第19話 兎佳子の強さ 2

 兎佳子うかこ楼義ろうぎに笑顔を向ける。


「お疲れ様、ローギ」

「おう」


 グローブをほどきながら、タオルで汗を拭く。

 コーチから楼義ろうぎに対して声はかからない。彼は倒れた瀬二山せにやまの介抱をしていた。グローブとシューズを脱がしている。


 観戦者たちは楼義ろうぎに言葉をかけるわけではなかったが、先の戦いぶりについて話しているようだった。そんな観戦者たちの声の色が変わる。そしてそれはどよめきに変わった。

 振り返ると、瀬二山せにやまが肩で息をしながら楼義ろうぎを睨みつけていた。


「なんでだ!」


 楼義ろうぎが少しだけ首を傾げると、瀬二山せにやまは舌打ちをして続ける。


「なんでテメェはそんなにつえぇんだよ! くそっ! なのに」


 瀬二山せにやまの問いの意味に気付いた楼義ろうぎは、「ああ」と言葉を漏らす。


「そう言えば、さっきから自分のことを強いとかコーチのことを弱いとかって、やたらと気にしてましたよね。でも、別に俺は強くないっすよ」

「ああ!? テメェなめてんのか? オレは全国大会優勝者だぞ! それを倒したんだからテメェは強いだろうが!」

「だから、強いってなんなんっすか。瀬二山せにやまさんはただ、日本で一番ボクシングが上手いだけでしょ? そんで俺は、今ちょっとだけ瀬二山せにやまさんよりボクシングが上手かっただけ。強さとは関係ない」


 楼義ろうぎの言葉は、瀬二山せにやまを慰めるようなものではなかった。寧ろ彼は今、たかが全国大会で優勝したくらいで威張るなと、年下の高校生に言われたのだ。


 楼義ろうぎがスポーツバッグに持ち物を詰めようと背を向けて屈んだとき、瀬二山せにやまの怒号が響いた。と同時に駆けてくる足音がして、楼義ろうぎは咄嗟に振り向いた。

 そのとき楼義ろうぎが目にしたのは、銀色のカーテン。兎佳子うかこの長い髪が横からサラサラとスライドしていく。駆け寄って来た瀬二山せにやまは素手。クッション無しの拳が彼女に迫っている。楼義ろうぎは立ち上がったが間に合わない。兎佳子うかこは前髪をかき上げるように肘を上げた。


 グギチッ!


 鈍い音が響いた。


「ぅぁああああが! ああが!」


 遅れて瀬二山せにやまの絶叫が響き渡った。先まで握られていた拳はひしゃげている。指の向きがおかしい。兎佳子うかこの肘に思い切り拳をぶつけたのだろう。男と女で骨の太さに違いはあれ、指の骨の太さが、肘の骨の太さを上回ることはない。衝突すれば脆い方の骨が折れるのは必然だった。

 まだやまぬ絶叫にも構わず、兎佳子うかこは前進する。

 拳を送り合うボクシングの間合いではない。相手の腕の内側で肘を振り抜いて顎を砕く、超インファイターの間合い。

 クリンチで防御行動を取るのがボクサーの本来の動きだが、そのクリンチを取ろうとする間合いから肘鉄は振りかざされる。これには対応できない。当然だ。ボクシングで肘打ちは反則なのだから。こんなときどうすれば良いかと言うハウトゥーがない。瀬二山せにやまは完全にボクシングを封殺されている。

 体重差を利用して無理矢理圧し掛かろうとしたところへ、ヘッドバット。距離が離れる。兎佳子うかこは半歩間合いを詰めながら相手の腕を取り、肘の内側に自身の拳を滑り込ませる。そのまま折り曲げると、関節が伸びた。瀬二山せにやまは鼻血を噴き出しながらうめき声を上げる。

 フィストブレイク、肘鉄、関節技。ボクシングにはない技術を打ち込まれ、成す術もない。

 兎佳子うかこはそれでも止まらない。腕の関節を極めたままさらに一歩踏み込む。このままでは腕が折れてしまう。


「おい!」


 声と共にそれは止まった。否、楼義ろうぎ兎佳子うかこのパーカーのフードを掴んで、止めていた。


「この人、ローギに暴力振るおうとしたよ?」


 兎佳子うかこ楼義ろうぎのことを心配するような声と表情で見上げた。


兎佳子うかこは間違ってねえよ。けど、かわいそうだから許してやれ」


 楼義ろうぎの言葉に兎佳子うかこはパッと笑顔を咲かせ、気持ち良く頷いた。それから瀬二山を向く。


「セニヤマ! ちゃんとグローブ付けようね。指怪我しちゃうよ」


 それはもうすでに起きてしまったことであるが、兎佳子うかこは極めて真面目に注意していた。


 瀬二山せにやまくずおれ、「くそっ、くそっ」と呻くように言葉を発していた。


瀬二山せにやまさん、本当の強さってのは今の兎佳子うかこみたいに、自分が守りたい人を守れる人のことを言うんじゃないっすかね。そう言う意味じゃ、やっぱり俺も弱いっす」


 楼義ろうぎはスポーツバッグを肩に掛けて瀬二山せにやまに背を向けて歩き出した。


「俺はリングの外でも強い人間になりたい。アンタは、どうかリングの外に出ないでください。そうすりゃいつまでも上手さを自慢していられる」


 楼義ろうぎには嘲りの気持ちなど微塵もなかったが、瀬二山せにやまのプライドを打ち砕くには充分過ぎる言葉であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る