第三話 負けない


 百合は、地獄の蓋である。

 つまり地獄の天板であり、皆がそこまで落ち込んでしまないように、踏み敷かれる役割。最低値を超えないようにある、底辺。そんなヒトガタが、百合だった。

 だが、ヒトガタであるからには、成長が許される。ならばと焦げ付いた心で発奮した少女はぐずぐずになるまで踏み潰されていく。


「つれぇ、ですよぉ」


 それは極まった求不得苦。全てが揃っていて、しかし何一つ足りていない。

 頑張って頑張って、それでやっと支えを用いて歩けたというのに、周囲は駆け足を競い合っている。

 努力して努力して、言葉を紡げるように成った時には、綺麗な斉唱があたりに響いていた。


「でも、百合は負けないですぅ!」


 言に反し、町田百合は負けている。だが、何時までもそのまでいられないというのは彼女の本音であった。

 何せ、このまま踏み台を続けてばかりではトップアイドルになるなんてなれるはずもない。

 それどころか、人として劣ってばかりでは親の恩にだってろくに報いることは出来ず、周囲に愛を示すことだって不可能で。


「負けない、ですよぉ……」


 だから、少女は何時か皆のためになるために、今皆に虐められようとも、人として否定されたところで決してそこで終わらないのだった。




 生きることはとても楽しいものだと、七坂舞という少女は信じてやまなかった。

 親にはいたずらだろうが何をしても喜ばれ、試しに人のためを行ってみたら尚褒められた。笑顔が自分の周囲では当たり前で、嫌があっても一度泣いてしまえばそれからは遠ざけて貰える。

 かけっこはどきどき楽しいし、お絵かきは色々を試せて面白いし、ままごとは自分も偉くなったようで気持ちよく、勉強だってまだまだ簡単で、そして最後に眠ってしまえば必ず楽しい明日がやって来るもの。

 人生はなんてこんなに清々しくって簡単で楽しいものなのだろうというのは、彼女にとって当然の感想だった。


「百合は、百合、ですぅ」

「そ、そうなんだ。わたしは舞。よろしくね」

「よろしく、してやるですぅ、とっ」

「あ……」


 だから、両目を眼帯で覆い、歩行補助のための松葉杖を両脇に抱えながら楽しいはずの登下校を必死にしている町田百合という少女は舞の理解の外である。

 彼女は額に汗かきながら、とても辛そうに小学校への道を進む。カツ、ではなくガツリといった音を立て、彼女はリズム悪く歩んだ。

 それに無理に合わせた周りの子達は、とても窮屈そうである。そして、少女の大したことのないものに対する真剣ぶりがまた、気持ち悪くもあった。


「はぁ。はぁ……」

「ったく……」

「百合、さん。大丈夫?」

「はぁ」


 遅々としたその歩みは、最初は嫌がられながらも通学路を同じくする上級生を中心に慮られてもいたが、しかし百合は彼彼女らの思いやりを拒絶する。

 始業に遅れかねない少女を心配して歩みを同じくしている黄色い通学帽子の群れを見回し、挑発するかのように言った。


「なんですか、皆そんなにちんたら、して。百合のこと、そんなに気になるですぅ?」

「だって、君、足が……」

「足がどうしたですか? 百合に、悪いところなんてねぇですよ。ただ、あんたたちより百合がまだまだ劣ってるだけ」

「はぁ?」

「でも……」

「その内にあんたらなんて追い抜いて放ってやるですぅ。……だから、今の百合なんてあんたらも放っとくですよ」

「そう……」

「ちっ、変な奴」


 リーダー格の最高学年男子が一度百合から背を向けてぐんとペースを上げてしまえば、百合の心を思い気遣わしげにしていた女の子でもそれに合わせなければならない。

 故に、集団はそのまま百合を残して去って行き、残ったのは。


「はぁ、はぁ」

「あの子、何なんだろう……」


 辛いばかりにしかし皆を追い掛け続ける百合と、舞の心に凝った疑問ばかりだった。


「はぁ……負けない、ですぅ」


 枯れた田の上を高く飛ぶひばりの鳴き声遠く、空はあまりに高くて地べたの生き物なんて、本来気にするべきでないかもしれないくらいの、些事。

 それでも確かに、彼女は必死になって前を向いていた。




 両目眼帯という特異。更には、知能以外に優れたところは何もない、事実。


「お前、目どうしたんだー。そんなのしてたらろくに見えないだろ?」

「これは綿なしの眼帯ですぅ。スケスケですよ。百合はちょっと光に弱いだけで視力は他の奴らにも負けないですよぉ」

「へー。そうなのか」


「百合さんって体育の時間、どうするの?」

「百合はあんたらの見てないところで歩行訓練をするですぅ。後であっと驚かせてやるですよ!」

「そう、なんだ……」


「お前、勉強できんのな」

「そうですよぉ。百合は天才なのですぅ! もし頭を下げたらノートを見せてやってもいいですよぉ」

「いや、お前のノート遠くから見ても無茶苦茶読み辛そうだし、いらねえよ」

「ガーン、ですぅ」


「こら。ちゃんとお前も当番の仕事するですぅ!」

「何、百合ったらいっちょ前に指図すんの、あたしたちを」

「そりゃ、そうですよぉ。同じ掃除当番の片方がサボってたら、文句言うのが当たり前ですぅ」

「……同じ? あんた、あたしらと同じだと思ってんの?」

「そりゃ、そうですよ。同じ釜の飯を食ってるんですから、仲間ですぅ」

「はぁ……おめでたいわね……いいわ、やればいいんでしょ、やれば」


「らー」

「何あんた、休み時間どこに行っているかと思えば、こんな校舎の裏で歌ってんの? くっそ下手くそで笑えんだけど」

「あー」

「……何、無視? 耳が腐りそうだから、止めてほしいんだけど」

「るー」

「止めろっての……耳も悪いのかよ。やっぱこいつキモいわ」

「うー」

「はっ、そのまま教室に帰ってくんなよ、グズ」


 少女の応答はどこまでも正しかったが、しかしそこに実力なんてなにもない。

 だから百合が口だけ達者な人でなしとされてしまうのに、そう時間はかからなかった。

 そして、一度嫌われた踏み台なんて、弄ばれてその悲鳴の汚さを嗤われるのが残念ながら自然な流れ。

 思いやりをただ受けるばかりでその意味を知りもしない子どもたちは、故に虐めという行為を楽しんで行うようになった。


「へい、パス!」

「やめるですぅ! それがないと、百合は帰れないですぅ!」

「ほら、こっちに来いよ、うすのろ……ほら、次!」

「やだ、汚いのこっちにやらないでよ、やっ」

「このっ、薄汚いのはどっちですぅ!」


 加害対象として遊ばれるようになった百合は、怒りながら片一方の杖でもって、取り上げられ集団に弄ばれる松葉杖を、のろのろ追い掛けていく。

 勿論、その速度は百合の本気である。けれども、その程度では、集団の杖のパス回しには追いつけやしない。

 菌が付く等と言い嫌がる女子も、次へと杖を与えていく。誰もそれを止めやしない。だって、止めたらそれは百合と同じ空気を読めない存在ということだから。

 これと同じなんて、なんとおぞましいという、子らに共有された価値観。それは、彼らの持っていた萌芽のような正義感を容易く折っていた。


「返せ、ですぅ!」


 額に汗。生命線を守らんとする少女はそれこそ必死だ。

 だから騒々しく追い掛ける百合は、決して諦めることはなく、それは終に。


「あ」

「はぁ、はぁ、今度はてめぇですか……」


 傍観者だった舞の手元までやってくることになった。

 使い込まれている様子の軽いアルミか何かの金属製のそれは、子供でも投げて渡せる程度の重みだ。そして、こんなものは自分は要らない。

 だが、どうしてか、眼差しの全てが隠されている少女の睨みをぶつけられてから、その松葉杖は途端に重いものに感じられた。


「うぅ……」


 そう、だってこの子はこれに毎日縋って歩んできていて、それをわたしは何時も置いてきているのに。

 幾らこんなに虐められようが、この子はひたすらに無遅刻無欠席を貫いているのだ。

 そんな少女の信念の一部を、軽々しく誰かに渡してしまって良いのだろうか。少女は少女を思い、一瞬悩んだ。


「七坂、早く次にやれよ!」

「取られたら、呪われちゃうよー」

「う、うん!」


 でも、周囲は囃して遊びを続けようとしている。

 虐めなんてこんな楽しくない遊びの流行りなんて早く終わってしまえばいいとは思うけれども、次は自分とされてしまうのが怖くって何も出来ない。

 だから、少女は嫌々それを次の子に引き渡そうとして。


「今、ですぅ!」

「きゃ」


 舞は、百合に飛びかかられた。

 懸命に杖で歩みながらも虎視眈々と隙を伺っていた彼女には、少女の迷いですら好機に他ならない。

 その不自由な全身をもって相手に負荷をかけにいく。

 そして、縋られた舞は大変だ。同じ程度の体格の子一人分を少女が支えきることなど出来るはずもなかった。


「わ」

「う」


 当然、二人は縺れて転がっていく。どこかの部位が顎に当たり、更に椅子なのか硬いものが頭にあたって痛い。

 そして、何より相手の少女の重みで胸がやられそうで。

 だから、救いを望むように舞は目を開けたのだけれども。


「え?」

「あ」


 そこには、地獄があった。

 眼帯の白がずれて覗いてしまったそれは黒く、しかしそれだけではない。

 紛れる赤は血であり、炎でもある。そしてそれは多くの魂を含めて茹だって、引き裂いて、壊していて。

 そんな全てを飲み込んで、少女は頬を上気させ当たり前のように舞を見下ろしている。


 なるほどこれは、命に対する冒涜だ。


 ぱかりと開いた、地獄の蓋。それは、この世の末期を映していて。そんなもの、幼子の心に納めきれるものではなく。


「うぇえ」

「うわ、今度は七坂が吐いた!」

「汚ねぇ!」


 舞は嘔吐してでも、吐き出す他になかった。


「うぇ」


 溶けかけのグラタン、大好物のハンバーグの欠片を口から出し、更に黄色い粘着く液も出して、そうして最後にえずく。

 それでも、気持ちが悪い。許せない、嘔吐感だった。あり得ない、不愉快である。


「あぁ」


 もう、周囲のことなんて聞こえない。これからどうなるとか、どうでもいい。

 この、急いで眼帯を直して心配そうな表情を持ってこちらを向いている存在は、ちょうどいい具合に膝を折っていた。

 なら。何か言わんとするそいつの頭に向けて。


「ごめん、なさい。大丈夫で……」

「死ね」

「あ」


 思い切り、手の中の松葉杖を振りかぶって叩いた。殴って、突き刺す。

 全ては、それを否定するために。嫌だ嫌だ、あんなものが存在するなんて。そんなものを持っている化け物なんてヤダ。

 楽しい人生の中に、こんな終わりはいらない。だから、どこか切れて血が流れようが、前歯の欠片が飛んでこようが、関係なかった。


 こいつは、間違っている。


 全ては終わらすために、怒気と共に少女は発奮する。


「死ね、死ね。死ねぇっ!」

「あ、うぅ」

「おい、止めろよマジで、町田が死んじまうって!」

「死ね、消えろ!」

「聞いてねぇ、どうすんだよ、このゲロ女……」

「俺、先生呼んでくるわ」

「ダメよ。あたしたちがコイツ虐めてたのバレちゃうじゃない!」

「んなこと言ってる場合かよ!」


 当然、虐めは遊びでそこに何の本気もなかった周囲は、本物の殺意に怯える。

 慌てる子らは高い悲鳴を上げ続けて、やがてそれは何時か遠く業務を行っていた先生方にも届くだろう。


「えい」


 だがしかし、その前に。舞は血に汚物に染まってひしゃげたそれに全体重をかけた。

 杖の先端に力が集まり少女の身体からごり、と不快な音がなり、そして。


「げぅ」


 汚い音と一緒に、百合は口から血を吐いたのだった。





 改めて、町田百合は、地獄の蓋である。

 故に、暴力や悪意なんかでは中々壊れることのない頑丈さがあった。

 だから、幾ら肺に肋骨刺さって死に掛けたところで、終われやしない。


「あぇ、ゆぃは」

「百合ちゃん! 先生、百合ちゃんが目を!」

「ぅう?」


 それは、少し前の再現のよう。口に入れられた管にて喃語のようになった言葉に、ずっと看ていた母は涙を浮かべる。

 疾く、自分に背を向けて医者を呼びに行った親の姿を薄いガーゼで覆われた奥の目で追い、そして百合は。


「あぅ」


 あの日の全てを思い出す。痛いを越えて熱いばかりの身体、そして何より冷たい否定の目。

 そんな全ては瞼の裏に見知っていて、でもそれを直に受けた辛さは何より身体を震わせて。


 でも。固定された身体を痛みとともに揺らがせながらも百合は。


「まぇなぃ、でぅ」


 そう、呟けたのだ。




 ああ、彼女が泣けない瞳を恨むのは、久しぶりのことだった。

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