第7話 おにぎり

『お前は足手纏あしでまといだ。消えてもらう』


 ヘルメットを脱いだら血と肉の焼けた匂いで蒸せ返るに違いない。

 それほどまでに数え切れない敵を殺した基地のなかで、マーねえはいきなりあたしにハンドガンの銃口を見せつけた。

 二人とも満身創痍だった。しかし退く選択肢は存在しない。

 ここでルキフェリカを殺さなければ、間違いなく銀河の果てまで追いかけられる。

 そんなのは考えるまでもなく当たり前のことで、あたしはてっきりマー姉がまた緊張を和らげるためにタチの悪い冗談でも言ったのかと思っていた。


『おいおい何を──』銃口から見えた閃光にあたしは慌てて身をよじる。ほぼ同時に、あたしの背後の壁にドカンと穴が空いた。


『今のを避けるのか? おかしいな。次は当てるぞ』


 マー姉の初撃はほんの僅かに右に狙いがれる。

 その些細な癖は、永遠に追いつけなさそうな背中を誰より近くで見てきたあたしじゃなければ分からない。だからこそ今のは間一髪で避けられたが、同時に次がないことも明白だった。

 あたしとは対照的な黒狐のヘルメットを被るマー姉。その顔が見えずともひしひしと感じる殺意が向けられているのは、間違いなくあたしだ。そんなの初めてのことで、頭が真っ白になる。


 気の利いたことなんてひとつも言えなかった。言わせてもらえやしなかった。


『……っ! 悪かったな足手纏いで! 弾の無駄遣いになるまでもなく消えてやるよ! 手柄も金も独り占めすりゃいいさ!!』



「あたしが逃げ帰り、コキュートスは跡形なく消し飛んで。結局マーシャは帰って来なかった。あたしに銃を向けたあいつの選択が間違っていたとは思わねえ。現にスペルビアは潰れ、あたしはこうして生きている。だけどもう、マーシャは死体も何も残っちゃいない。伝説だろうが無名だろうが、傭兵なんてそんなもんだ。ある日突然底無しの宇宙に希釈されて生も死も不確かなものになる」


 ハルはあたしの昔話をいかにも気の毒そうに口を結んで聞いている。その右手にあるおにぎりのことを、少しだけ理解した気分だ。


「そういうのもあんのかもな、あたしが骨董食アンティクードを好きなのは。生まれてすぐに食べられ消える儚い過去のものが悠久を超えて存在しているところに、惹かれるのかも知れねえ」


 さっき見た夢を思い出す。

 マー姉がいなくなるまでのあたしは骨董食を食べることを夢見ていたはずなのに、いつしか集めることだけを考えるようになっていた。


 儚く消えてしまういにしえの食べ物とマー姉を重ねてしまっていたのか。

 それともマー姉がいつか帰ってきたときに一緒に食べることを願っていたのか。

 今となってはあたし自身にも分からない。


「……そう聞くと、ユーカみたいな骨董食マニアにも物語があるんだなって思っちゃうな。毛嫌いしててごめんなさい」

「謝ることねえよ。金だけが目当てのしょうもねえヤツらだって多いし、別にあたしもやってることは一緒だ。さあ、昔話は終わりにしていい加減食おうぜ。喋りすぎて腹が減った」

「私も。もう何日ぶりのご飯なのか思い出せないよ」


 咳払いをしてからおにぎりを差し出して見せつけると、ワンテンポ遅れてハルが同じように応じる。


「えー、それではあたしらのクソみてえな冒険の終わりと先人の残してくださった偉大なる本物の食べ物に」

「かんぱーい!」


 二つの三角が触れ、くしゃと乾いた音を立てた。

 真ん中から手で割り半分ずつを交換する。ふわりと鼻をくすぐる梅干しの爽やかさと海苔の香ばしさに、ニヶ月間飯を食っていなかった胃袋がうなった。先にこっちを食べよう。


「「いただきます」」


 ひと思いに梅干しまでかじる。海苔の歯切れのいい食感。口のなかでほどける白米に感じるほのかな油分。キリッとした酸味と塩味がありながら、米と交わることで秘めた甘味を呼び覚ます梅干し。


 だがその何もかもが完璧からはほど遠い。


 統一食糧ルードをフォーミングしたおにぎりならば、海苔はもっと厚くそれでいて軽やか。米ははっきりとした個を持ちつつ決して調和を乱さない一体となり、油の添加なんてものは不要だ。梅干しだって何倍も熟成を経た奥深い風味になるだろう。


 それでもこれは、最高のおにぎりだ。

 人の手で直接握られてはいないらしいが、数多の努力と試行錯誤の末に生み出されたもの。完璧にデザインされた電子情報で姿かたちを真似たニセモノなんかじゃない。

 完全無欠になんてなれやしない『人間』が宿った、本物の食べ物だ。


「……これだ。これが飯だ。ハルが言った通り、食わなきゃマジで勿体ねえ」

「でしょー、ってそこまで泣く? 治療したときにうっかり涙腺増やしたっけ?」

「こんなもん食ったら泣きもするだろ! 果てしない時間と空間を超えてきた地球人類の営みのひとつを頂いてんだぞ!? 平然としてるハルの方がおかしいっての」

「いやーそこまでずびずびのべろべろに泣かれると冷静にもなるよね。というか引く」


 涙で滲む視界でも分かる真顔をしていたハルは、ツナマヨをひと口食べて頬を緩ませた。


「……マーシャさんにとって、ユーカはおにぎりだったんだろうな」

「なんだよそれ」

「過去になった自分を忘れずに持って、未来に残り続けてほしい存在だったのかなって。おにぎりひとつでそんなに泣けるユーカなんだもん」

「あたしもあいつも傭兵だ。生き死になんて深く考えちゃいねえし、そもそもあいつはあたしを撃ったんだぞ? 避けなかったら確実に死ぬ距離で」


 おにぎりを口に含んで会話を打ち切る。

 マー姉を恨んじゃいないし、今の涙にこれから死ぬことへの悲しみも含まれてはいない。でも、殺されかけた事実は変わらない。

 そんなことも理解していないような顔でハルは首を傾げた。


「避けられることを想定してなかったと思う? 誰よりもあなたを近くで見てきた、伝説の傭兵が」


 あの時見せられた殺意は本物で、回避もマー姉を知るあたし以外には到底できないものだった。


 自信を失くす度おまじないのようにかけてくれた言葉が思い浮かんだ。

『お前自身が考えるよりずっと、お前は強いんだよ』

 ずっと、すぐに緊張するあたしへの気遣いだと思っていた。

 だけどそれがあたしの実力と認識を完全に見極めた上での指摘だったとしたら。


「マーシャが想定するのは……あいつの癖を加味して避けたあたしの、強化外装エグゼアルス頭部の一番脆弱な部分から脳幹をブチ抜く射線だろうな」

「そんなことができる人なら、ユーカが避けられるギリギリを狙うのはもっと簡単だよね。もしマーシャさんに面と向かって帰るよう言われて、あなたは素直に聞いてた?」


 全く従うつもりはないし、むしろ躍起になっていただろう。

 与太話だと思っていたハルの推測が、にわかに真実として聞こえてくる。

 自分自身への呆れを込めて、あたしはハルに首を振った。


「そうだよね。雇用主や救う人のことしか考えてこなかったから気づけなかったんだろうけど、マーシャさんにとってもユーカは守るべき人でさ。ユーカのことをめいっぱい信じていたからこそ満身創痍でも撃てたんだよ」


 あの時、二人とも限界なんてとっくに迎えていた。どちらかがやらかすことも容易く想像がつくっていうのに、あたしに本気だと思わせる射撃をやってのけた。

 そんなの、バカみたいな盲信がなきゃやってられない。


「……なんだよ、結局あたしは最後の最後まであいつの弾一発すら自分の力で避けられなかったのかよ」


 悔しさが涙腺をさらに緩くする。

 頬張ったおにぎりを飲み込んでから、小窓の外の黒い宇宙に叫んだ。


「あたしはあんたが食えなかったおにぎり、食ってんだからな! まだ舞台の上にいるし、ダサくない通り名もついたんだぞ! 全部ぜんぶ、あんたがいなくても!!」


 ふと、涙でぐにゃぐにゃになった黒い窓がマー姉の顔に見える。

 それは無数の死体の上に立つ伝説の傭兵じゃなくて。

 妹を愛する、宇宙一優しい姉の眼差しをしていた。


「……でも、マー姉なら喜んでくれてるかな。おにぎり食べたこと」

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