『アリス』の断片4 不思議の国に どうぞおやすみ、⑥

 オレはリヒトを追って森の中を駆けていた。

 手慣れたように道なき道を進むリヒトを、ただひたすらに追う。とんだ獣道だ。尖った枝や葉が、露出したオレの頬や腕に鋭い傷を付ける。

 しかし、その痛みすらどこか遠い。それにそんなものを気に掛けるよりも、オレにはやらなければいけないことがある。



 リヒト・ウィンティーラを殺さなければ。



 ――これは一体、どちらの思考なのだろう。


 『ジスト』なのか、『ランジュ』なのか。


 ――この身体は一体、どちらのものなのだろう。


 『ジスト』なのか、『ランジュ』なのか?



 リヒトは躊躇う素振りも見せず、どんどん森の奥へと入って行く。アリス達からオレを引き離すためだろう。明らかに誘導されている。


 それはオレにとっても好都合だった。

 リヒトよりも、シャンの方が魔法士としては圧倒的に実力が上である。

 しかし彼女の魔法属性は火。森に踏み入った所でお得意の属性魔法は使えまい。



 リヒトだけならどうにでもなるだろう。

 あの人は――優しいから。



 唐突に開けた場所に出た。

 リヒトは駆ける勢いのまま此方に向き直ると、光属性の魔法で弓矢を創造し、素早くつがう。

 だが、放たれた矢がオレを傷付けることはなかった。はなからそのつもりもなかったのだろう。


 本当に――お優しいことだ


 込み上げる笑いをこらえ、口のが歪む。

 オレは指先で己の影を操ると、小蠅を払い除けるようにして矢を弾いた。



「――油断したな、ランジュ」



 至近距離で発せられたそれに、眼球だけを動かして状況の把握につとめる。

 上下左右せわしなく回る視界の隅で、既にオレのふところに入り込んでいたリヒトの青い瞳と目が合った。


 ――矢はおとりか。


 それに気が付くと同時に背筋が粟立った。

 咄嗟に身を引くが、リヒトの蹴りが入る方が早い。


 次の瞬間、腹の真ん中に衝撃が走った。

 重い一撃を喰らいその場にうずくまり掛けるが、オレの意思に反して身体は全く言うことをかない。


 四肢に纏わり付く何かが、全身を支えている。

 それは先程まで従順だったはずの、オレ自身の影だった。影はオレの両腕を、両足を操って、無理矢理立たせようとする。


 これでは正真正銘操り人形だ――ヴァイスの。



「うあ、あ……ぁ、」



 足元の影を伝い、ドロドロとした闇が広がって行く。


 オレはどうしたいんだ?

 どうしたら良いんだ?

 どうすれば良いんだ?

 ――何も解らない。


 狂ったようにかぶりを振り、両手で顔を掻きむしる。

 頬に立てた爪が薄い皮膚を裂き、鈍い痛みが走った。


 突如として、影の中から何かがずるりと姿を現した。

 それは物語の中で綴られるような死神の姿を連想させ、魔法陣を介することなく姿を見せたことからも、精霊や魔族といった存在でないことは明白だった。


『魔法が成長した』――学のないオレでは、そう言い表す他なかった。


 漆黒のフードを被り黒衣の裾を揺らめかせた死神が、音もなく浮かび上がる。

 骨と皮しかない棒切れのような腕には闇色の大鎌が握られていた。死神は己の恐ろしさを知らしめるように重量を感じさせない動きで、刃先まで黒に染まった大鎌を振るう。


 響く、風を切る鋭い音。刈り取られた植物の残骸がはらはらと散り、切られた花はぽーんと宙を舞う。

 それはまるで跳ねられた首にも似ていて、悪趣味極まりない想像に思わず嘔吐えづきそうになる。


 しかし死神はオレの動揺にすら応えず、無感動に大鎌を振るい続ける。

 広がりを止めない闇に、半ば諦念の目を向けた。

 


 むしろ、これはオレなんじゃないのか?



 ヴァイスはどうしてオレを捨てたんだろうか。

 いらなかった? 気に入らなかった?

 彼のお眼鏡にかなうような人間ではなかった?

 ヴァイスの言う『美しさ』は、オレの思い描くものとは異なっていた?


 だから、オレをリヒト・ウィンティーラの下に送り込んだのか?


 オレがリヒトを殺せれば儲けもの。

 たとえ失敗したとしても、捨てたものがどうなろうと別に惜しくはないだろう。

 しかもその捨てたゴミは、自分で勝手に分別されて死んでくれるのだ。



 ――本当に、親切なゴミもあったものだ。



「はは、」と、乾いた笑みが零れ落ちた。


 もうどうでも良い。このまま眠ってしまえ。


 暗闇の中ならば、ここ現実よりは幾分かマシだろう。

 ――なにせ、もう何も見なくて良いのだから。


 闇が視界を覆い、全ての音が遠くなる。

 そうして寒々とした温度が全身を包み込むと、オレの意識はゆっくりと闇に溶けていった。

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