一.翼持つもの

 

 

「まことに、申し訳ございません……!」

 地面に擦り付けた額を更に深く押し付けたために、砂と礫が食い込んだ。

 だが、その痛みを感じる余裕はなかった。

 ただ胃の腑がきりきりと締め上げられる感覚と共に、背筋に冷水を浴びたような悪寒が抜けず、揃えて伏した腕が小刻みに震える。

「追って沙汰のあるまで、謹慎しておれ」

 中小姓頭・青山助左衛門は、外廊下から渋面でこちらを見下ろし、にべもなく言い捨てた。

 四十半ばになろうというのに、未だ端整な顔立ちをした男で、先代の頃から主君の側近くに仕え、当代からの信任も厚いと聞く。

 その事実だけでも、ほんの十四の少年から見れば、恐ろしく偉大な存在である。

 加えて藩政以来の古参の家柄だ。

 かといって、平素威張り散らすような横柄さも無く、周囲の人望も篤い。

 その上役が、これほど冷たい目で配下を見るものかと肝の潰れる思いがした。

 下がれと命じられても、手足は震えて言うことを聞かず、そこに縮み上がるのみであった。

 

   ***

 

 桜花も盛を迎え、霞んだ風に吹かれてひらひらと花弁が舞う。

 春告鳥の囀る声が、庭園を囲む木立の中から降るように聞こえていた。

 安政六年、大谷おおや武次が小姓組にあがって一年が経った春のことである。

 この年、主君丹羽左京太夫長国は奥州十万石の二本松へ帰国し、城内本町谷庭園においてささやかながら花見の宴が催された。

 小姓衆も総出で宴席に侍る中、武次もまたその隅に控えていた。

 左京太夫には十八の時に迎えた正室のほか、国許に幾人かの側室がいる。

 普段、奥向きとの接点は殆どないが、宴となると話は違ってくる。

 久々の宴ともあれば、殿の側室や妹姫らが、御付の女中たちを伴って表へ姿を見せるのだ。

 日頃は男ばかりの城勤めの中に、ぽっと花が咲くような雰囲気が漂う。

 当然だが、武次のような新参が左京太夫の側へ召されるようなことはない。

 同じ小姓組諸兄の所作を学ぶ、良い機会だと気楽に構えていた。

 だが、そこに不意に声が掛かったのである。

「おまえは確か、弓が得意であったな」

「は、幾らかは」

 中小姓頭の青山助左衛門であった。

 流石に小姓衆の得手不得手は把握しているらしく、武次が武芸の中でも特に弓を好むことを知っていたと見える。

「殿が余興に弓をと仰せだ、やるか」

「私のような若輩が御前で弓を射るなど、畏れ多いことでございます」

「またとない機会だぞ、出る気があるなら私が推してやろう」

「ですが弓ならば、他に名手と呼ばれる方が大勢おられるのでは」

「殿は若い者の中に覚えのある者はないかとお尋ねなのだ。そう恐縮することもない。殿の御目に適えば、いずれ近習にお取り立て頂けるやもしれんぞ」

「私が、殿の近習に……」

 それは確かに、二度はない好機のように思われた。

 武芸の中でも、弓だけは幸いに得意の範疇にあると自負している。

 藩校の吟味でも年上の者を抜いて評価されたこともあった。

 その腕が役立つのなら御前で一矢、とも思ったが、同時に一人突出して目立つのを忌避する心も働く。

 小姓組の末席から少し目を向けただけでも、家老の丹羽丹波、日野源太左衛門、大谷彦十郎、城代の内藤四郎兵衛、番頭の樽井弥五左衛門らといった錚々たる顔触れが臨席しているのが分かる。

 なんの前触れも無く唐突に訪れた話に、武次は二の足を踏んだ。

 何としても出世したいという欲が、武次には無かったのである。

 何かを競うことには拘りを持てず、人を押し退けても己が前に出ようという気になったことは、昔からただの一度もない。

 その性質は小姓組の中でも変わらず、意気地がないと見て侮る者も多かった。

 それを特別に悔しいと思うことも無く、近頃では変わり者として扱われ始めているのを肌で感じていた。

 城勤めは上手く立ち回ることが求められる。

 自身を巧みに上役へ売り込み、目を掛けられた者から出世していくものだ。

 藩では通常十八にならねば番入りとはならなかったが、武次は学問の成績と弓の腕を認められ、早くから勤めを許されていた。

 勿論、城へ上がれば当主の禄とは別に扶持を受けられる。

 武次の家は父が竹木元方役として百石の禄を受けていたが、昨今の財政窮迫を受けて、殆どの家中と同様に知行を貸し上げていた。

 貸し上げるとは上辺の物言いで、藩庫へ入れられた分は結局は各家に渡ることはない。

 家計は当然苦しく、自分が城へ召し出されることで幾らかの足しになれば良いと考えていた程度だった。

 平穏に過ごしたいがために、上役や同輩に目を付けられぬよう控え目に振舞ってきたのだが、それがかえって上役の目を引いていたらしい。

「優れた腕前を披露すれば、皆のおまえを見る目も変わるぞ」

 これも武次の今後を思い遣って声を掛けてくれたものと思えば、固辞することも憚られた。

 結局、気の進まないままに、武次は主君の御前で矢を番えることになったのである。

 古来からの山城には、城屋敷の西に水路を巡らした庭園を設けており、四季折々の景色が楽しめる。

 春は桜、秋は楓、一年を通してその風情を変えぬ赤松や黒松が枝を張り、時折こうして宴や茶会が催された。

 的は溜池の奥、豊富な水に濡れた岩肌も黒々とした、滝の上にあった。

 距離にして、ざっと五十間ばかり。

 急拵えの的は、如何にも余興といったふうである。

 藩主とその側室、重臣の居並ぶ中、前へ出た武次は緊張から僅かに脚に震えが起こる。

 腕に自信がないわけではない。

 この程度の的、外すほうが難しいと感じた。

 だが、皆の目が一斉に注がれていると思うと、途端に気持ちが萎縮してしまう。

 掌はじっとりと汗が滲み、内から這い出すような熱に全身が苛まれた。

「この者は竹木元方役・大谷おおや治右衛門が嫡男、名を武次と申します。未だ十四と幼いながら、学も弓も藩校にては右に並ぶ者なしとまで言われております」

 小姓目付は御前に進み出て、背後に控えた武次を示した。

「されど、一切驕ることなく研鑽を積んでおります。その姿勢は小姓・取次の者たちの中でも極めて奥ゆかしいものでございまして……」

「ほう、それは良い心がけよ。抜きん出た才に驕らず、一層の高みを目指すというのは、なかなか出来ることではない」

 左京太夫と思しき声で称賛の言葉を賜り、武次はより深く面を伏す。

 頭上に降る主君の声は穏やかで、まさに今日の春の陽射しのような、静かでのんびりとしたものだった。

「は。弓を遣い、その心映えの優れたる者となれば、我が小姓組の中ではこの武次をおいて他には思い当たりませぬ」

 つらつらとよく回る口だ。

 だが、その口上になるほど、とも思った。

 武次を推挙し、左京太夫の気に召せば小姓頭自身の株も上がり、より要職へと躍進することもあるのかもしれない。

 武次を案ずる体で、自分の足元を固める算段なのだ。

 何もそれは彼に限ったことではなく、大抵の者は皆そうなのだろう。

 己が評価を高めることを目指し、名声を得て盤石な地位を築いていく。

 そうした処世自体を否定する気はなかった。

 ただ、そのために自分自身が主君の目に留まれば、武次への注目はこれまでの比ではなくなるだろう。

 かと言って、既に御前に出てしまった身を引っ込めるわけにもいかなかった。

(ここまで出たなら、ままよ……!)

 弓弦を一杯に引き絞り、的に向けた目を微かに眇め、武次は番えた矢を放つ。

 事が起こったのは、その矢の飛んだ刹那である。

 目白が矢の軌道に羽ばたき出て、矢は鳥ごと的の中心を貫いたのである。

 どっと歓声が起こるのに混じり、どこかで女の鋭く泣き叫ぶ声がした。

「武次! 貴様無礼な、即刻下がれ!!」

「!? な、何事ですか」

「おまえはもう良い、下がれ下がれ!」

「お待ち下さい、一体何の御無礼が──」

 すぐさま怒号が咎め、武次はわけもわからぬままに、上役と同輩によってその場を引きずり降ろされたのだった。

 

   ***

 

 まずかったのは、鳥を縫い留めたことそのものでは無かった。

 あの射止めた小鳥は、左京太夫が帰国の折に国の側室への土産として買い求めた目白だった。

 それを宴に連れ出したところが、女中の不注意で鳥籠を開け放してしまったのだという。

 そうして飛び立ったものが偶々、武次の矢に中った。

 そんなものは不可抗力である。

 咎められるべきは注意を怠った奥女中であって、求めに応じて矢を射た自分では決してない。

 しかし、鳥を射たのは紛れもなく武次の放った矢である。

 ゆえに、助左衛門は武次を即刻下がらせた。

 武次にも過失があったと判じたのだろう。

 助左衛門は小姓頭としての役目に忠実に振舞っただけに過ぎず、上役本人に対して思うところは何もない。

 あれがただの野鳥だったなら、こんなことにはならなかったのだ。 

 父までもが出仕を差し控えるよう通達され、決して大きくもない役宅の中にじっとして過ごしていた。

 その日以来、城からの沙汰はない。

 家の中に広がる不自然なほどの静けさが、一層不安を煽り立てていた。

 元来好む書画や和歌にも興が乗らず、手持ち無沙汰なわりに何一つ手に付かない。

 季節を迎えて白く花開く庭の木蓮も、武次の詩興をそそる事なくただそこに咲いていた。

(このまま科人とされてしまうのだろうか)

 出るのは溜息ばかりだ。

「元服前の子供のこと。ましてや不慮の事故ともなれば、きっと寛大なる御沙汰があろう」

 謹慎を申し渡されて帰ったその日、一通りの事情を知った父はそう言葉をかけた。

 しかし、武次にとってはそれも気休めにしかならず、不安は日に日に膨らんでいく。

 このまま父子ともに御役御免となりはしないか。

 不安はついにそこまで達し、昼夜を問わず胸のざわめくのを止められずにいたのだった。

 

   ***

 

 漸く城から沙汰が届いたのは、宴から八日目のことである。

 通されたのは城の奥、主君の御居間だった。

 武次を先導して連れてきたのは、助左衛門である。謹慎を言い渡した折には険しかった面持ちも、今は柔和なものとなっており、その意図するところは量り兼ねた。

 必要以上に口を開かなかったし、叱責もない。

 淡々と職務を遂行する小姓頭の姿である。

 御居間へ取り次いだところで助左衛門は下がり、襖を閉められてしまうと、そこには主君左京太夫と武次との二人きりとなった。

「ああ、よく来た。楽にしてよいぞ、顔を上げてこちらへ来るといい」

 閉めた建具の間際に、武次は平伏したきりになっていた。

 謹慎を解かれて直後、主君の前に一人放り出されるとは考えも及ばず、両掌は畳に這わせても尚震える。

 加えて左京太夫の温厚な声音が優しく語りかけるのを聞き、武次は思わず目頭に熱く込み上げるものを感じた。

 国入りしてすぐの宴を不意にしてしまったことは、事実なのだ。

 主君が側室を想って求めた鳥を射殺してしまったことも。

 それを一言も責めることなく、失態を演じた自分を側へ招いてすらくれようとは。

「……申し訳ございません、でした」

 主君の優しげな声に甘え、赦しを請おうという気持ちには到底なれなかった。

 僅か数間先にいる主君の威光が、身に刺さるような思いである。

 殊に身分の低いものにとっては、神にも等しい存在。

 それが主君であった。

「どのような御沙汰も、謹んでお受け致します」

 震える声で漸く告げると、刹那のあとに衣擦れの音がした。

 左京太夫が自ら足を運び、武次の傍らまで近付いたのだ。

 膝を折り、伏した武次の背にその手が静かに触れる。

「小姓に上がって間もなかろうに、怖い思いをさせてしまったな。いきなり謹慎などとは、助左衛門め。あやつはちと厳し過ぎるのだ」

 労るような口調が頭上に注ぎ、左京太夫の苦笑する気配が伝う。

 それに一層の恐縮を覚え、武次は殊更に頭を低くした。

「いいえ、助左衛門さまは御役目を果たされただけのこと。此度の失態……、どうお詫び申し上げれば良いか」

 言いながら、切腹の二文字が念頭を掠める。

 不思議に謹慎中には思い至らなかった処分が、今、主君を目の前にして初めてありありと浮かんだのである。

 縮こまって平伏した姿勢を崩さない武次に、左京太夫は自ら歩み寄り、その肩に手を置いた。

「そう畏まらずともよい。余は何の処分も与えるつもりはないのだ」

 勿論、父御にも。と、左京太夫は間延びがするほどゆっくりと語りかける。

 まだ前髪の武次が抱く恐れを、一つ一つ丁寧に取り除くかのような口振りである。

 背に触れたままの左京太夫の掌は温かく、その熱が強張った胸を解いていくようだった。

 同時に畏怖を見抜かれたような気がして、武次はつい、はっとして顔を上げる。

「私を、御赦し下さるのですか」

「うむ、やっと顔を上げたな」

「ですが私は、殿の大切な鳥を──」

「ばかなやつよ。鳥の一羽とおまえとでは比較にならんぞ」

 やや眦の下がる温和な面立ちをした、二十代も半ばの若き主君の尊顔が間近にあった。

 武次が小姓組の中でも目立って左京太夫の気に入りとなったのは、この頃からのことである。

 

 

【二.へ続く】

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