか。だからその女の子も心臓が止まったかかのようにみえるくらいに遅いとか」

「野中くん、鼓動の速さが生き物によって異なるというのはたしかなんだが、それは体の大きさに関係するんだよ。象のように大きい生き物の場合は遅くてネズミのように小さい生き物は鼓動が早い。だから女の子のように小さい場合はむしろ早くなければおかしい」

「そうですか。それじゃあやっぱりなんか秘密裏に開発されたウィルスが原因で、死んだ人がゾンビになるとか」

「ホラーが嫌いな割りにはくわしいじゃないですか」それを聞いた篠塚くんが軽口をたたく。

すると「え、ウィルス?」小路丸が心配そうに聞き返した。「どうしよう、大変なことになる……」それまでにこやかだった小路丸の顔が青ざめ始めた。

「映画の見すぎですよ野中さん。それにウィルスだったとしたら女の子の他にも亡くなっている人がいるわけですから、他の亡くなった人もゾンビにならなけりゃおかしいじゃないですか。だからウィルスじゃないですよ」篠塚くんが珍しく論理的なことを言う。

それを聞いた小路丸が「え、じゃあ安心していいってこと」と確認してきた。

「さなえさんごめんなさいね、変なこと言っちゃって。篠塚くんのいうとおりよ、だから大丈夫よ。山下さんは」小路丸の慌てぶりをみた野中さんもフォローする。

「どこかの惑星が爆発してその光がゾンビにしてしまったとかもなしですよ。そうだとしたらハイチだけじゃなくって世界中でゾンビが発生していなきゃおかしくなりますから」篠塚くんが釘をさした。

「うーん、じゃあ……」と言いよどむと野中さんは考え込んでしまった。おそらくゾンビ映画の記憶を振り返っているのだろう。

「ウィルスにせよ、惑星の爆発の光にせよ、そういったなんらかの外部的な要因で死んだ人が蘇ったとなると彼女一人だけが蘇ったというのが解せないねえ。だから極めて個人的な要因もしくは彼女だけに起こったなにかが原因なんだろうねえ」今井先生の言葉を聞いてみんな考え込んでしまった。

 会話がとだえ、店内が静かになるとそれを見計らったかのように「それではみなさん真打ち登場ということで僕の考えを述べさせてもらいましょうか」そう言いながら篠塚くんが立ち上がった。

「お、なにか考えがあるのかい」

「みなさんもご存じのように僕はIT企業で働いていて、そこでシステム開発をしています。ひらたくいえばプログラムを書いているわけですが、このプログラムってのは昔はともかく今はオペレーションシステムという土台の上で動くものなんです。まあオペレーションシステムもプログラムなので、プログラムの上で動くプログラムを作っているってことになりますが」

「親亀の上に子亀を乗せてって感じかねえ、なんか古代インド人が考えた世界みたいだねえ。蛇の上に亀が乗っていてその上に象がいて、とちょっと脱線したかな。失礼」

「考えたことはなかったですが、ひょっとしたらそれに近いものがあるかも知れませんね。ま、それはともかくとして、プログラムの動きはオペレーションシステムが管理しているいるんです。つまりプログラムが動くとそのプログラムに必要なメモリーが割り当てられて、実行リストに登録されます。そしてプログラムが終了すると実行リストから削除されて、割り当てられたメモリーは開放されてほかのプログラムのために使われます。でもプログラムにはバグがあって、もちろんバグのないプログラムもあるんですけれども、プログラムが複雑になればなるほどバグがある可能性は高く、バグが存在するとオペレーションシステムの管理から外れてしまう場合があるんです。どういうことになるかというと、オペレーションシステムからみた場合にはそのプログラムは終了しているようにみえるけれども、実際は動きっぱなしと。そういったプログラムのことを僕らはゾンビプロセスって言っているんです」

「ほほぅ、ゾンビって言葉がそこでも登場するわけかねえ。それにしてITのような世界にオカルトの世界の用語が使われるのも面白いねえ」

「そこで考えたんです。この世界もいわゆるオペレーションシステムのようなものが存在していて、それが動いているからこの世界が成り立っているんだと。で、そこに生きている僕たちはそのオペレーションシステムの上で動いているプログラムとみなすことができる。そして僕らの生き死にはオペレーションシステムが管理していて、死ぬとオペレーションシステム上では終了したとみなされるわけです。相互のプログラムはかならずしもオペレーションシステムを間に介してやり取りをするわけではないので、バグがあってプログラムが終了してしまったとオペレーションシステムに勘違いされてしまったプログラムでも他のプログラムから見た場合は生きているとみなされる。でもオペレーションシステムからは死んだとみなされている。彼女に起こったのはこれと同じできごとだったんじゃないでしょうか」

「ほほぅ、これまた随分とおおごとになってきたねえ」今井先生の顔がほころびはじめる。

「うーん、考えとしてはつじつまがあっていそうなんだけど、でもそれって立証できないんじゃない」野中さんが反論した。

「うぅ、そうなんです。あくまで仮定というだけで」

「しかし、現状我々が手に入れることのできる情報には限りがあるわけだし、仮定であっても矛盾がなければ検討材料の一つとしてみてもいいんじゃないかねえ」今井先生が助け舟をだした。

「それはそうですけど、それにしてもこの世界がひとつのオペレーションシステムだとかってのはちょっと話が大きくなりすぎなんじゃないですか。そこまでいってしまうとオペレーションシステムがどんなものなのかとか、現実と仮説とを結ぶための部分にたいしての検討要素が膨大になってしまいますよ。先生。これじゃあ先生の大好きなSFの世界ですよ」

「まあ、そうだよねえ。個人的には面白くっていいと思うんだけどねえ」

「それに仮にそれが正しかったとしてもですよ、オペレーションシステムが死亡したと勘違いするだけで、プログラムのほうからすれば生きたままでしょう。この女の子は一度亡くなっているんですよ。だからプログラムは一度死んでそして生き返るということでなければ辻褄があわないでしょう」

「うーん、そうだねえ、やはり篠塚くんの案は検討材料が多すぎるから優先度を下げておくことにしようかねえ」

「ところでさなえさんさっきから黙ったままで、聞いてるだけだけど、なにか考えがあるのかしら」野中さんは小路丸に話をふった。

 カウンターのなかにいた小路丸はいきなり話をふられて、わたし、と自分の顔を指差す。

「そうですね、いまのところ私もなにも思いつかないですね。いまでも先輩の早とちりなんじゃないかって思っているくらいで」

「えー、さなえさんもそう思っているのか。そうよね、やっぱり山下さんの勘違いかしら」

 すると「すみません、ぼくの考えを言ってもいいでしょうか」篠塚くんのとなりにすわって小路丸と同様だまって話を聞いていたバスティアンさんが言葉を発した。

「そうだ、おとなしくしていたからすっかり忘れていたけど、バスティアン、お前もなにか考えがあるっていってたよな」

「そーなんです、そーなんです。えーと、あれから考えていたのですけれど、ひょっとしたら重ね合わせが起こっているんじゃないでしょーか。シュレーディンガーのネコの話を知ってますか、みなさん」

 その場の全員が首を横に振った。

「これは量子力学の思考実験なのですが、まず一匹のネコと大きな箱を用意します。箱のなかには一時間後に50パーセント確率で電子を出す放射性物質と電子を検知したら毒ガスを出す装置が入っています。50パーセント確率で電子が出るので一時間後に毒ガスが出る確率も50パーセントになります。そしたらその箱のなかにネコを入れて蓋を閉じます」

「猫を殺しちゃうの」野中さん口に手を当てる。

「そー言われると困りました。ぼくは殺すつもりはないです。でもこれは実験なので残念ですが50パーセントの確率で死んでしまいます」生真面目な性格なのだろうか、バスティアンさんは困ってしまう。

「いや、野中さん、これは思考実験だから」篠塚くんが助け舟をだした。「バスティアン、いいから先をつづけて」

「わかりました。そーですね。えー、どこまで話しましたか、そーだ箱を閉じたところです。そーです。蓋を閉じて一時間待ちます。一時間経ったところで質問です。箱のなかのネコは生きているでしょうか、それとも残念なことに死んでしまったでしょうか」

「生きているか死んでるかは蓋を開けてみないことにはわからないんじゃないかねえ」今井先生が答える。

「そーです、そーです。ネコが生きてるか死んでるかは蓋を開けてみなければわかりません。でも量子力学で考えた場合、蓋を開ける前のネコは生きていると同時に死んでいる状態になっています」

 バスティアンさん以外の人の頭上にはクエスチョンマークが浮かんでいるようにみえた。

「このネコというのは量子を表しています。量子は物理現象の一番小さい単位なのです。この一番小さい量子の世界ではその量子の状態がどーなっているのかは確率としてしかわからないのです。このネコが量子よりも大きい単位だったならば蓋を開けなくても死んでるか生きているかのどちらかでしかないですけど、量子の単位になると生きていると同時に死んでいる状態になります」

「なんか混乱しっぱなしなんだけど。それって理解しなくちゃいけないことなの」野中さんが質問する。

「そんなことありません。量子力学は難しいので、量子の単位だとそういう状態になると思うだけでいいです」

「でも生きていると同時に死んでるってイメージできないんですけど私だけかな」野中さんはまわりを見回すがみんなも彼女と同じ表情をしている。

「……あ、そうか、生きてると同時に死んでる。それってゾンビと同じってことですよね、そういうこと。バスティアンさん」小路丸が聞いてきた。

「そーです。そーです。シュレーディンガーのネコはゾンビなんです。重ね合わせなんです」自分の言いたいことを理解してもらえたバスティアンは笑みを浮かべる。

「でもその重ね合わせが起こるのは量子という一番小さい単位の話でしょ。その話にでてくる猫はたとえ話で実際に猫を箱に入れてもそんなことは起こらないんでしょう」

「量子脳理論という理論があるのです。人間の脳は量子とおなじような動作……、ちょっとちがう、行動……ちがう、挙動……、えーとこれで意味わかりますか」

「ひょっとして振る舞いかしら」野中さんが答える。

「そーです。そーです。その振る舞いです。人間の脳は量子と同じ振る舞いをしているという理論です。本質的な形は量子と同一だという、そーいう理論があるのです。それが正しければ、女の子が死にそうになったときに彼女の脳のなかで生きているという状態から死んでいるという状態に変わろうとしたところで変化が止まって重なり合ったのです。そう考えました」

「なるほど、でもそんなに都合よくいくのかな」

「お母さんがなにかを飲ませたと言ってました。それが原因になったんだとおもうのです」

「なにかって、山下さんもっと詳しく言ってなかったの」野中さんが聞いてきた。

「ああ、そういえば粉末だっていってたな」篠塚くんが答える。

「やだ、ちょっと、ゾンビで謎の粉末でしかもハイチでしょ、そうしたらその粉末ってゾンビパウダーじゃない」野中さんが叫ぶ。

「ゾンビパウダーってなんですか、それはそうとホラーが嫌いっていいながらそういった知識はやけに詳しいですね。やっぱりホラーは大好きなんだ」篠塚くんが笑いながら言うと「好きなんてとんでもない、大嫌いよ。嫌だってのにお兄ちゃんに映画を見せられたり、話を聞かされたりしたから嫌でもそういう知識が入ってくるの」

「そのゾンビパウダーってゾンビにさせるのに使うものなんですか、野中さん」小路丸が聞く。

「そうね、ブードゥー教でのゾンビの場合、死体をゾンビにさせるのに使うのがゾンビパウダーなの。でも実際は河豚の毒であるテトロドキシンが含まれていて、その毒が原因で仮死状態になってしまい、そこから生き返ったのがブードゥー教でのゾンビだといわれているの」

「そうすると死体を生き返らせるんじゃなくって、生きている人を仮死状態にするってことですか」

「ええ、そういうことになるわね。そう考えると女の子も瀕死の状態からゾンビパウダーで仮死状態になって、それから生き返ったと考えることもできるわね。でもそれじゃあ心臓が止まったままというのは矛盾しちゃうか。やっぱりゾンビパウダーがそのバスティアンさんのいう量子脳理論の引き金になったと考えたほうがいいのかしら」

「だいぶ真相に近づいてきた気もするねえ」今井先生は嬉しそうだ。

「……ちょっとまってください。今の話が先輩のいる場所で起こったことだとしてもですよ、シュレーディンガーの猫の話にもどりますけど、蓋を開けるまでは重ね合わさった状態というところまではわかりましたが、蓋を開けたらどうなるんです。重ね合わさったままなんですか」

「量子力学の場合、シュレーディンガーのネコがそんな不思議な状態なのは蓋を開けるまでなんです。蓋を開けた時点で生きているか死んでいるかどちらかに決定します。観測するという行為が重ね合わせの状態を振りほどいてしまうのです」

「すると、バスティアンさんのいうゾンビというのは蓋を開けるまでしか存在できないってことでしょう?」

「そーですね。たしかにそーです」

「じゃあ、女の子がいまだにゾンビ状態ということは蓋が開いていないってこと? それともバスティアンさんの考えも違うってことなかあ」小路丸が言うと一同黙り込んでしまった。

「どうやら行き詰まってしまったようだねえ。時間も時間だから今日のところはこれでお開きにしてもいいんじゃないかねえ。結論は出なかったけれどもまったく無駄だったわけでもないしねえ。どうせ明日また山下くんから連絡がくるだろうから、そのときにまた新しい情報が手にいれられるかもしれないし」今井先生がそう言うとみんな立ち上がって帰る準備をしはじめた。

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