彼女が好きなのは、俺か、俺の筋肉か

ちぐ・日室千種

俺の筋肉は敵

 今日も、いた。

 騎士たちが訓練を終えて騎士棟に向かいそぞろ歩く道。

 王宮でも他部署の人間の少ない建物の陰にあり、騎士団の訓練を見学に来る令嬢たちも、ジメついて泥だらけの石畳に、繊細なドレスの裾をからげてまでは入ってこない。

 そんな場所で、彼女は俺を待っている。


 木が茂って覆い隠している建物の窪みに立つ彼女は、道からは完全に死角にいた。

 いつも探している俺だから、見つけられたのだろう。

 散策用のブーツと短めのドレスの裾が、花盛りの躑躅の木からちらりと覗いていた。

 同行していた騎士をそれとなく先に行かせて、俺はそっと木の陰を覗いた。


「こんにちは、アルバイン様」

 

 彼女の落ち着いた声を聞くと、不思議と疲れが和らぐ。俺の肩にも届かないくらい小さな彼女に、優しく抱かれて髪を撫でられる、そんな幻想を視る。

 顔が陰になって見えなかったので、俺は彼女の上に伸びていた枝を、ぐっと押し除けた。

 午後の斜めの光が彼女を照らして、少し眩しそうに細められたのは緑の瞳だ。初夏の若葉のような透明感のある色に、引き込まれそうになる。小さな鼻と、小さな赤い口。顎も小さいし、首は細く、なだらかに肩に続く。

 季節が夏に近づいたせいか、いつもより胸元が眩しくて、俺はさりげなく目を逸らした。


「こんにちは、ネフィリア嬢」


 挨拶をしながら、俺は少し、顔を顰めた。

 例年より夏が早く、今日はやたらと気温が高く、湿っぽかった。そのせいで大量に汗をかいたが、用意が悪く、濡らした手拭いで拭っただけだ。服はじっとりと汗を吸ったまま。

 訓練場では誰もが諸肌を脱いでいたが、規則もあり、寮に帰るまでは服を嫌々羽織るのだ。


「申し訳ありません、お忙しい時に。あの」


 彼女が何か言いかけた時、後ろから急ぎ足で近づいてくる騎士に気がついた。

 考えるより先に彼女を誘導して、と言うよりもはや彼女を運ぶようにして、枝の下を潜り、木の陰に自分も踏み込んだ。

 やや躊躇いがちになった足音は、気を利かせてか、すぐに何事もなかったかのように歩き去った。その気配を確認してから彼女を見下ろせば、まるで誂えたように、俺の腕の中にすっぽりとはまり込んでいた。木の陰の空間は、俺が入ると途端に小さな檻のように凝縮して、二人重なるようにそこに押し込まれている。

 ふわりと良い香りに気がついて、今更、どさくさに紛れて手を置いた細腰の滑らかな曲線を意識した。シャツの合わせ目に感じる彼女の前髪がくすぐったい。


「失礼」

「あ」


 慌てて解放しようと腕を離したら、彼女が声を上げた。

 なんだ、どういう意味だ。ずいぶんと、悩ましげな音に聞こえたが。

 俺はギリギリのところで、ゴクリと喉を鳴らすのを堪えた。


「あの、よろしければ、このままで……」


 その恥ずかしげな言い方は、意図しているのだろうか。

 振り回されすぎだと思うも、かっと目元が熱くなる。

 否やはない。もちろん、ない。

 だが、この離してしまった腕は、どうすればいいのだろう。もう一度、彼女の柔らかさに触れても許される、だろうか。


 だが、俺にその度胸はなく。ただぎこちなく腕を浮かせたまま、声もなく頷いた。

 彼女は至近距離で俺の肯定を確認すると、安心したようにふにゃりと笑い。

 少しだけ身体を引くと、おもむろに、両手を俺の胸に当てた。


「〜〜〜〜〜〜っはああ。やわやわ。やわやわだわ。完璧な盛り上がり。谷間があるし、弾力もあるのに、温かくて、柔らかい」


 いつものように、息継ぐ間もないほどの呟きが溢れだした。

 少しひんやりとした小さな手が、忙しなく俺の大胸筋を撫でさする。

 湿気た薄手のシャツ一枚越しに、その手指の感覚は鮮やかで。ぴくぴくと片側の胸が動いてしまったが、彼女は特に何も言わないまま、さわさわと労るようにそこを撫でた。


 小さな口から溢れる息が少し上がってきて、胸に温かく湿った吐息がかかる。

 そういえば汗臭いかと心配していたのだったが、杞憂だったようだ。蕩けた顔で、すうはあ息をする彼女を見ていると、不思議と心が満ちる。

 そして、さらに欲深く胸がざわついた。

 彼女は、どこまで俺を受け入れてくれるのだろう。

 酩酊するような、下腹から搾り上げられるような、解き放たれるような感覚が弾けかけて、俺は意志を総動員して自分の腕を押し留めた。気を抜けば、無断で力任せに抱きしめてしまいそうだ。

 けれど彼女は、自分が猛獣の顎の中にいるなどと、微塵も気がついていない。


「ここ、この腕につながる膨らみも最高、そしてくっきりと境界のわかる三角筋から僧帽筋のほどよい盛り上がり」


 指の軌跡に沿って、シャツが薄らと波打つ。細い指先は、俺の体から何かを掬い取るような力加減で何度も往復した。胸から、肩をくるりと丸く撫で、そこから両手が肩を辿って首へと。

 そこで、ふと俺を見上げた彼女の目と、目が合った。

 しまった。

 とろりと熱に浸っていた緑の目が、夢から覚めたように淡い色に変わった。


「……失礼しました」


 まったく失礼していない。少なくとも俺にとっては礼などどうでもいい。だから、続けてくれていいんだが。とは言えない。嫌われたくはないからだ。

 俺はきっと、獲物に喰らいつく直前のような飢えた顔をしていたに違いない。怯えさせたかも知れない。

 俺が固まっていると、彼女はどこか隠しから取り出した包みを差し出した。


「こちら、香りがお好みだといいのですけれど」


 受け取ると、ハンカチに包まれていたのは深緑の四角い塊、石鹸だ。南方の海沿いの地域で作られるという最高級の石鹸は、そもそも王都では市場に出ない。貴族御用達の稀少な品だ。獣臭さがなく、無臭に近いために、非常に人気なのだ。

 だがこの石鹸からは、無臭どころか、花のような蜜のような甘い匂いがした。


「肌の油分を取りすぎずに柔らかい仕上がりなのです。使ってくださると、嬉しいです」


 俺は、手に持った石鹸に、どうしようもなく胸が高鳴っていた。その香りは、目の前の彼女からふわりと漂うものと、よく似ていたから。

 彼女も使っているものかもしれない。きっとそうだ。

 さきほど彼女の首筋からあたたかく立ち上った香りの方が、やや湿って輪郭がまろく、甘さが際立つようだが。


「では今日はこれで。ありがとうございました」

「……っ」


 俺が鼻の奥に彼女の香りを蘇らせているうちに、彼女はそっと暇乞いをして、身軽な小動物のように俺の囲いからさっと駆け出してしまった。

 人気のない道といっても、王宮内、しかも、彼女にはいつも、腕の立つ女護衛が離れて付いている。安全に問題はない。

 むしろ今、無理に追いかけて捕まえれば、目立ってしまって、彼女を困らせるかもしれない。俺は彼女を見送った。

 会える日を心待ちにして、今日こそはと思っていたのに。

 またしても、俺は尋ねることができなかった。


 貴女はもしかして、俺を好ましく思ってくれているのでしょうか。

 好きなのは、俺でしょうか。それとも、――俺の筋肉でしょうか。


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