第3話 『お姫様抱っこ』

 俺の身体にほのかに残る柔らかな感触に、まだドキドキとしている心臓を落ち着かせながら、俺は部屋の中に入った。


 あーあ、やっぱりゴミ捨ててなかったわ。


 一気に現実に引き戻される。


 そこには当たり前に散乱した部屋。さすがにこの荒れた部屋を見られるのは恥ずかしいなあと思いつつ、先にタオルと絆創膏を持って風呂場に向かう。


 すると風呂場から声がした。


「あ、あのー! 足、どーやって洗ったらいいですかー?」


「は?」


 思わず不躾な返事をしてしまったが、ああ、そうか、風呂場の蛇口とか色んなタイプがあるしな。うちとは違う蛇口しか使ったことがなかったのだろう。


 自分の中で自己完結をして、女の子の元に行く。


 当たり前だが足だけ洗うつもりなので、彼女は服を着たままだ。


「ああ、このタイプの蛇口使ったことなかった? ここ、ひねったらお湯が出るから。ボディーソープはそれね」


 俺は蛇口を捻って見せた。勢いよくシャワーから出る水を左手で受けてお湯になるのを確認しながら、ボディーソープを指差して彼女に伝える。すると


「……ぼでぃ、そー、ぷ??」


 彼女がキョトンとした顔でそういうものだから、


「へ?」


 また、俺の喉から間抜けな声が出る。たとえ石鹸派だったとしても、年頃の女性なんだしボディーソープくらい知ってるだろう。これは俺の固定概念なのか?


「……まさか、ボディーソープ知らないとか、言わないよね?」


「……言わない方が、いいやつですかね?」


「いや、ウソつく必要はないと思うけど、つまりは、ないということですかね?」


「あ、はい。そうですね。……でも! なんかあわあわになることは知ってます!!」


 何だろう、この違和感。彼女は、“あわあわになることは知ってる” ことに、ドヤ顔をして見せた。



 世間知らずなのか? 感覚がズレているのか?


 一見育ちが良さそうなオーラがあるものの、やはりこの子はネグレクトを受けていたのだろうか。たまたま石鹸派で、ボディーソープを知らなかっただけなのだろうか。色んな疑問が浮かんだが、家庭事情は人それぞれだ。


「そう、あわあわになるやつだ。ほら、手のひら出して」


「え、あ、はい!」


「ちょっと水で濡らして、そのまま手で擦って泡立てて」


 まさか年頃の女の子にボディーソープの泡泡講習会を開くことになるとは思いもしなかったが、彼女は楽しそうだ。


「は、はい! わー! ほんとにあわあわになってきたー!」


 彼女は出来上がった泡に、まるではじめてのものに触れるかのようにワクワクした表情で目を輝かせた。その様子は少し子供っぽいなと思った。


「よーし、じゃあ、足にお湯かけるよ?」


「はい!」


 彼女の返事を聞いてからゆっくりと彼女の足にお湯をかけていく。彼女の足に当たった透明のお湯は、彼女本来の白さを取り戻すのと引き換えに、黒く濁りながら排水溝へと流れて行く。


「う……、い……たい!」


「え、ごめん! しみる?」


 それまでは痛がる素振りがなかったのでそこまで大したことはないと思っていたが、お湯をかけると彼女の足に出来た傷にしみて痛いようだ。


 泡を作った時はキラキラとしていた彼女の瞳は一気に涙目になり、俺の心臓がさっきとは違う意味で痛む。


「……ごめん、痛いかもだけど、傷口にバイ菌入ると良くないから、ちゃんと洗った方がいい。ほら、肩掴まってくれていいから」


 俺は片膝を付いて肩を貸しながら、ゆっくりと彼女の足にさらにお湯をかける。

 

 濁った湯が排水溝にどんどんと流れていくと同時に、黒さに隠れていた赤がどんどん鮮明になっていく。


 思っていたよりも傷だらけじゃないか。足の裏とか特に酷い。どのくらいの距離を裸足で歩いていたのだろう。


 せめて公園からここまでの道のりくらい、おんぶでもしてやればよかったのだろうか。年頃の女の子をおんぶと言うのも実際どうかとも思うが、傷だらけの裸足のまま歩かせた事に少し罪悪感を抱いた。


「痛い……もうやだ。もう無理。痛い……」


 さっき喜んで作った泡は、足に乗せられる事なく水気にやられて溶けていた。相当痛いのだろうか。泣かせたいわけではなかったのにと、心の中がざわざわする。


「……このくらいにしとこうか。せっかく綺麗な足なんだし、傷とか残らなかったらいいな」


 彼女の足は、傷があるのが勿体無いと感じるほど、色白でスラッとしていて実際すごく綺麗だが、普段の俺ならそんな事は絶対口に出さない。けれど、今は涙を浮かべる彼女を励ましたい気持ちもあって、そんな事を言った。そして


「きゃっ……!?」


 俺は彼女をお姫様抱っこした。俺の腕にすっぽりと収まり狼狽うろたえる彼女はすごく軽い。


 ちゃんとご飯食べてるのだろうか。あれこれ心配になってしまう。これが老婆心というやつなのだろうか。


「いや、足、濡れたままだし歩くのも痛いかなと思って。まあ、男の部屋に入ればこのくらいの事はされると肝に命じてくれ。このまま部屋まで連れていく」


 少し注意喚起も込めてそんな事を言った。頼むから他の男にはあんなことしないでほしい。でなきゃ普通お姫様抱っこくらいじゃ済まないぞ。


「あ、えと、はい。ありがと……ございます」


 ……え、ちょ、待って。こんな、素直? 男の部屋でお姫様抱っことか……もう少し警戒するとか嫌がっても良さそうなものなのに。そんな真っ直ぐ俺の顔を見つめないで欲しい。


 彼女は素直に俺に抱っこされたまま俺の首に腕を回している。顔……近いんですけど。俺が……ドキドキして来るんですけど。


 部屋まで連れていき、ラグの上に座らせる。生憎俺の部屋には椅子なんてものはないし、女性をベッドに座らせるよりはマシだろう。


 足を拭き、傷口に絆創膏を貼りながら彼女の顔を見る。彼女の眉尻は下がったままで、出会った時から被ったままのパーカーのフードもまだ被ったままだ。お姫様抱っこする時に脱げそうなものなのに、意外とそれは頑丈でそこに居座り続けている。

 

 家出だから顔を隠しているのかなと思っていたけど、部屋に入ってもなお被ったままなのは、何かを被っている事で安心感があるのかもしれない。そう言う人間は割といる。


 部屋の中でフードを被っている事に違和感を感じるのは確かだが、何やら訳ありなのだろう。まだそこには触れないでいようと思った。


 ただ、しんみりとした顔よりは、さっきみたいな明るい顔をしていて欲しい。


「よーし、ごはんにするかあ!」


「やったー!」


 しんみりとした空気を変えたくて、わざと明るく言った俺の言葉に彼女も明るい声で返事した。少し安心する。彼女はどんな表情をしていても可愛いが、それでもあまり泣き顔は見たくないと思った。  

 

 男は女の涙に弱いと良く言うけれど、そりゃ、あんなに罪悪感を感じるのは誰だって心が痛むだろう。やっぱり笑っていて欲しいと思うものだ。


「お腹空いてそうだし、カップ麺でもいい? 何か作ってもいいけど、それだと時間かかるし」


「え? 食べられるならなんでも!」


 カップ麺なんてやや失礼かとも思ったが、彼女は弾んだ声で返事した。さっきまでの泣き顔はすっかり晴れて、彼女らしい明るい顔になっている。その顔に俺の心も一気に晴れる。ああ、よかった。


 心労の後に彼女の見せる笑顔は、そのギャップも伴ってとんでもなく可愛かった。


 俺の散乱した部屋の真ん中に座るとんでもなく可愛い女の子。清純そうに見える彼女が居るには相応しくない。


 後でちゃんと片付けよう、そう思いながら、俺は床に散らかっていた水着姿のアイドル達が表紙の漫画雑誌達を、なんとなくベッドの下へと隠すのだった。


 ——まさかその水着写真のせいで、"あんなこと” が起こるなんて、その時の俺は知るよしもない。

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