彼と、彼の筋肉


 ローゼは一瞬だけ悩んで、そして悩むのをやめた。

 この恋については十分悩んだ。

 もう、悩むよりも行動した方がいい。

 これは母の教えであり、ローゼの得た教訓だ。


 それに、取り戻せるものなら、取り戻せばいい。


「任せてください。私、母からも体作りに良いお料理やお薬を教えてもらいましたから! 腕が治るまでは、私が、アルバイン様のお料理と生活を、きっちり整えてお手伝いしますね。あの、もし足りないところがあったら、教えてください」


 そう、お互いに話をして、知っていけばいい。

 でも、言い訳だけはしないと、とぐずぐずと話すことに全て優しく頷いてもらっているうちに、ローゼはどんどんと頭の芯が痺れていくのを感じた。


 なにしろ、目の前に立派な胸筋がある。息をして、少し上下に動いている。

 冷え込まない部屋だとはいえ、冬。じっとしているなら上着が必要だ。けれどここにいると温かい。

 外界から切り離されて、うたた寝をしても許されそうな、安寧の場所だ。

 時々ふと鼻を掠めるアルバインの香りが、ローゼの酩酊をさらに深くしていった。


「アルバイン様にひと目お会いしたくて王宮まで来たものの、私の身元はまだ養女でもなく、それにずっとローザと名乗っていて、貴族名のローザリアとは呼ばれ慣れていなくて……だから、ネフィリアと名乗ったのです。


 お会いしてみたら、本当に理想の騎士様で……。私、線の細い殿方は、父のこともあって苦手なのです。ずっとお会いしてみたいと思っていた方が、予想よりがっちりしてらして、その、つい……」


 ローゼはぼんやりと夢見心地で、自分が何を言ってしまっているのかも曖昧だったのだが。


「俺は、あなたが触れてくれるのが、嬉しくて、いつまでも続くものだと甘えていた。本当は、聞きたいと思っていたんだ。――あなたが好きなのは、俺か、俺の筋肉かって」


 それを聞いて、さっと意識が晴れた。

 そんなことを疑わせたままではいけない。

 アルバインか筋肉か、ならばアルバインに決まっているのだから。


「私、ランドリックから、貴方に体目当てだと思われていると知って、恥ずかしくて」

「それで、会いに来てくれなくなったのか。俺のせいだな」

「違います」

「ぐずぐずしてた俺のせいだよ。それに、体目当てだろうとよかったんだ」

「よくないです。それだけじゃないもの!」


 それだけじゃない。

 体目当て、だけじゃない。

 そこに、本音が出てしまっていることに気づいて、ローゼは口を押さえたが、アルバインは深みのある声でくっくと笑った。


「俺の筋肉が始まりでも、俺が師の生活を管理したのが始まりでも、どちらでもいいんだ。それが俺であれば。どのみち俺は、もう貴方を失えないのだから。必要なら、いくらでも体を鍛えるし、生活を整えるし、……臭くならないよう気をつける」


 臭く? まさか、石鹸のこと?

 ローゼは慌てた。まさかそんな受け取り方をされるとは、全く思わなかったから。


「か、香りつきの石鹸はそんな意味では……私、だって、アルバイン様の自然な香りが好きだから、その、隠しておいてもらいたくて」


 ああ、もう、最悪だ。何を言ってしまっているのか。

 ローゼはどうかしている自分の軽い口を呪ったのだが。

 ほとんど同時にアルバインの腕に絡め取られて、ぐいと持ち上げられた。

 気がつけば、同じ高さにアルバインの顔があって。


「好きだ、ネフィリア」


 そんなことを言われたら。


 わたしも、と呟いたローゼの体の芯から力が抜けた。全てをアルバインに預けながら、そっとその肩に手を置く。

 目蓋からも力が抜けて、目を閉じたローゼの唇に、アルバインは優しい口付けをくれた。

 触れ合う瞬間、逞しい首がぐっと緊張したのがローゼの手指に伝わった。

 触れているのは手だけではない。

 二人の胸は今やピッタリとくっついて、一緒に息をしている。腿の裏に自分を抱える腕の太さを感じる。膝は腹筋をこすり、つま先が当たるのはきっと大腿だ。

 ローゼの頼りない体に比べて、なんと存在感のあることか。


 間近でローゼを見る目が、少し笑っている。

 きっと、ローゼが筋肉に酔っていることは伝わってしまっているのだろう。

 それをアルバインがどう受け取っているかはわからないけれど。

 アルバインか筋肉か、ならばアルバインに決まっている。

 けれど、アルバインかアルバインの筋肉か、ならば。

 ローゼは、どちらも選べなくなる。

 どちらにも一度に恋に落ちたのだから。


 不思議だ。

 自分とは違う肌の質。温度。奥に脈打つ力強い血の巡り。

 知らず、ローゼの指が筋肉の膨らみをそっと押しながら滑る。

 ――口付けをもうひとつ受ける。

 筋肉の束に沿って、やさしく水滴を拭うように撫でる。

 ――口付けが深くなる。

 肩の膨らみを手のひらで撫でて、二の腕との境を爪で引っ掻く。

 ――空気を求めて逃げたのに、追いつかれる。

 盛り上がった肩を今度は首に向かって指で道を描いて、窪みに触れればそこから上に。後ろ首に縋りついたが。

 ――溶け合うような激しい口付けに、やがてローゼの手から力が抜けた。




 くたりとしてしまったローゼに、アルバインが焦り、待ちくたびれたランドリックが迎えに戻ってきて。

 結局プロポーズは、アルバインが全快してギムレイとの模擬決闘に勝利してからのこととなる。

 

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