第六話 仕方ない

 好きという言葉は嘘で、嫌いという思いも間違えで、なら私に正しさなんて一つもない。


 嘘つきの自分はきっと天国にはいけないだろう。あの果てしない清涼には至れやしない。

 つまり、これから向かうのは地獄なのか。私は痛くて辛いばかりの、どん詰まりに至るのだ。そんなのは嫌だけれど、仕方がない。

 釉子は悲しくも思ってしまう。罪には罰があって然るべきで、私はこの世には未来と希望しかないと歌ったとんでもない罪人で。


「だから、仕方がないんだ、これも」


 そう、希望を手放し諦めて、故に花は散るのだ。





 大腸癌のステージ3。それが一年ほど前に田所釉子が医者から告知された状況。

 よく分からない。癌という病気の詳細も、よく自分が乗っかっていたあのステージという文句が病気に使われているその意味合いすらも。

 しかし癌という恐ろしげな言葉に怯える釉子に医者は大丈夫です、とはっきり言った。それに頷くことで彼女は一旦恐怖からは立ち直ったのだ。


 転移はまだ見られないが、予断は許さない状況。術後の抗がん剤の効き具合が鍵だろうと医師は禿頭を掻きながら言う。

 水呑鳥の玩具のように、再び頷いた釉子はだがまだ状況に希望を見いだしていた。

 自分なら大丈夫だろう、と何の根拠なく彼女はいたずらに光を望む。


「バカな、自信だったね」


 だが釉子には、最近の優れた抗がん剤が、合わなかった。それこそ、致命的なくらいに。

 副作用が少ないというそれに、彼女の身体は拒否反応を示した。

 釉子は、ひと月ほどの間続く嘔気に襲われ、何もかもを吐き出していく。

 弱音も嗚咽も、何もかもを露わにした女性は何の助けにもならない彼氏すら吐き出し棄てた。


 やがて健康的な美貌に影が出来るまでに彼女はやせ細る羽目になる。

 アイドルを辞めてからこのかたふっくらとし続けていた頬はやせこけて、これまでは指輪の都合に困っていたが今は全盛の指先より尚細く、子供の玩具がぴったりだ。


 一度改めて鏡を見れば、もう分かる。ああ、これはもうダメだと。


 そして、再検査を受けて、それが事実だと判明した。

 手の施しようもなかったひと月の間で起きたのは胃への、明らかな転移。そして、肺にもぽつりぽつりとそれらしき部分がある、と医師は語った。

 大丈夫なんですか、と釉子は医師に聞く。すると今度は彼は大丈夫とは決して言わず、首を振って。


「余命、半年です、か」


 元アイドルは、そんなことを言われた。

 釉子はこう思う。手慰み程度に行っていたファッションデザイナーの仕事はたたまざるを得ない。そして、あの金に歪んだ醜い親家族にも報告はしないとダメだろうか。

 そして、マンションはどうすれば、遺ったお金はどこかに寄付した方が良いだろうか。そして、そして。


「私は、それだけだった」


 自分のことを片付けて、そればかり。女性は自分が孤独でしかないことに死の間際で気付いたのだった。


 自分は飛ぶように売れて、でも決して天上にまでは届かずに、そして中途半端に達してしまったがためにこうして一人で死ぬ。


 そんな寂しいのは嫌だった。もう要らないと勘違いしてしまうくらいにファンから愛して貰ったのに、終わりは独り。

 ああ、なんてつまらない人生だ。これは死んでも、仕方がないな。

 そう思い、彼女が生きようとする気力を失ってしまったのは、どうしようもないことだったのかもしれない。


 辛い闘病よりも緩和ケアを選んだ釉子は、そのまま独り病室に篭もる。

 誰かに連絡取ることすらなく、諸々の片付けは溢れんばかりの金銭を用い専門家に押しつけて、そうしてずっと無為に独りを続けた。

 ただ、得意の見目ばかりは崩すことなく美しく。蝋の燃焼、最後の輝きのようなそれをすらひと目に付けることなく貸し切りの病室にて、虚空を望んだ。


「何も、無いな……」


 勿論、綺麗に整えられた白の中のどこにも瑕疵はない。リノリウムの床にだって埃はほとんど見当たらず。

 そして、己の内に失望以外の情動を見つけられず、鬱ぐ。


 こんなものが、その昔は世界平和だって本気で願って歌ったのだ。誰かの恋の成就の背中を押すための歌詞を書きもした。

 そんな事実、ファンにはとても見せられない。もう私以外の誰かが、私に失望するのは嫌だ。

 その思いから、孤独に死ぬのを望んでいた釉子。でも、ただ彼女は人より美しく優れていたばかりで、決して根気のある人間ではなかった。


「外の空気でも、吸おうかな……」


 それは、死ぬまで生きるための息継ぎ。

 久方ぶりの外はあまりに暖かな光に満ちていて、自分なんて除け者にされているような気がして気持ちが悪かったけれども、心地だけは無駄に良かったのでふらりふらりと人気に寄せられ。

 そして。


「らー、あー、あー♪」


 釉子は、許しがたい音を聞くことになる。

 それは、音として歪んでいて、続いて並んでいるのが奇跡的ですらあり、娯楽というより挑戦であった。


 田所釉子が聞いたのは、下手くそ極まりない、町田百合の歌声。

 元の歌すら定かではないその崩れきった音色にどうしてだか元アイドルの彼女は。


「全く。これは下手な歌、だなぁ」


 泣きそうになった。

 だから、こらえるために強がり、それからずっと少女の前ではずっと捻くれた態度を取ったのだ。


 求められて続けたレッスンのような触れ合いだって、本当はあのどうしようもある歌を、未来溢れる少女のために最期くらいはなりたいという一心から。

 そして一部でも、私というものを輝かしい彼女の将来に持っていってもらえたら、という下心だってあった。


 でも、そんなこと伝えられない。

 好きになってしまった、愛おしいと感じてしまった。

 そのぎこちない笑みが可愛くて、触れると嫌がる髪の柔らかさが心地よくて、歌うその唇の桃すら絵の具にしたいくらいで、はたまた一体全体の傷跡が悲しい。


「ここで、おしまい。今日でレッスンは終了」


 一人ぼっちの私の前に、ただ一人手を伸ばしてくれた子。

 そんな子を、私は絶対に抱きしめられない。だから、背を向けてさようならをしたのだ。


 だって、そうでもしないと。


「う、ぁあああああ! ああぁぁあああ……」


 耐えられなくなってしまうから。


 案の定。その日騒々しくない以前の病室の中、釉子の嗚咽ばかりが響くようになる。

 枕に顔を伏せ、叫びは漏れぬよう。そう冷静に思いながらもどうしようもなくシーツは濡れる。

 だって、だって。何よりも温かみがない。顔をあげたところで、あの、ファンですらない少女の熱が、夢のような夢が、どこにも見あたらないんだ。 


「辛いよ、痛いよっ、一人はもう……嫌!」


 一人ぼっちで、死のうとした。でも、それでもあの子は私を見つけてくれて、そうして喧嘩してまで私に構ってくれていた。

 ひょっとしたら彼女は最期の救い。それをすら手放して、痛みに悶えるばかりが全てなら。


 ああ、或いはこれが。


「地獄、なのかな……」


 釉子はそう、零した。




「……んなこと、ねぇですよぉ……!」


 いつも通り、それこそ数時間前の際と同じく扉は遠慮なく開かれる。しかし。


「せんせー……泣くなですぅ!」


 昼の上機嫌を反転させたかのように百合は、釉子の悲鳴を泣き声を聞き取った少女は悲しげにして、しかし彼女のために泣けずに叫べず苦しむばかりで。


「百合が、あんたに最期までついてやるですよぉ……」


 それでも、暗がりの中、胸元の痛みに悶ながら、車椅子から身を乗り出し、手を伸ばせたのだった。




 この子を好きという想いは本当で、嫌いという言葉は嘘。なら私は正しくこの子を愛していた。


 でも嘘つきの自分はきっと天国にはいけないだろう。あの果てしない清涼には至れやしない。

 つまり、これから向かうのは地獄なのか。私は痛くて辛いばかりの、どん詰まりに至るのだ。そんなのは嫌だけれど、仕方がない。

 釉子は悲しくも思ってしまう。罪には罰があって然るべきで、私はこの世には未来と希望しかないと歌ったとんでもない罪人で。


 でも。


「だからって、仕方ないことなんて、ねぇですよぉ!」

「う、わああ、あ……うぅ」

「さよならなんて、嫌ですぅ!」


 そう、花は愛のために花に寄り添い、故に花は無様に濡れて、綺麗に散ることだけは出来なくなったのだった。


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