8月13日(土)#4
「早かったねえ」
スリッパの音とともに廊下をやってきて出迎えてくれたのは、母だった。
相当久しぶりのはずなのに、まるで毎日そう言われているような、朝学校に行って夕方に帰ってきたようなあっさりとしたリアクション。寮にいる時も定期的に連絡はとっていたけれど、変わらぬその姿にホッとする。
「駅に着く時間教えてくれたら車で迎えに行ったのにー」
右手に持っていた小さなトートバッグを玄関脇の棚に置いた母は、「あ、もしかして連絡くれてた?」とポケットに入れていたスマホを取り出す。その拍子に、逆の手に抱えていた花のビニールがカサリと擦れた。
「ううん、してない。電車の中で寝ちゃったんだよね、それにこれぐらいの距離なら歩かないと」
立ったまま、「よいしょ!」とボストンバッグを玄関に投げ置く。かかと部分を押さえてスニーカーを脱ぐと、足の裏にこもった熱気が逃げ出していく感覚がして「あー爽快…」と呟いた。
「あら、久しぶりの休みぐらい楽しても良いんじゃない?いつも動いてるんだし」
「んー。まあ、そうなんだけどさ」
首を傾げる母への返し方に迷いつつ、靴下を脱ぐ。すぅっと冷たい空気に撫でられ、そのまま裸足で家に上がるとひんやりとした床が足裏に吸い付いてくるようだ。その場で足踏みをしながら、休みっていってもそんなポジティブなものじゃないしなあと、心の中でも二の句が続かず足踏みする。
帰省する、と両親に連絡した時、次に母からきた返信は「部活やめた?」だった。それほどに今まで連休なんてものとは無縁だったのだ。お盆だろうと、ゴールデンウィークだろうと、年末年始だろうと。
それに対しての私の答えは、「先生にリフレッシュしてこいって言われたから」。嘘はついていない。そう言われたのは本当だもん、と誰に言うでもなく言い訳をする。
本当に、顧問からは「しっかり休んで心身を整えるように」と言われたのだ。ただその前提として、部内の人間関係がグッチャグチャになり、ピリついた状態を見兼ねて一旦離れたほうがいいという流れがあった、というだけ。そこまではさすがにお粗末すぎて言えなかったから、前半部分の説明をごっそりと省いただけ。
「まあいいけど。ちょうど今からお墓参り行こうと思ってたんだけど、あんたどうする?」
「あ……一緒に行く」
だいぶ端折った内容しか伝えていなかったけれど、恐らく何かは察してくれているのだと思う。
前回の大会の結果も知っているだろうし、勘の鋭い母のことだ、私が何かモヤモヤしていることもきっとこの数ターンの会話で気づいただろう。
それでも何も聞いてこないその心遣いに心の中で感謝して、玄関横すぐの脱衣場に駆け込み脱いだ靴下を洗濯機に放り込む。
ふたたび玄関に戻ると、「これ私持つね」と空いた手で棚の上のトートバッグを持った。私が実家にいた時から、墓参りの時は決まって持って行っているこれには、線香とろうそくとライターが入っている。
ボストンバッグを下ろし、スマホだけ自分のポケットに戻す。先ほどよりは身軽になって、母と一緒に灼熱の屋外に再び出た。
つい今しがた私が帰ってきた道とは違う方向、一直線の先にある細い脇道を進む。
「いやー今年ほんっとにあっついね」
「そうねえ、でもこっちは山に近いし、あんたたちのところよりは涼しいでしょ?」
「って私も思ってたんだけどさあ、あんま変わんない気がする」
帰省する際、ほんの少しだけ期待していた。自然が多いから、実家まわりは気温が低くて街中よりも過ごしやすいのではないかと。
確かに時折吹き抜ける風は、ビルや建物が無いせいか遮るものがなく、同じ熱風でも僅かに涼しく感じられる。
ただそれ以上に、こちらの方が夏の気配がずっと近かった。自分の耳元にとまっているのではないかと錯覚するほど、鼓膜に直接響いてくる蝉の声。さらにブンブンと何か分からない虫の羽音が耳元で聞こえて、手でぱたぱたと払った。
体感の温度だけでなく、耳などから拾う情報でも暑さが増すのだと痛烈に実感する。
「まあこの辺も最近はカンカン照り続きだからねー。雨も全然降ってないし」
「あ、そうなの?」
「稲とか萎れちゃわないといいけどね」
こめかみを伝う汗を袖でぬぐいながら、草や枝を踏み分けて獣道に入る。太陽が葉に隠れ、少しだけ温度が下がったような気がして、ふうと息を吐いた。目指すお墓は、車が通れない幅のこの道を少し上がったところにある。
「もっと平らなとこに作れば良かったのに……」
お墓参りにくるたびに、今まで何百回と思ったことを今日も呟く。現役で毎日体を動かしている私でも少し息を切らしているのに、目の前の母は枝葉や石ころをものともせず慣れた様子でサッサと歩いていくから、たくましいものだ。
背中に汗がダラダラと流れるのを感じながら、階段とは言えないような不規則な高さと大きさの石段を上ったら、ようやく密集した墓地にたどり着いた。
はあ、と息を吐いて何気なく振り返った時。かなり傾斜のあるこの場所から遠く離れたところに、あの巨大な樹が見えた。
―― あの人……。
あの人は、まだあそこにいるのだろうか。
ここからでは見えないあの大木の下で、まだあの姿勢のままぼーっと涼んでいるのか。それとも、ふらりと立ち上がって家に帰ったか。
「ねえお母さん」
「んー?」
水汲み場でキュッと栓を緩めている背中に、遠くの木に目を向けたまま呼びかけた。ザーーーッと水が流れる音がする。
「色白のすっごい綺麗な男の人に会ったんだけど、どこの家の人か知ってる?」
ざわ、と生温い風が吹いて髪が後ろに流れる。おでこから流れた汗が目に入り、しみて思わず顔を顰めた。
「んー?なんて?」
栓を閉める音と共に、水の音がピタリと止む。ジーーーーッといくつも重なって響く蝉の鳴き声がいっそう大きくなった。
母の方を振り返ると、その手に持った木桶にたまった水がきらりと反射する。
どうやら、聞くタイミングが良くなかったらしい。水音に重なって私の声が聞こえなかったようだ。
「……いや、やっぱり何でもない。あ、それ持つよ」
首を振ると、母から水がたっぷり入った木桶を受け取る。墓花を片手に持った母と、墓石と墓石の間のでこぼこした道を進んだ。
この町は、広大な土地に対して住人の数は少ない。全員の顔と名前が一致しているぐらいだから、特徴を言えばずっと住んでいる母ならすぐにどこの人か分かるだろうと思ったけれど、やめた。
根拠はない。根拠はないけれど、何故だろう。
話してしまったら、あの人と二度と会えない気がした。
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