開戦

開戦

 まだ暗い荒野に犬の遠吠えを思わせる鳴き声が響いた。

 オオカミよりもややかん高いその声の主は、コヨーテであることを南部連合陸軍、ハートマン中尉は知っていた。

 典型的な南部の田舎町出身である彼にとって、コヨーテの遠吠えは、子どもの頃から飽きるほど聞いてきたものだった。

 

 南部といえども一二月の夜明け前となれば最低気温は五度前後、場合によっては零度近くなることもある。

 身体を動かしていないと足下から寒さが染み込んでくるようだ(だからといって、足踏みするような真似はできない。

 士官とは部下の前ではたとえ銃弾が飛び交っていても平然と振舞わなければならないことを、彼は理解していた)。

 前方に設けられた機銃を打つための開口部以外、コンクリートの壁に囲まれているから尚更だ。

 申し訳程度に石油缶の中で焚火燃えているが、今夜は特に寒いらしく、それだけでどうなるものでもない。

 

 ハートマンは今、南北境界線を守備する歩兵小隊を率いる南部連合陸軍予備中尉として、狭いコンクリート製のトーチカの中で一〇人程度の部下とともにいた(銃座や歩哨に立っている兵以外、適当に毛布を被ってごろ寝している)。

 南部連合軍はテキサスからヴァージニアまで、南北境界線沿いに延々と防御陣地を構築している。

 ハートマンが今いるようなトーチカの前面に鉄条網や塹壕、乱杭などの障害物が設置されており、トーチカの後方には砲兵陣地がある。

 再び南北戦争が起きた際には、まず後方の砲兵陣地が侵攻してくる北軍に対して阻止砲撃を行う筈だ。

 

 そう、史上三度目の南北戦争が勃発しようとしている現実が、ニューオーリンズの会計事務所で会計士見習いとして働いていたハートマンを戦場に立たせている。

 彼はルイジアナの田舎町で家族経営の農場を営む家の四男としてこの世に生を受けた。

 父も三人の兄たちは、学はなくとも腕っ節だけは強かった。

 それ故末っ子の彼は、兄たちや学校の同級生たちに虐められた。

 泣いて家に帰ろうものなら、「やり返してこい」と父や兄たちにまた殴られた。


 そんな日々を耐え忍んで待ち構えているのは、農場を継いだ兄にこき使われるか、他の農場や牧場の雇われになるという、お世辞にも心躍るとは言い難い未来だったが、ハートマン少年にとって幸いだったのは、彼が人一倍の学力を持っていたことだった。

 学校での成績は常に一番。

 奨学金を得て、ニューオーリンズの大学の商学部に進学できた(彼の一族では初めての大学進学者だった)。

 

 大学を卒業後は同じニューオーリンズの会計事務所で見習いとして働き始めた。

 事務所長にも気に入られて、その娘とも交際。

 まさに絵に描いたような順風満帆な人生。

 それを狂わせたのは、今年始まった石油交渉の決裂とハートマンが借りていた奨学金の返済免除と引き換えに、陸軍予備士官に登録していたことだった。

 

 平和な世の中が続けば、予備士官といっても気楽なもので年二回、戦争ごっこに毛が生えたような軍事訓練に参加すればそれで済んだ。

 しかし、石油交渉決裂の可能性が高まるにつれて、南部連合政府は段階的に予備役の動員を開始。戦時体制への移行を進めていった。

 

 ハートマンが招集されたのは一〇月。

 一カ月の訓練を経てこの北部のオクラホマ州と境を接する、この防御陣地を守る小隊の小隊長として配属されたのが一一月の上旬。

 約一カ月が過ぎていた。


「見廻りに行くぞ」

 

 ハートマンは小隊付軍曹のアクロイド一等軍曹に(精一杯軍人らしく)声をかけた。


「はっ」

 

 アクロイドはまるで歴戦の士官に対してするような敬礼をして答えた。

 少年の頃から三〇年以上の軍歴を誇る、この巌のようにたくましい黒人下士官は、にわか仕立ての予備士官に遂行し得る最大の任務は、兵たちに対して最大限指揮官らしく振舞うことであることを知っていた。

 そして、彼がその任務を果たせるように、自分が第一に彼を敬うべき(少なくともそのように振舞うこと)が自分のなすべき義務であることもよく承知していた。

 

 ただ、アクロイド軍曹の態度には単なる軍人としての義務感だけでは説明のつかないものも含まれていた。

 それは、この未熟な予備少尉が自分のなすべきことを理解していて、完全には程遠いとしてもそれを最大限の誠意を以て遂行しようとしているのが、見て取れるという理由が関係していた。

 アクロイドは、ハートマンが会計事務所に無事に復職できることをごく自然に願っている。

 

 外に出ると、満月に近い月から発せられる月光が二人を照らした。

 同時に椀を伏せたような半円形のコンクリート製トーチカが夜明け前の闇に浮かび上がる。

 ハートマン小隊が守るべきトーチカは他に二つあり、それぞれに一〇人前後の下士官・兵が詰めている。二人は三つのトーチカを結ぶ連絡豪の中を進んだ。

 

 連絡豪を通って、トーチカを見廻りながらハートマンは、任務についている下士官・兵の一人ずつ労いの声をかける(しかもファーストネームを呼びながら)。

 ちなみに、ハートマンの部下は全員黒人だった。

 歴史的経緯から見れば皮肉としかいいようがないが、南部連合は今や北部以上に人種的平等を実現している。しかし、それは完全な平等にはまだほど遠い。

 

 南部連合陸軍において、黒人は下士官までしか昇進できず、かつ黒人下士官は黒人兵しか指揮できないこと、さらには黒人が白人よりも明らかに境界線沿いの部隊に配属されることが多いという事実がそれを端的に示している。

 

 南部連合の白人たちの中にも黒人への理不尽な偏見や差別心を持つ者が多くいたが(軍隊も決して例外ではない)、アクロイドの知る限り、ハートマンにはその種の傾向がほとんど見受けられない。

 そのことがハートマン小隊の士気を高めていた。

 

 見回りを終えて、元いたトーチカに戻るとハートマンは通信兵に命じて、直属の上級部隊である中隊本部との回線を開かせた。


「こちらC《チャーリー》中隊。一二月七日〇四〇〇(午前四時)、異常なし」

 

 二時間ごとの定時連絡。時間以外はまったく同じ文句。

 それこそ時計のような正確なルーチン。中隊本部と二言、三言話して回線を閉じようとした、まさにその時。

 空気を切り裂くような、それでいて重量感を持った音が響いたかと思うと、隕石でも落ちてきたかのような音、トーチカ全体が揺れて、塵が降ってくる。

 遠くで鳴る太鼓のような音。

 同じく空気を切る音、衝撃、それが続けさまにハートマンたちを襲う。


 一瞬呆然としたあと、指揮官としての義務感から正気に戻ったハートマン(これだけで新米予備士官としては称賛に値する)が事態を確認しようと慌てて開口部に近づくと、子どものように襟元を掴まれ引き戻される。

 アクロイドの雷より大きい声が耳元で響いた。


「死にたいんですか?!ありゃ、砲撃です!!戦争が始まったんです!!早く中隊本部に報告してください!!」

 

 南部連合標準時一九四一年一二月七日午前四時のことだった。




「海兵第二一連隊より入電。ワレ、イオラニ宮殿ヲ制圧ス」

 

 通信士の報告が重巡“インディアナポリス”の艦橋に響いた。


「ご苦労だった」

 

 合衆国海軍第一九任務部隊TF19司令、レイモンド・A・スプルーアンス少将は、常と変わらぬ穏やかな表情と声色で通信士の報告を受けた。

 差し出された電文にさっと目を通して、続けて命じる。


「すぐに太平洋艦隊司令部に転送するように」

 

 敬礼をして退出する通信士を横目で見てから、スプルーアンスは視線を前方へ戻した。「真珠港」の別名を持つホノルル港が、早朝の日差しの中でその別名に恥じぬ一面を見せている。

 港内には合衆国の主要港にもひけをとらぬほどの設備が見える。

 

 ハワイ王国は、現地住民、合衆国系住民、日系住民を合わせて人口一〇〇万に満たない小国に過ぎないが、太平洋貿易の中継地として重要な位置にある。

 そのことが、国の規模に不釣り合いとさえ思えるほどの規模を、ホノルル港に与えていた。

 

 スプルーアンスと彼が率いる、“インディアナポリス”以下、軽巡三と駆逐艦六からなる艦隊が与えられた任務は、ホノルルを制圧するための海兵隊一個連隊を護衛することだった。

 スプルーアンスは作戦全体の総指揮官でもある。

 

 任務は成功し、ホノルルは制圧された。

 が、スプルーアンスの内心はその表情が雄弁に物語っている。米日の狭間で辛くも独立を保っているだけの太平洋の小国を、彼の祖国は一方的に征服した。

 この小さな王国にある軍事力は千人に満たない国王の親衛隊ぐらいのもの。

 しかも早朝の奇襲とあっては成功するのが当たり前だ。

 

 今回の軍事行動には「米日開戦に際して懸念される、ハワイの米系住民と日系移民の衝突から米系住民を保護する」という名目があったが、それが名目に過ぎないことは、この任務に参加した軍人たち――少なくとも士官以上であれば全員が理解していた。

 実際は先手を打って太平洋の要衝を確保することが目的だった。


 サンディエゴでは対日戦を遂行する拠点としては遠すぎるし、何よりこのホノルル港は太平洋艦隊がすっぽり入るほどの天然の良港なのだ。

 ハワイ最大の港なので設備も整っている。海軍が、戦前から対日戦の際にはハワイを制圧して、太平洋艦隊を進出させる構想を持っていたことを、作戦部勤務の経験もあるスプルーアンスはよく承知している。

 

 しかし、そうした軍事的合理性、祖国が彼に課した軍人としての義務と、それを果たそうとする職業的責任感(彼の責任感については歴代の上官がほとんど例外なく考課表に記載している)を以てしても、彼の内面は、割り切れるものではなかった。

 自分が指揮した作戦が、合衆国史上の汚点となるであろうことを、スプルーアンスはほぼ確信している。

 

 そのスプルーアンスの横画を見ていた“インディアナポリス”艦長は、自らの上官に不用意に声をかけるような愚を犯さなかった。

 彼もまた、敬愛すべきこの上官が自分と同種の感情を抱いていることを確信していた。


 


 帝国海軍航空隊の笹本少尉は、愛機の九七式艦上偵察機を駆って、同じ機に乗組む二人の部下とともに、海との境目を見失いそうな青い空の中にいた。

 第一航空艦隊ごとこの海に来たのが一二月の頭。すでに一週間近く、毎日のように行っている哨戒任務である。

 

 日本を出撃したのが一一月の下旬。

 その後トラック泊地での補給と休息を経てマリアナ沖に艦隊は展開していた。

 トラック泊地を出てから(つまり艦隊乗員の口から機密漏洩する可能性がなくなってから)、「合衆国が近日中にサイパンに奇襲攻撃をする可能性が高いこと」、「今回の任務はそれを待伏せしてサイパンを防衛すること」であることが、全将兵に知らされた。

 

 彼らの母艦は第一航空艦隊第三航空戦隊の軽空母“龍驤”である。

 第三航空戦隊の二隻の軽空母、“龍驤”と“鳳翔”は、戦闘機と偵察機のみを搭載する「防空・偵察専任空母」に指定されていた。

 

 ある種奇妙な任務に基づいて、来るかどうかも定かではない合衆国艦隊を探して毎日地味な偵察飛行を繰り返しているわけであるが、笹本は自身の現在の境遇にさほど不満を抱いていない。

 

 それは彼が操っている九七式艦偵が「零戦なみの高速を発揮し、九七式艦攻より長い足(航続距離)を持つ」という帝国海軍自慢の高性能機であり(機体の単価は海軍機でもトップレベルである)、彼がそのような機体を預けるに足りる人材であると評価されていることなどの理由もあったが、もっとも大きいのは彼が兵学校も出ていない元水兵でありながら、二〇代で少尉の階級を得ていることにあった。

 

 「水兵上がりの少尉」という以前の帝国海軍では考えられなかった存在が現実化しているのは、五年ほど前につくられた「海軍航空生徒」という制度の賜物であるが、これは貴族主義的・権威主義的な帝国海軍の現実への屈服、その具現化であるといえる。

 

 第一次大戦中に海軍航空隊が発足して以来、海軍の操縦員養成には大別して二つのルートがあった。

 即ち、兵学校出の士官が操縦員になる場合と、兵・下士官から操縦員になる場合である。

 操縦員としての質はたいていの場合、後者の方が高かった。

 単純に士官より兵・下士官の母数が圧倒的に大きく、より多くの集団から選ばれた「操縦員向き」の人間の方が平均的な質が高いのは自明の理であったし、滞空時間も兵・下士官上がりの操縦員の方がたいていの場合多かった(士官の方が異動・昇進のサイクルが短く、結果的に現場で実機に触れる機会が少ないなどの原因が考えられる)。

 

 そのため経験・技量ともに優る人間が、劣る人間に指揮されるという現象が生まれたが、これは階級よりも「腕」が物を言う空の世界では看過しがたい矛盾であった。

 

 また、いくら操縦の腕が良くとも一旦機を降りてしまえば、操縦員も一介の下士官・兵であった。

 特に兵の操縦員(航空兵)の場合、下士官の理不尽な制裁を一般の水兵と同様に受けねばならず、著しい士気の低下を招いていた(操縦員は一般にプライドが高く、そのことがより苛烈な制裁を招いた側面もある)。

 

 軍縮条約の結果、戦艦の保有が制限され(空母は英米と同等の保有量が認められた)、南洋諸島の獲得による想定戦域の拡大などの外部環境の変化にも押される形で海軍の操縦員育成(さらに言えば海軍航空隊のあり方そのもの)もより「実力主義的」に変化していった(一時は次空中での階級と指揮権が分離され、下士官が士官を指揮するという方法も試みられたが、より人間関係を複雑にする結果を生んだ)。

 その最終形を作り出したのが、海軍航空本部長を兼務したまま事務次官となった山本五十六(現・軍令部総長)である。

 

 山本は複線化・複雑化していた海軍の操縦員育成システム改革し、大胆に単純化した。それは一定の年齢以下の士官、下士官、兵、兵学校生徒、さらには一般国民(むろん男子に限られる)から公募し、一定の試験に合格した者を「海軍航空生徒」として海軍航空学校操縦員科で育成。

 その間にさらに選別を重ね、最終的に卒業した者には無条件で少尉の階級と操縦員の資格を与えることにした(すでに少尉以上の階級を有している者には資格のみが与えられる)。

 

 この従来の海軍の伝統から見れば「革命」とも評し得る改革は、当然大きな反発を生んだが、対米戦の可能性が高まったことや、何より第二次世界大戦に日本が参戦したことで、至急に一定以上の質を持った操縦員を確保する必要が生じたことが、その声をかき消した。

 

 笹本は、今や海軍の中でも(あるいは日本全体から見ても)屈指の実力主義組織へと変貌した海軍航空隊の、その栄えある一期生であった。

 

 以上のような背景から笹本は今日も上機嫌で愛機を飛ばしている。

 ただ、今日は出撃前に合衆国軍の南部連合への侵攻の報が飛び込んできた。

 遂に戦争が始まったのだ。いつもとは違う緊張感があった。

 その時、右前方―二時の方向で何かが光った。正体を確かめるべく、速度を上げて接近する。

 

 近づくにつれて形が見えてきた。

 飛行機だ。空の色に紛れて一見分かりにくいが、青い塗装。

 間違いない、米軍機だ!

 そう考えるが早いか、笹本は後席で偵察員兼通信士を務める秋山上等飛行兵曹に叫んでいた。


「艦隊司令部へ打電!『ワレ、米編隊ヲ発見ス』だ!」

 

 笹本はちらりと時計を確認した。午前七時を指していた。

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