第2話 魔術と魔法
本を読むのは好きだ。
娯楽の少ないこの世界にとって、私に現実を忘れさせてくれるから。
暇を持て余す私の為に、両親が古本屋に赴いては汚損した本を買ってくるようになったのは最近だ。
初めは絵本や紙芝居だった。
日に焼けて汚れたそれを持って帰った母が、うろ覚えで昔話を語ってくれた。
紙の裏に書かれた文字を見て、覚えて、誦じて。
日中に預けられる孤児院で、ベッドや椅子の上で過ごす私の精神を案じた神官が、文字の読み書きについて学んではどうかと提案してきた。
その話を聞いた両親がいたく喜んで本を買ってきたのだ。
下半身が動かなくても出来る仕事は限られている。
学校なんて通える身分でもなく、家庭教師を雇えるだけの稼ぎはない。
きっと、藁にも縋る思いで、二人は本屋に通っていたのだろう。
末の娘が自立できる道が転がっていないかどうか。
その僅かな可能性が落ちている事を願って、叩き売られている本の内容も知らずに買ってくるのだ。
すぐにトイレに行けるよう、一階の倉庫を自室として利用している。
そこが私に与えられた部屋だ。
自室の壁を埋め尽くす勢いで並ぶ本棚の中から目当ての本を探す。
「あった。魔術教本」
五十年ほど前に発刊された本だ。
乱丁・落丁と汚損が酷かったので、かなり安く買えたのだろう。
古めかしい建物や、古風な暮らしぶりから、私は文明が未発達な世界に転生したのかと思った。
この本を親が持ってきた時も、あまりに怪しいそのタイトルから積んだまま放置していた。
だが、魔法というものが存在するのなら、話が変わってくる。
本棚から見つけた本を、私は躊躇いもなく引き裂いた。
ハードカバーを剥がし、背に張り付けられた紙を丁寧にナイフで切り取っていく。
他の家族は文字が読めないし、本に興味はないので、私が本をどうこうしようとしても気にしないだろう。
ページ下部と目次に従って、乱丁を直していく。
内容や語句から、パズルのように並べ直していく作業。
落丁はどうにも出来ないが、どのページが抜けているのかを推理する。
「ルチア、リルを風呂に入れて」
「は〜い」
母と姉に世話をされながらも、私の頭の中は魔術教本についてずっと考えていた。
魔法とは、奇跡である。
貴い血に宿る神からの贈り物。
その魔法を無辜の民に使うからこそ、王侯貴族は特権を保持する。
一般市民や庶民にとって全く馴染みのない言葉から、魔術教本の内容は始まる。
魔法はあまりにも規模が大きく、扱うには天性の才能を必要とする事から、出力を調整した『魔術』が生まれた。
それでも、取り扱いには細心の注意を必要とする代物ばかりなので、軽い気持ちで試してはならないと注意書きを記している。
私に魔法を使えばいいと言っておきながら、ミーシャが慌てた理由がよく分かった。
生まれた環境が違えば、魔法や魔術について知識もないままに困り果てて落ち込んでしまっただろう。
貴族でもなければ、魔法の使い方について学ぶ機会すら与えられない。
「あ、タオル忘れたわ。すぐに取ってくるから、待ってて」
浴室から離れた姉の目を盗んで、私は魔術教本の中身を思い出し、呪文を唱える。
それは最も原始的な魔術。
スライムという粘液の魔物に対抗する為、人々が編み出した攻撃魔術。
「
湯気の漂う浴室から、温度が消えた。
若白髪の髪から滴っていた雫が固まり、体温を奪っていく。
ほう、とため息を吐いた。
白い息が冷えた空気に溶けていく。
「これが、魔術。たった一言、たくさんの魔力を使うだけで、部屋の温度を下げる事が出来るのか」
大量の酒を飲んだ時のような酩酊感。
きっとこれが魔力枯渇なのだろう。
「魔法は、これよりも凄いのか」
────歩けないなら、魔法を使えばいいじゃない。
ミーシャにとって、純粋な疑問だった。
きっと、特権階級の貴族にとって、身体の故障はすぐに治癒できるものでしかなかったのだろう。
一人で動けない私の絶望を彼女は知らない。
だからこそ、ポツリと呟いた。
私の下半身麻痺は、庶民の稼ぎでは治癒できない。
庶民として生きている限り、この足が動く見込みがない事は誰よりも私が知っている。
貴族の仲間入りを果たせば、この足が動くかもしれない。
確実とは言えないし、やはり他人に依存した生活を余儀なくされるだろう。
だが、本当にそれだけだろうか?
「魔術をもっと上手く使えたら、足を自在に動かせる?」
足がどういう原理で動くのか、知識はある。
朧げであるから、詳細を突き詰める必要はある。
失った機能を魔術で補助できれば、自分の意思で足を動かせるようになるかもしれない。
もう誰かに助けを求める必要もない。
相手の事情を慮る必要もない。
自分の意思で行き先を決められる。
「そうか。それこそが、私の幸福だったのか」
生きているだけで幸福なのだと、人々は言う。
あの大怪我で命を落とさなかっただけでも喜ぶべきだと。
きっと彼らは知らない。
人々から向けられる奇異と好奇心、言葉の端に滲む憐れみを感じた際の居心地の悪さ。
溶けていく氷。
ぬるさを取り戻す浴室で、私は掌をこぼれ落ちていく水滴を眺めた。
魔術と知識を我がものとする。
惰性で過ごしていた日々に明確な希望と目的を抱いたのは、五歳の時の出来事だった。
浴室の扉が開く。
そこにはタオルを抱えた姉の姿があった。
「ごめんね、リル。母さんがタオルを洗濯したまま干していたのを忘れていたみたい。すっかり冷えちゃってるわ」
「気にしなくていいよ」
多忙な母に代わって、姉ルチアが私の世話をする。
着替えの補佐や送り迎え。
十五の思春期にとって、最も遊びたい時に誰かの世話や介護を任される。
下手すれば、一生だ。
「ルチア姉さん、これからお風呂は私一人で入るよ」
楽な方に流される人生は、これで終わりだ。
これからは自分の事は自分でやらないと。
「何言ってんの。一人じゃ出来ないでしょ」
「出来るようにしていく。私はもう子どもじゃないから」
母によく似た顔をした姉のルチアは、私を困惑した目で見ていた。
流石に前世の記憶がある話はしていないし、話しても困らせるだけだろうから打ち明けるつもりはない。
「母さんに怒られちゃう」
「母さんには、私から説明しておくよ。ルチア姉さんも、自分の時間が欲しかったでしょ」
手を伸ばし、ルチアの手からタオルを取る。
自分の髪を拭き、体を拭く。
下着を着て、ワンピースを被れば、最低限の身嗜みが整う。
「ほら、一人で出来た」
両手を広げてルチアを見上げる。
彼女は肩を竦め、手間が省けたわと呟いた。
なんか、最近のリルは変わったね。
孤児院に向かう道の中で、すれ違う住民がそう話しかけてくる。
「私、そんなに変わったかなあ。恋はしてないんだけど」
「前からリルは変わってるよ。色んな意味で」
前世の記憶があるから、五歳の子どもらしく振る舞う事に抵抗があるのは事実だ。
さすがに人前でひっくり返って、死にかけのセミのように泣き叫ぶのは無理。
「そっかあ。変わってるのか。私は」
荷物の運搬に使う手押し車の上で揺すられながら、街の景色を眺める。
いつもと変わらない街並み。
等間隔で並ぶガス灯。
通りを駆ける馬車。
自転車に乗って新聞を配達する少年。
街と街を繋ぐ蒸気機関車。
あまり世界史に詳しくはないが、街並みを表現するなら、きっとヴィクトリア朝のイギリスが雰囲気として似ているだろう。
「自転車か……」
ふと、石畳の上をスイスイと走行していく自転車が目に入った。
この世界には、車椅子が存在しない。
両足が動かないこの体では、松葉杖も役に立たないので、移動は他人に運んでもらうしかないのだ。
手元にある魔術教本は組み立て直したが、落丁がある。
それに版も古いので、最新ではない。
多忙な両親と姉に寄りかかる生活では掴めないだろう。
移動手段の確保。
これを魔術で行えないだろうか。
「着いたよ」
手押し車の揺れが止まる。
考えに耽っている間に、孤児院に到着したらしい。
私を抱え上げたルチアは、孤児院の神官に軽い挨拶をして部屋に運び込む。
ベッドに降ろされた私はルチアに手を振った。
「ありがとう、ルチア姉さん。お仕事、頑張ってね」
「リルも神官さんに迷惑をかけちゃダメよ」
ルチアの背中を見送る。
部屋の廊下から、次は窓の外を見る。
ルチアは邪魔にならないように三つ編みにした髪を揺らし、孤児院の向かいにある服屋の扉を潜った。
針子の時給は高くない。
何時間もかけ、何着もの服を仕立てて勝ち取った給金は、私を孤児院に預ける為の支払いに消える。
決して裕福な家庭ではない。
今は良くても、景気が傾けば破綻する。
使える魔術が増えれば、仕事になるかも。
ここ最近は、魔術の事ばかりを考えている。
どの場面でなら魔術を使えるか。どの魔術が応用できるか。
ぼーっと無為に時間を過ごすか、読書するか。
その二つだけを繰り返したこれまでに比べれば、たしかに周囲を見回して考えに耽る姿は変わって見えるのだろう。
今日は、子どもたちが孤児院の庭で遊ぶ日だ。
絵本の読み聞かせや慰問とは違い、私のところを訪れる人はいない。
「
原始の攻撃魔術を唱える。
いくつもある攻撃魔術の中で最も攻撃力が低い。
下水道や沼地に棲息する魔物『スライム』は形を変える。
俊敏な動きで翻弄する為、雷撃や炎では巻き込まれる事故が多発したらしい。
魔術教本によると、この『氷結』で行動を阻害している間に、核となる魔石を砕いて討伐するらしい。
そして、凍った粘液を採集して錬金術の素材に使うそうだ。
本の糊としても活用されていると記してあった。
『氷結』は、近くの水を凍らせる。
周囲に水がなければ発動すらしないと説明されていた。
ほう、と息を吐く。
空気と呼気の温度差によって、水分が目に見える形となって現れる。
湿度。
大気中に含まれる水蒸気化した水分の比率を示す尺度。
空気中の水分が集まり、雲が生まれ、雨が降る。
降り注いだ雨は地中を通り、川へ流れ、海に辿り着き、太陽の光によって温まった海水が蒸発し、雲になる。
そうやって天気は移ろい、水は循環してゆく。
だが、この世界では、天候は四大精霊が操るものだと信じられている。
私が思うに、この世界の魔術や魔法に関する分野の進歩は凄まじい。
魔法で大雨を晴らした。魔術で岩を砕いた。
思い通りに変更できるからこそ、人々は記録し、観察しない。
する事に意義を見い出せない。
だって、思いのままに変わるのだから。
靴紐が解けても、すぐに結び直すように。
あるいは、靴紐を必要としない靴に履き替えるように。
どうして解けるのか。
どうやって解けるのか。
いつ解けるのか。
結び方によって違いが生まれるのか。
きっと中には好奇心に駆られて突き詰めた人はいるだろう。
それでも、他の人に共有する事なく埋れたのだろう。
「……出来た」
手の中に、小さな薔薇が花弁を広げていた。
周囲から水分を奪って咲き誇る花の女王は、鋭い冷気を周囲に放つ。
おいそれと攻撃力のある魔術を使うわけにはいかない。
『氷結』以外に手頃な魔術を見つけられなかった私は、ひたすらに突き詰めた。
魔術の応用ばかりを考えるのも、きっとそれが理由だ。
常識を疑え。
前世の科学者たちは既存の常識を根底から否定し、摂理の解明に観察と実験を徹底し、再現の為に試行を繰り返したという。
『氷結』の魔術の原理の解明。
今の私に出来る事は、これぐらいだ。
水分を操作し、望む形に整える。
単純な作業だが、これがなかなか難しい。
あまり魔力の多い体ではないようで、たった数回の試行で魔力欠乏に陥る。
体が適応しているのか、あるいは筋肉のように成長しているのかは分からないが、本当に少しずつ増えている実感はある。
なんでも出来ていた前世に比べて、本当にミリ単位の進捗。
平凡に当たり前に歩けていた記憶があるからこそ、現状があまりにももどかしい。
「『氷結』は温度を下げる魔術だ」
魔術は、呪文を唱えるだけでは発動しない。
その言葉が何を意味し、どんな結果をもたらすのか詳細なイメージをした上で、十分な魔力を持っていると発動する。
この『氷結』の応用例として、砂漠での行軍の際に水を凍らせて周囲の温度を下げる手法が挙げられていた。
その応用例を見た際に、疑問に思ったのだ。
どうして、大気そのものを下げないのだろうか。
氷を持ち運ぶとなれば、それを動かす為の人手が必要となる。
空気を冷やせば、すぐに解決できる。
そう思った私は何度も『氷結』を使い、あの手この手でアレンジできないものかと弄り回し、周囲の液体を凍らせるという説明文の意味を考えた。
大気中に水分がある事を、人々は知らなかったのでは?
この『氷結』を唱えても何も起きなかったのではなく、魔力の無駄遣いを無意識に避けていたのでは?
気づきと発見。
それを積み重ねて、分析して、考えて、本を捲る。
受験勉強には明確な答えがあった。
研究には先行資料と答えを導いてくれる教授がいた。
でも、この道には答えがない。
困っていても、手を差し伸べてくれる人はいない。
手の中の薔薇に魔力を込める。
『氷結』とは真逆の運動。
分子の揺れ動きに伴う温度の上昇と結合の破壊。
「
蒸気を放ちながら、薔薇が溶けていく。
雫はベッドシーツを濡らす事なく、空気中に混ざり合って消える。
部屋の温度は緩やかに上昇し、やがて緩い温度となった。
ふう、と息を吐く。
ここ数日はずっと魔力を使っている。
少し魔力欠乏には慣れてきた。
あまり気持ちのいいものじゃないが、卒倒していた二日目よりはかなりマシになってきた。
「慰問までには形になったなあ」
前回の慰問の際、ミーシャに八つ当たりをしてしまった。
鑑定の水晶玉とかなんとか言っていたが、貴族の令嬢が孤児院に託児される子どもの為に屋敷から何かを持ち出すのは難しいだろう。
きっと親に怒られてしまったかもしれない。
薔薇が好きだと語っていた彼女の慰めになればいいと思ったが、果たして喜んでくれるだろうか。
夕焼けのような髪と瞳をしたご令嬢の事を思い出しながら、私は窓の外を駆ける子どもたちを眺めた。
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