2‐A 執
どうして、その人の後をつけようと思ったのかは、いまとなってははっきりしない。脚の綺麗な人だった。もっとも人によっては、ただ細いだけと評価されるかもしれない。
はじめて、その人を見かけたのは電車の中だった。会社帰りの電車、八時二十二分発の準急だった。勤め人はたいていそうだが、わりあい決まった時間帯に電車に乗る。もちろん残業の時間とかは日によって変わるから、ずれることもたびたびある。でも、『しばらく見かけないけれど、どうしたのかな?』と思っていると、見知った顔がまた同じ電車に戻ってくることがしばしばだった。
彼女は髪を茶色に染めていた。いわゆる茶髪だが、元の髪の色も薄いと思わせる、透き通るようにきれいで滑らかな髪質をしていた。また指も細くてしなやかだった。あの指や手でいったいどんな仕事をしているのだろう。それは知りようがなかった。とにかく週に二日くらい、ぼくは彼女と同じ電車に乗り合わせるのが精一杯だった。いつも同じドア付近に居られるとは限らないが、ひとつ離れたドアから乗った場合でも、ぼくの目は必ず彼女の姿を探し求め、また発見したときには、心の中で幸運を感謝していた。
もっとも彼女がぼくの記憶に特に強く残った第一の理由は、彼女の降車駅がぼくと同じ駅だったからだ。そうでなければ、後に偶然コンビニで見かけることもなかっただろう。もちろん降車駅が同じことは、彼女を気にかけた最初の時点で気づいていた。ただ、彼女はいつも足速に改札から街中へと消え去ってしまうので、どちらが家の方向か確かめる術はなかった。
ぼくは年令の割には、会社帰りはいつも疲れきり、速く歩ける気分になどなったことがない。だから、ぼくのアパートの近くにある行きつけのコンビニがその時期にたまたま改装をはじめなければ、ぼくの帰り道とは反対方向にあったそのコンビニに寄ることはなかっただろう。
コンビニに入ったときには気づかなかった。惣菜を買いに寄っただけだったからだ。しかし、レジに向かうと彼女がそこに並んでいるのに気がついた。振り返らなかったので、彼女はぼくに気づかなかったが――もっとも、しばしば同じ電車に乗り合わせているので、顔くらいは憶えていたかもしれないが――、ぼくは彼女の後ろ姿は見慣れている。見間違えるはずはなかった。しかしその日は、ぼくは彼女の後をつけなかった。そんな考えは想い浮かびもしなかった。ただ、『ふうん、こっちの方に住んでいる人なのか?』と思っただけだ。
けれども、それからしばらくして、ぼくはまたそのコンビニに立ち寄った。彼女がいた。ぼくが入るときには、すでに帰るところだったようで、ビニール袋を下げて、ドアに向かっていた。ふと、ぼくの目が彼女の指に止まった。いつもと違う指輪をしていた。それまでも、彼女は左手の薬指に指輪をしていた。それほど高級ではない普通の指輪だ。用心用(男避け)の指輪だったのかもしれない。けれども、その日の指輪はかなりの高級品に見えた。もちろん、ぼくの見立てなど当てにはならないが、気分というのは、ときに勘に変わることもある。ぼくは少し興味を持った。恋人から貰ったものだろうか、あるいは稼ぎの悪い旦那がようやっと彼女に買い与えたものなのか、それともただの気分の変化か、ぼくの頭の中を想いが巡る。そして、それを確かめようと思ったわけではないが、頭の端で彼女の家を探ってみようという考えが浮かんだ。
彼女の足は速い。だから、ぼくは大急ぎで買い物を済ませると、それでも気分は急かないようにしてコンビニを出た。左右を見やると、商店道の先の方に、ぎりぎりといった感じで、だんだんと小さくなってゆく彼女の姿が見えた。ぼくはその方向に近づいていった。が、その先の角を曲がると、彼女の姿が視界から消えた。ぼくはあわてて後を追った。同じ角を曲がると、かなり大きな彼女の姿が見えた。たったそれだけの速足だったのに、ずいぶんと距離が近づいたようだ。彼女が振り向けば、気づかれたかもしれない。そこで、ぼくは少し距離を開けることにした。だが、尾行のプロでもないぼくに上手くことを運べというのは無理な相談だ。住宅地に入って路地の数が増えてくると、充分な距離を保っていたぼくは、たちどころに彼女を見失ってしまった。どこにも彼女はいなかった。また、急に電気の点いた家やアパートも見当たらない。ぼくは途方にくれた。そこで、しばらく辺りをうろつき種々の家の門構えや建物の形状などを見届けると、すごすごと家に帰った。その日は、それだけで終わった。
それからしばらくの間、ぼくは仕事が忙しくなって、帰りも遅くなった。だから、電車でさえ彼女と逢えない日々が続いた。そういう境遇になってみると、味気ないぼくの日常を彼女がささやかながらとはいえ潤していたことに、改めて気が付かないわけにはいかなかった。だから仕事が一段落して、またあの時間の電車に乗れるようになったとき、ぼくは思わず頬を綻ばせていた。
彼女は電車に乗っていた。前と変わらない彼女だった。吊革を掴む左手の指輪は以前からのものに戻っていた。「また、何かあったのかな?」とぼくは思った。が、思っただけだった。そして電車を降りると、ぼくはまた彼女の後をつけることに決めた。今度は見失いたくないと思った。だがまたしても同じ界隈で、ぼくは彼女を見失ってしまった。どっと疲れが押し寄せてきて、急に情けなくなってしまった。いったい、ぼくは何をやっているのだろう? そして、ふいに上を見上げると、彼女がいた。数件向こうのアパートの三階の窓から姿が覗いたのだ。洗濯ものを取り込んでいた。今日は天気が良かったし、天気予報も『雨は降らない』といっていたので、出しっ放しにしていたのだろう。男物の衣類はなかった。アパートの三階なので、その用心はしていないようだ。と、そのとき、ふと彼女の手が止まり、その顔がぼくの方を向き、怪訝な表情を浮かべた。ぼくはもちろん、たまたまそこを通りかかったという風の何気なさを装って、ふらふらとただ歩みを進めた。その時点で顔を背けてしまっていたので、その後彼女がぼくを見続けていたかどうかはわからない。道の向こうまで歩くと、ぼくは別の道を通って自分の家に帰った。
だが、家に帰り着いて数時間すると、ぼくはまた彼女の顔が見たくなった。たまたま、ぼくは友人の<悪党>から万能鍵を貰っていた。二本組の変わった鍵だ。悪党の本当の職業は知らないし――まさか鍵職人ということはあるまい――、またそれが彼女の家のドアを本当に開けてくれるという確信もなかったが、万能鍵は、ぼくの家のドアの鍵を開けた。会社の会議室も開けた。別の友人のアパートの鍵も開けていた。だからその万能鍵が彼女の家のドアを開けてくれる可能性は高いといえた。けれども、ぼくにそんなことができるだろうか? こんな臆病で無能なぼくに…… でも、いや、ぼくには彼女を襲う気はない。ただ、彼女の顔が見たいだけなのだ。彼女の顔を見て、あのきれいな足を眺められれば、それで満足できる。どうしよう? 行こうか、それとも止めようか? 別にどうってことないじゃないか、と思ってみたりもする。止める気ならば、彼女の家の前に行ってからでも充分間に合う。だから、ぼくは彼女の家に行くことに決めた。季節は初春。今夜はあまり暖かくはないが、かといって寒いわけでもない。ぼくは薄いブルゾンを羽織ると、やっぱり少しわくわくしながら、自分のアパートを後にした。
二〇分ほど歩くと、彼女のアパートの前にまで辿り着いた。部屋の電気は消えていた。たぶん、もう寝てしまったのだろう。時刻は三時を少しまわっていた。鉄筋製の質の良い建物だった。アパート自体のセキュリティは、万能鍵・電子用で難なく通過できた。だから、ぼくはすんなりと彼女の部屋の前まで行き着くことができた。そして、逡巡。辺りには、特に変わった気配はない。ぼくは意を決して彼女の部屋のドアの鍵穴に万能鍵・通常用を差し込んだ。カチャリという音が、ぼくの耳にひどく大きく聞こえた。が、部屋の気配は変わっていない。ぼくはノブを掴むと、ゆっくりとそれをまわし、ドアを開けた。
目が暗闇に馴れるまでに少し時間がかかった。しばらくしてから確認すると、そこはそう広い部屋ではないことがわかった。たぶん、本当にひとり暮らしなのだろう。薄いカーテンをくぐるとキッチン兼居間があり、その奥に襖があった。そこが寝室なのだろう。ぼくは音を立てないようにゆっくりと入り口のドアを締めると、そろそろと襖に向かった。途中、キッチンのテーブルの上に、中抜けの三角形が逆方向に二枚重なったペンダントが置いてあるのに気がついた。
そして、ぼくは襖の桟と壁の隙間に指を這わせて、部屋を仕切るそれをゆっくりと開けていった。
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