第三十一話 マイナス
百合は、ひゅ、と緊張に喉からよく分からない音が出たことを感じた。
それが唐突に乱入し楽曲を中断させた招かれざる客に向けられた、数多の視線の物理的に迫る程の印象の圧力によるものであるのは、語るまでもない。
沈黙の中知らずぎゅ、っと握ったマイクはきっと救いにならないだろう。
鹿子が意図的に仕上げたここはアウェー。手に持つ音響機器の頼りない線の繋がりの先になにもないのは最早当然。
声に成らない声を機械の力で拡張することも期待出来ないことに途方に暮れる百合に、静かに鹿子は問う。
「――貴女、果たして何のつもりですか?」
「ゆ、百合はぁ……っ!」
「百合……あら。ひょっとしてあの町田百合さんですか? はじめまして」
「っ!」
披露されたのはそれは美しいカーテシー。
私と貴女は初対面。呼んだことなどあり得ないと言外に語った鹿子。
元より美であり更にスモークを足下に光を多方から浴びた彼女はまるで、天上生物。
これがそれには足りないとは知っていながらも、地獄の外殻たる百合はどこか怖じ気づく。
煌めきは暗澹と対面しながらあくまで見下しながら、愛らしい声で小さく――マイクはそれをドームの隅まで届く程に拡張した――言った。
「ところで、何の関係のない貴女がどうして私の邪魔をしにきたのか知りませんが……私の庭でこの狼藉……高く付きますわよ?」
「うぅ……」
こんなの予想になく、演技するものではなくただアイドルでありたいだけの百合に臨機応変な応答は不可能。
怒るべきなのかもしれないが、ここで感情に飲まれるのが悪手とは彼女も気付いていた。
ブーイングが響き始めたのはこの頃。求められていない事実を大声によって浴び、百合はぴくりと震えた。
返答すら出来なかった相手を更に見下しながら、着の身着のままで城まで来てしまったシンデレラを鹿子は更にこき下ろす。
「あら……百合さんは本当に何をしに来たのかしら? バンビダムにまで集まってくれたわたしのファンの大切な時間を貴女は刻々と奪い続けている……そんなの、許しがたいとは思えない?」
「それは……」
「あら、聞こえませんわね! ピンマイクも付けずに、よくのこのこと……恥を知りなさい!」
「うっ……きゃ」
最早ブーイングは波濤のよう。帰れ、帰れと今すぐに逃げ帰りたい百合に向けて観衆は叫ぶ。
最中に百合の背中に何かが当たった。柔らかい、それこそリストバンドか何か。
そんな軽いものにダメージを受けるほど百合は弱くなかったが、それを契機として投げ込まれた数多は大きくも硬くなくても彼女を痛めつけるにはあまりある。
「痛、痛いですぅ!」
小さな叫びはしかし、怒声と空隙に飲まれる。
百合は目隠しの合間から、顔色を変えた【王国住民】が柵に警備員にぶち当たりながらも少女を害するために暴れる様が見て取れた。
彼らは少女の弱々しさ等では止まれない。むしろ、不相応にも親愛なるバンビダムの女王にこんな弱者が邪魔をしたなんてことが許せなかった。
口角泡を飛ばす彼らの悪口はすべて、百合に向けられて五万ほどのそれは呪いのようになって耳に反響する。
曰く、消えろと、地獄の蓋は叫ばれた。
「い、嫌ですよぉ……」
イアリングの尖り、家の鍵ですら投擲のために用いる彼らの狂気はすべてが信じる唯一のため。
独りぼっちは鹿子という敵の真ん前にて際立って、しかしその陰すら認められない。
やがて最後の人の柵が破れたその瞬間に。
「おっほほほほ!」
「っ!」
悪役令嬢は、高らかに満足の笑い声をあげる。
暴力で終わってしまえばただの事件。それでわたしまでお終いでは笑えないと、薄く笑まない瞳で小さな百合を鹿子は見下ろす。
お忍びと聞いて合わない衣装を着た百合は、どう見積もったところでこの五万の観客に愛されるには不相応。
そして、怯えきったこれなんてもう恐ろしく思えなければ、そもそも洗脳しきった我が【王国住民】達の心を動かすのなんてかのカシマレイコにだって不可能ごと。
ならば、と鹿子は夢ですら重くて拾えないだろうほどの細い細い蜘蛛の糸を少女の前に垂らす。
たん、とヒールを鳴らした鹿子。彼女の合図によってざわめきは殺される。
四天王としての能力を存分に用いながら、少女失格はこう、さえずった。
「おほほ……ダメですよ。皆様」
「鹿子ぉ……」
「むしろ、百合さんにはただで帰って貰っては困ります」
「えぇ?」
阿呆のように小さな口を空ける、百合。よく見れば髪にガムが貼り付いている哀れに向かって、にこりと鹿子は微笑んだ。
そう、嘲笑って決して逃がしはしないのだと先輩は後輩の退路を断つのだった。
契約されていようがなんだ。訴えられようが知ったことはない。今ここでお前の心を殺す。
そんな強い決意は鹿子の瞳の色に表れた。
ああ、己ばかりを信じてわたしを疑うこの世の全てなんて死ねばいい。わたしこそが全てで、愛されるのはわたしだけでいいのに。
そんな本音をアイドルで隠して生きる、逐鹿という言葉から己を鹿とした孤独な女は。
「おほほ。そのまま、唄ってわたし達を楽しませるのよ」
披露するは婀娜に笑窪二つ。
そしてそんな、見事な墓穴を掘ったのだった。
「ふふ……ふふぅ」
百合は笑う。水蒸気に巻かれすぎたスカートに下半身がぐっしょりだが、そんなの気にも止めずに幽鬼のように少女は再び立ち上がる。
ああ、何が四天王、トップアイドルだ。こんな程度の低い虐めなんかで満足して、どうして最果てに生きられる。
『大丈夫。百合ちゃんは、決して負けない』
そんなことまで言って信じてくれた彼はひょっとしたらこの無法に暴れているかもしれないし、涙に暮れているかもしれない。
でも、百合だって片翼の言葉を信じているし、マネージャーたる彼の頑張りに対する感謝なんて片時も忘れていやしないのだ。
「今が、恩返しの時ですぅ」
「貴女……」
目を瞑る。しかしその度に百合に闇は見て取れない。伺えるのは果てなき人の業。
しかし、そんなものを根底としながらも再び目を開けば燦々とした希望ばかりが映った。
じーじが初めて返してくれた、一通の手紙。そこに書かれていた謝罪と私に対する言葉を抜かすと浮かび上がってくるは、ただ関係してしまっただけの一人の男の尽力。
中井裕太は頑張って、土下座をして踏みにじる脚に縋り付いてまであのヒトに百合のお歌を届かせてくれた。
それだけで私はとてもとても幸せになれて、はじめてあのシワシワの指先に撫でられた時の私はきっと天上にあるような心地だったけれど。
『歌で黙らせてしまえばいい』
でもだからこそ、あなたのその言葉を信じて私は地獄になろう。
それはマグマの如き熱量であり、罪過極まりない悲しみの洞。終わりの終わりのどん詰まりに、プラスなどなければ唯一あるのは生に対する罪と罰。生きることに対するシンメトリー。
『ふざけるな! 幸せにも成らずに、泣き喚きもせずに、死ぬんじゃない!』
そう、町田百合はマイナスより生まれて、でも何時か彼女は自分を傷つけ続けた圧倒的なディスアドバンテージをすら良しとしていた。
「うふ」
だからこそ。
「ら」
三分ほど前よりBGMは切れて、また少女に光の一切が向かうことはない。
この場はアーティストの死地。逃げること許されず何ひとつを大げさに表現できないなんて、持つものにだって辛すぎる。
でも、なら。
「らぁ♪」
答えは単純なこと。私が音楽で光になればいいのだ。
ああ地獄だって、きっと明るくって、綺麗。
「あ、ああぁぁぁぁあああああっ――!」
「……絶、叫?」
そう、音もない暗闇に響いたのは、百合の叫びだった。
――――
悲鳴こそ、地獄にある唯一の唄。
合唱斉唱、痛苦を重ねて重ねて、でも。
『私が、絶対にっ――!』
何時か私がきっと天国へあなた達を連れて行くから。だから。
――――――――――――
『負け、ないですよぉっ!』
罪科がどうした、悪なんて知ったことか。彼らはずっと血で涙を流している。
顧みられることなき彼らから、私だけはずっと目を逸したくなんてなくて。
――――――――――――――――――――――――♪
「ああ、だから止めた方がいいと言ったのに」
「何だよ、これっ」
「~♪」
「なるほど、彼女こそが、アイドルなのね」
「わあ。やっぱりキモいよぉ! ……でもやっと本気で歌ってくれて、ちょっと嬉しいなあー」
だからあの子だってこう名をつけた。
「マイナス」
「それが、今の百合の歌ですぅ」
拍手は返ってこない。
声も、一つもなければ嘆息すら有り得ず。
そう。この日少女は愛を唄い。
「負け、ました、わ」
風船の建物の中にて百合の
圧倒に頭を垂れる何もかも。その内一つの四天の少女に百合は。
「ほらぁ」
「きゃ」
「百合はシークレットゲスト。鹿子は次、頼んだですよぉ」
「次? 私がこの次を、どうしろと!?」
「はぁ……」
逃げ出してはいけないと言い張っていた、今すぐにでも逃げ出そうとする少女の手を取ってあげて。
「なら、一緒に歌うですよぉ」
「あっ……」
一夜にして、王国を乗っ取ったのだった。
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