6.懐柔
まさか、自分がココに足を踏み入れる日が来るとは―。
いつもと違う、なめらかな絹の袖に居心地の悪さを感じながら、前を歩く白奎さまに静々と従う。
春めいた青空に映える、絢爛豪華な宮殿。
天下の美女が一堂に集う、この世の極楽。
そう、ここは後宮。
花咲き乱れるの文字通り、何千何万という花に彩られたこの庭は、着飾った蝶たちが天子の寵愛を巡り日夜美を競う場所。
で、なんで私が、こんな場違いな所にいるのかって?
そうだよねぇ。ほんとに不思議。
始まりは、二日前のこと。
「眠り姫を、連れ戻して欲しいのです」
「?」
謎めいた台詞に首を傾げると、白奎さまはコトの経緯をイチから丁寧に説明してくださった。
「もう1ヶ月程前の事です―。ひとりの妃が、三日三晩目覚めずに、昏々と眠り続けるようになって」
「三日も?」
「えぇ。心配した侍女が典医に相談し、あれこれ試みたのですが…」
「それでも目を覚まさない、と」
悩ましげに頬に指を添えて、白奎さまは静かに頷いた。
銀色の前髪がさらりとゆれて、端正なお顔に影を作った。
それが妙に色っぽくて、ウブな私はドキッとしてしまう。
良すぎる外見って、ある意味、毒だと思うわ。
ご本人は意識してないと思うけど、こういう自然な仕草の一つ一つが、すごく蠱惑的なんだよね。大人の色気というか、有無を言わせぬ引力がある。
見るだけ価値がある顔、なんだよね。
なんて煩悩にまみれた私に、彼は粛々と話を続ける。
「…五日目に目を覚ましたのですが、その後もまた数日間眠り続ける様になって…。原因がわからず、典医も困ってしまって」
「
ある日突然、目眩いに襲われて意識を失い、その後昏睡状態が続く、ということが稀にある。
ただ、尸厥は頻繁に起こるものじゃない。それが何度も…、となると、何か重大な病が潜んでいる可能性がある。
「どうすればよいのです?」
「私には、なんとも…」
「お願いです、清花。一度、彼女を診てくれませんか?」
「えぇっ!無理ですよ」
この症状、発症の原因は千差万別。診断をつける事自体難しいのが実情なの。
それを素人に毛が生えた程度の人間が診るなんて、荷が重すぎるわ。
「もう他に頼める人がいないんです」
「そう仰いましても…」
何日も眠り続ける女性―。
原因は身体的なモノか、心因性か…。
意外に思うかもしれないけど、睡眠には基礎体力が必要不可欠。お年寄りが早起きなのは、若いころに比べて体力が衰えているせいだったりする。
数日も目覚めないとなると、食事も取れない。
お腹が空くって、身体にとっては危機的状況。
本来の人の営みから外れた状況が続くって、正直、ちょっと違和感あるんだ…。
「一度でいいんです。それでもダメですか?」
「私で分かるかどうか…」
父上くらい腕の良い医者だったら、すんなり見立てをつけられるかもだけど、私は…。
黙り込んだ私の顔を、白奎さまがのぞきこむ。
「宮廷の医師も軍医も、皆お手上げなんです。頼みます」
「でも、私のようなひよっこでなく、高名な医師は都にいるかと…」
「既に手を尽くしたのですよ。頼まれてくれませんか」
「…」
なんとも麗しいお顔が、容赦なく圧をかけるてくる。
「あなたには天性の勘の良さがある―。そこに賭けたいのです」
キラキラの後光を背負った、当代随一のイケメンの憂い顔が至近距離で殺しにくる。そんな目で見つめられたら、誰だって断れないの、わかってやってるよね?
顔面偏差値の正しい使い方を、こんな時にご披露なさる白奎さまに、つい苦笑いしてしまう。
まぁ、これだけ接待してもらって、ハナから断るのは薄情すぎるのも確かだし…。
「期待しないで、いただけるなら…」
しぶしぶ頷いた私に、白奎さまの顔がパッと明るくなった。
「ありがとう、清花。すぐに手配します」
「お願いします」
「では、これで難しい話は終わりです。後はゆっくり、飲むとしましょう―」
白奎さまに誘われるまま、杯を差し出す。
なみなみとつがれた葡萄酒に、金色の三日月が楽しそうに浮かんでいた。
◇
次の日の昼には、白奎さまの部下という役人が招聘通知を届けに来た。
「…さすが、仕事早いなぁ」
ひと通り目を通した私は、文を片手に唸ってしまった。
ほれぼれする筆跡と、これを読んだら彼の優秀さが一発でわかる、って内容。
もちろん、段取りは完璧。あとは私が指示通りに動くだけ。
しかしだ。
やっぱり、白奎さまって、宮廷の有力者なんだねぇ。
なんの官位もない人間を後宮に潜入させることさえ、造作無いらしい。
それにしてもこのスピード感。びっくりだわ。
翌日。
指定された時間に白奎さまの屋敷に向かい、そこで着替えや化粧などのお支度をしてから、官公庁が立ち並ぶ皇城へ馬車で向かった。
待ち合わせは
門の横で待ち構えていた役人に連れられ、奥の殿舎へ向かう。
髪を高く結んで簪を挿し、宮女の着る薄紅色の絹の衣という出で立ちの私を、白奎さまは満面の笑みで出迎えてくれた。
「いらっしゃい清花、見違えました―。とても似合ってますよ」
「えっと…。恐縮です」
お世辞だとしても、有り難く受け取っておこう。この方に褒められる機会なんて、そうそうないからね。
「磨くと光る逸材です、私の見立てに狂いはないでしょう?」
「褒め殺しとか、やめてください…。それでなくとも落ち着かないんですから」
これは本当。
いつもと違う華やかな服装に、縁の無い場所。挙動不審にならないだけ、私、頑張ってると思うの。
「大丈夫、すぐに慣れますから。では、向かいましょうか」
「はい」
門下外省を出て、宮城に入る。石畳が敷き詰められた広場を、先導の役人の後に続く。
ひたすら歩いて広場を通り過ぎ、権威をかざすように建つ大門をくぐり、政治の表舞台・朝堂を横目に池を添う小路を進む。
竹林の庭を通り抜けて、やっと天子の私的空間、内廷にたどり着いた。
―薄々気づいてたけど、広すぎるのよ宮城は…。
こんなに歩くなんて、思ってなかったよ。
雲の上の世界の、想定外の洗礼に始まる前からげんなりしてしまう。
「この奥です」
内廷の西側の白い壁で区切られた一画の前で、白奎さまが振り向いた。
その先にある、掖庭宮と書かれた門を見上げて、息をのむ。
「行きましょうか」
「はい」
長い道のりを経て、私はようやく後宮に足を踏み入れた。
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