第29話 紙岸潤香 1

 楼義ろうぎが家に帰ると、不自然な静寂に気付いた。換気扇の回る音、冷蔵庫のモーター音、これらがうるさく感じられるほど静かだった。


「ただいま」


 いつもより少し声を強めに出したが、返答はない。


(寝てるのか?)


 靴を脱ごうとしたとき、玄関に兎佳子うかこに買い与えたスニーカーがないことに気付いた。レモンイエローの。ハイカットの。


 慌てて部屋を出る。だがどこに行ったのかもわからない。楼義ろうぎはとにかく学校の方へ向かった。この部屋から出て、彼女が一度でも自力で歩いたことが有る道は、学校までの道しかない。楼義ろうぎを探して出たのなら、また同じ場所へ向かっている公算が高い。


 楼義ろうぎが走っていると、真横から声が飛んできた。


「ローギ!」


 明瞭で快活な声はまさしく兎佳子うかこの声だった。その方向には公園があり、砂場の近くで両手を振って笑っていた。

 近くまで行っても兎佳子うかこはその場で手を振るばかりで近づいて来ようとしない。違和感があった。


「どうしてこんなところに居るんだ?」

「えっとー、ウルカが逆葬儀屋だったの! 良かった!」


 その言葉に楼義ろうぎは、息が止まり眩暈を覚えた。


「な……、に?」


 言葉が言葉にならない。つまり兎佳子うかこ潤香うるかと接触したと言うことだ。そして、公園に居る。人気のない公園に。これがつまりどういうことなのか。同じ逆葬儀屋である楼義ろうぎには理解できた。

 兎佳子うかこの足元に視線を移すと、アンカーモチーフのペンダントトップの先端が地面に突き刺さっており、そこに向かって彼女の影が伸びていた。

 楼義ろうぎはその影に向かって頭を突っ込んだ。

 中には潤香うるかが居た。対峙した先に兎佳子うかこの姿がある。楼義ろうぎは黄泉津ノよもつのまへと身を投じた。二人は気付いていないようだ。

 潤香うるかは“疾走する紫電サンダーランナー”を構え、発動するが、直前に兎佳子うかこは上空に高く飛んでいた。潤香うるかが移動した先に兎佳子うかこは居ない。潤香うるかは辺りをきょろきょろと見回した。

 その遥か上空でなおも上昇しながら、兎佳子うかこはなにかを抱きしめるようなモーションを取った。すると突然兎佳子うかこの腕の中に光り輝く球体が発生し、物凄いスピードで膨張し始めた。それは身の丈をはるかに上回り、直径が100メートルを超えるほどまで膨らんだ。それは巨大な明るい岩石——月だった。


 兎佳子うかこは月を潤香うるかに向かって投げつけた。ようやく上空で起こっていることに気付いた潤香うるかは唖然と上空を見上げていた。逃げても間に合わない。“疾走する紫電サンダーランナー”を発動したところで10メートルの距離を移動することしかできない。間を置かずの連続発動はできない。


楼義ろうぎくん……」


 それは楼義ろうぎがここに居ることを知らずに、勝手に口元から零れた、呼吸のような言葉だった。


「呼んだか?」


 楼義ろうぎは迫りくる月を潤香うるかと共に見上げながら聞いた。

 驚いて息を呑む潤香うるかを尻目に、楼義ろうぎは手首を上下に振り抜いた。すると、なにもなかった空間に突然5メートル四方の風呂敷が現れた。


 ——”袋を!ラッピング! ラッピング! ラッピング!”!


 黄泉津ノよもつのまでのみ使える楼義ろうぎの逆葬儀屋としての特殊能力。包んだものを物理法則から切り離す。移動物体に被せて速度をゼロにして墜落させることも、重量物を包んで重さをゼロにして持ち運ぶことも可能。ただし包めなければいけない。100メートルを優に超える月を無力化することは到底できない。


 風呂敷を頭上に広げて、楼義ろうぎ潤香うるかを抱き寄せた。すっぽりと包まれると、薄暗い中で抱き合うような形になった。

 潤香うるかがぎゅっと抱き着くと、楼義ろうぎも抱き返し耳元で囁く。


「もっとだ」


 言われた潤香うるかは両足を楼義ろうぎの腰に巻き付けるようにする。楼義ろうぎはそれに合わせて腰を落とし、潤香うるかの頭と腰に手を回した。がっちりと固定。


 ついに月が、二人が入った風呂敷に到達した。

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