episode17「Red Zone!」
かつて、一人のエリクシアンの人相書きがゲルビア帝国内で出回った。皇帝、ハーデンはそのエリクシアンを捕らえるために帝国兵を各地に派遣し、国民にはその者を捕らえれば多額の報償金を支払うとした。
当然、帝国兵や一部の国民は血眼になってそのエリクシアンを捜した。当時はエリクシアンという言葉もなかったため、懸賞金のかかった謎の少年として各地で捜索が行われた。
しかしその少年が帝国に連れてこられることはなく、行方不明のまま懸賞金は取り下げられた。
ある時を境に、誰もその少年を捕らえようとは考えなくなったのである。
赤き破壊神。
血染めの少年が、数十人の帝国兵を惨殺し、生き残った者達が彼の噂を吹聴し始めたその日から……。
***
否、正しくは出方を伺っていた……と言った方が正しい。
チリーは身じろぎせずその場に立っていたが、刺すような敵意をサイラスに向けている。それを全身に感じながら、サイラスは身震いした。
「これだよ、俺が求めていたのは……ッ!」
その言葉と同時に、サイラスが跳ねる。
もう出方を伺うのも馬鹿らしかった。
どう見てもあちらに理性はない。だとすれば、これはもう獣と獣のぶつかり合いだ。
チリーへと高速で迫るサイラスだったが、チリーは未だ身動き一つ取らない。
しかしサイラスの爪が迫ってきた瞬間、チリーに異変が起きる。
「ッ!?」
突如、チリーを覆う血が弾けるようにしてその質量を増す。そしてサイラスとチリーの間に真っ赤な壁を形成した。
サイラスの爪が、血の壁をえぐり取る。飛び散った血が周囲に滴ったが、それらは即座にチリーの身体へと戻っていく。
チリー本体に傷はない。
舌打ちするサイラスの身体に、チリーの真っ赤な手が伸びる。
その形状は手刀。
だが打撃ではない。鋭利に尖ったその手は、明らかに刃物の形状を取っていた。
咄嗟に身をかわし、サイラスは数歩距離を取る。そして体内で魔力を練り上げると、ソレを思い切り口から吐き出した。
魔力は火炎へと変わり、チリーの身体を炎が包み込む。
「チリーっ!」
ミラルの悲鳴が上がる。
ラズリルは竦んだまま、ただその光景を見つめ続けていた。
「まだだろ?」
期待するようなサイラスの言葉に、応えるようにして炎の中からチリーが飛び出してくる。真っ赤な身体の所々に火が残っていたが、大して気に留めている様子もなかった。
もっとも、何かを気に留めるような理性が、今のチリーに残っているとは思えないが。
チリーの身体を覆っているあの赤い被膜の正体は、考えるまでもなく血だ。それも極めて魔力濃度の高い血である。
ゲルビア帝国の研究では、エリクシアンの魔力は血と共に身体を循環するとされている。血液内の魔力の濃度はエリクシアンによって違うが、基本的に”飲んだエリクサーの濃度”に比例する。
サイラスは初期に作られた濃度が高く、死亡率の高いエリクサーによってエリクシアンになったため、血液内の魔力濃度が極めて高い。このタイプのエリクシアンは帝国では
そのため、サイラスがこのレベルのエリクシアンを知らなかった、というのは本来あり得ない話なのだ。
「冗談じゃねえぜ……テメエみてえなバケモンを俺が知らなかったとはよォッ!」
しかしそれは、サイラスにとってはサプライズプレゼントのようなものだ。今この瞬間の全てに、サイラスは狂喜する。
そして再び、サイラスとチリーの応酬が始まった。
チリーの動きは、先程サイラスと戦っていた時のものとはまるで違う。僅かな癖も残っておらず、サイラスからすれば完全な別人と戦っているような気分だった。
別人どころか人間ですらない。得体の知れない奇怪な怪物は、サイラスの予測とはズレた動きを繰り返す。
サイラスの反撃は例の血の壁でほとんど自動的に防がれてしまうため、今のチリーは防御や回避と言った行動を一切取らない。言わば一挙手一投足全てが捨て身の一撃と同じなのだ。
サイラスはすぐに、人間と戦っている、という感覚を捨てた。
これまでの戦いのノウハウは通用しない。未知の戦いである。
それが、サイラスの全神経を昂らせた。
呼応するように魔力が高まり、サイラスの纏う鱗も、爪も、角も、牙も、全てが強度を増した。
「ハ……ハハッ……ハハハハハハハッ!」
チリーの手刀を左の爪で弾き、右の爪でチリー本体を狙う。
当然チリーは血の壁を出現させたが、サイラスはソレを強引に突破した。
壁をぶち抜き、サイラスの爪がチリー本体へ届く。
直撃した瞬間、チリーが微かにたたらを踏む。身体を覆う被膜は、それ程強固なわけではないのだろう。
そのまま左の爪で連撃をぶち込むと、チリーの身体は後方へと弾き飛ばされていく。
サイラスは追撃をやめるつもりはなかった。
翼を翻らせ、上昇すると再び体内で魔力を練り上げる。
ありったけの火炎を、チリー目掛けて放つのだ。
しかしその視界の先で、サイラスは四つ足の態勢でこちらを見据えるチリーの姿を見た。
「そう来るかよッ!」
今のチリーの顔は、目の位置が黒く凝固していること以外は何もなかった。しかし突如、顎の部分がガバリと開き、漆黒の空洞が覗く。そしてその中には、膨大な魔力が込められていた。
そこから放たれるのは赤黒い閃光。魔力によって形成された熱光線だった。
チリーの熱光線に合わせるようにして、サイラスは極大の火炎を放つ。
互いの間でぶつかった火炎と閃光が魔力を迸らせながら周囲を破壊していく。
壊されたシャンデリアが、勢いよく床へ落ちて砕け散った。
既にホールは半壊状態。ラズリルは慌ててミラルとシュエットをかばうようにしてその場に伏せた。
火炎と熱光線は派手にぶつかり合い、その場で対消滅する。
それから間を一切置かず、チリーとサイラスは再び正面からぶつかり合った。
「やめて……チリー……もうやめてっ!」
激しい衝突を繰り返し、チリーもサイラスもダメージを負っている状態だ。チリーの被膜は所々剥がれており、サイラスは徐々に人間の姿に戻りつつある。牙や角、鱗は残っているが顔の形はほとんど人間に戻っていた。
互いにボロボロになりながらも、二匹の獣は戦いをやめない。
その凄惨な光景が、ミラルの心を締め付ける。
「そうだッ! 俺とお前は同じ獣だッ! このまま
サイラスの一撃が、チリーに直撃する。
既に血の壁を出す余裕がなくなっているのか、チリーはそのまま弾き飛ばされて倒れ伏した。
それでも立ち上がろうとするチリーを見て、ミラルはラズリルを振り解いてチリーの元へ向かおうとする。
「ま、待てミラルくん! 死にたいのか!?」
「このままじゃ……このままじゃチリーが死んじゃうわ! 聖杯でなんとかしないと……っ!」
「だからって君が死にに行ってどうする!? ラズ達じゃ近づいただけで死ぬよ……!」
ラズリルの言っていることは、ミラル自身よくわかっている。
けれどこのままでは、本当にチリーが死んでしまう。
聖杯の力で何かが出来るなら、このままジッとなんてしていられなかった。
自分の力の無さに歯噛みして、ミラルが拳を握りしめていると、その肩にそっと触れる手があった。
「え……?」
そこにいたのは、外で戦っていたレクス・ヴァレンタインだった。
「状況はわからんが、話は少し聞かせてもらった」
「レクス……さん……!」
「信じ難いが、アレがチリーか……。なんとか出来るんだな? それなら、俺が時間を稼ぐ」
起き上がり、尚も戦いを続けるチリーと応戦するサイラスの元へ、レクスは向かう。その背中を、ラズリルが呼び止めた。
「……あれは戦いの次元が違う。いくら君でも死ぬかも知れないぞ」
ラズリルは、現在の状況に完全に萎縮し切っていた。
想定の数倍の力を持つサイラスと、得体の知れない変貌を遂げたチリー。最早生きていることすら奇跡だと思える程に、ラズリルは現状を絶望視していた。ラズリルが想定する最善のパターンでも、少なくともチリーの命は保証されない。
しかしレクスは、振り向かずに不敵に笑う。
「チリーは俺が守るべきものを守り、俺が戦うべき相手と戦った……。なら、命くらい賭けてやるさ」
瞬間、レクスが駆ける。
身の丈ほどもある
「サイラス! 今度は俺の相手をしてもらう!」
「退けよ腑抜けェッ! もうテメエに用はねェッ!」
即座に、サイラスの爪がレクスを襲う。
レクスはそれを
チリーとの戦いで消耗しているサイラスは万全の状態ではない。時間稼ぎが可能だと判断したレクスだったが、すぐにそれが甘い判断だったと気づく。
(こいつ……ッ!)
尋常ならざる竜の膂力が、
アダマンタイトは魔力に耐性を持つだけでなく、通常の鉄と比べてもかなり強度が高い。普通の剣なら、今の一撃でへし折られ、最悪身体ごと持っていかれる可能性もあった程だ。
だがレクス・ヴァレンタインは、もう逃げることはしない。
正面に敵がいるなら、まっすぐに立ち向かう。
守るために。
「お前にはなくてもこっちにはあるんだよッ!」
「今更か!?」
「ああ、今更だッ! 遅くなって悪かったな!」
自身に出せる最大の速度で
サイラスの武器は両腕の爪がメインだ。レクスの身の丈程ある
今のサイラスに傷をつけられるかはわからないが、質量と切れ味は十分にある。装甲になっている硬い鱗も魔力で形成されたものだ。
そんな応酬をする二人の背後から、チリーは視線を向ける。
そしてレクスの背中へ、赤い刃に包まれた右腕を振り上げた。
「チリー!」
「……?」
不意に声が聞こえて、チリーは反射的に振り返る。
そこにいたのはミラルだ。だがそれが、誰なのかチリーにはわからない。
「チリー……私よ……ミラルよ!」
必死に訴えるミラルだったが、その思いは無惨にも切り裂かれる。
チリーはミラルに対して、躊躇なくその右手を振るった。
咄嗟に回避しようとするミラルだったが、その刃はミラルの右肩を深く切り裂く。
「きゃあっ……!」
血が舞い、ミラルは衝撃でその場に尻もちをついた。
「ミラルくん!」
離れた位置から見守っていたラズリルが、悲痛な声を上げる。思わず駆け寄りそうになるラズリルを、ミラルは左手で制止した。
「っ……!」
右肩が熱い。ミラルは左手で傷口を抑えながら、それでも立ち上がる。
「あなたは違う……獣なんかじゃない……っ」
血が止まらない。思ったよりも深く傷ついた身体が、痛みと血で警鐘を鳴らす。
それでも、ミラルはチリーへと近づいていく。
「私は知ってる……。あなたは無愛想で、ちょっと意地悪なこと言うし、乱暴だけど……本当はすごく優しくて、誰かを守るために戦う……そういう”人間”だって」
チリーは威嚇するようにミラルを見つめて、ふと何かを感じて頭を抑える。
小さな頭痛が起こって、それが急速に強まっていく。ちりちりと焦げ付くような頭痛を伴って、乱れた記憶がチリーの脳裏を蘇る。
(オレハマタ、クリカエスノカ?)
次の瞬間、チリーがその場に膝をつく。
「アアアアアアアッ!」
絶叫しながら悶えるチリーに歩み寄り、ミラルはその真っ赤な身体を抱き止めた。
なんて無機質な肌触りなんだろう。そう思いながら、ミラルはそっと背中をなでた。
チリーはいつだってそうだ。
硬い鎧で、硬い被膜で、ぶっきらぼうな態度で、いつだってその身を包んでいる。
傷ついた心を守るように。そして後ろにいる誰かを、その身で守れるように。
寄り添っていたい。
傍にいて、少しでもその身体を、心を休ませてあげられたら……。
祈るようにして、ミラルはチリーを抱きしめる。
赤い身体に、暖かな涙が落ちた。
「ミ……ラ……ル……」
チリーの顔を覆う被膜が、ずるりと落ちていく。
ミラルから発せられた七色の光が、チリーの身体を暖かく包み込んでいった。
聖杯の力は、魔力を奪うことも与えることも出来る。
与える力――――それは即ち、癒やしの力となり得るのだ。
穏やかな光に包まれて、チリーはソレに身を委ねる。
その身を覆っていた被膜は解けて消えていき、気がつけば一人の少年が穏やかな顔でミラルを見つめていた。
無愛想で、ちょっと意地悪なことを言うし、乱暴だけど……本当はすごく優しい、誰かを守るために戦う少年。
チリーが、ようやくまっすぐにミラルを見つめた。
「……ありがとな」
「言ったでしょ……あなたの、力になりたいって……」
嗚咽混じりにそう答えるミラルを、チリーは一度抱き寄せてから放す。
「……暖かかった」
そう呟いた後、チリーの身体はすぐに真紅の鎧に包まれた。
「……行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
引き止めたくなる気持ちを必死で抑えて、ミラルは駆け出していくチリーの背を見送った。
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