第5話 好きになりたい

 ピシャピシャと水溜りを踏んで、俺はひたすら並木道を進む。脇腹の痛みとか、息苦しさとかは既に分からなくなっていた。


よかった、信号で追いつけそうだ。あと少し、あと少し。


 俺の視線の先で、青信号を待っている少女。その後ろ姿は、雲より悲壮的だ。


「……なんで来たの?」海野は振り返らず、背中越しに問う。


「海野に、謝るため……」


 うまく舌が回らない。言いたいことと、言わなきゃいけないことが混ぜ合わさってしまう。


雨は未だに勢いを保っていた。まだ降りやみそうにない。


「いや、あれはウチが悪いよ。ウチ、いつもそうだったから……」無理に元気を出しているような、そんな声だった。


「雨宮優だ」海野の隣まで歩き、並んだ。「今日の朝、海野と一緒に怒られた」


「急になに? どうしたの?」海野の口調は柔らかくなるが、まだ彼女は信号を見ている。


 信号が青に変わった。でも、俺たちは立ち止まったまま、一定の奇妙な距離を保ったまま話を続ける。


「俺は『俺アレルギー』って病気を患ってる。世界でも前例が一つしかない、難しくて、珍しい病気で、……治療法もまだ見つかってない」


 俺は畳み掛けるように言った後、少し後悔した。だって、もう海野と話せなくなるから。


 ここまで情報を出したんだ。俺アレルギーが発症するに決まってる。だから、これが最後の挨拶。


「海野、さっきは本当にごめん。俺、病気を言い訳にして、海野を傷つけた」海野の方を向き、深々と頭を下げる。首筋に雨が当たって冷たい。


 さよなら、ありがとう。言い切った解放感と、別れの寂しを噛み締める。雨の勢いは弱くなっていた。


「……ウチの話したこと、覚えてんだね。その、雨宮……アマミーはさ、今日の朝、ウチに言ったことも覚えてる?」


海野の声に、期待がこもっているのが分かった。


そして、彼女がなにを求めているのかもよく分かる。俺は淀みなく口を開いた。


「海野の、思ったことをすぐに言っちゃうクセ、『いいことだと思う』。……別にウザくないし、その方が好きだな」


 海野の横顔に向かって言った。彼女の口角は上がっていた。




 さぁ、これで終わりだ……。俺はそれを確認して、クルリと左を向く。進行方向は、海野とは真反対。



──ブゥゥン……バッシャーン!



車が通過して、俺たちに水を吹っかけた。


「あははっ!」海野は笑っていた。俺の背中を指差し、とびきりの笑顔で笑っていた。彼女の制服もびしょ濡れだった。


「……もう帰る」そう言って、家路につこうとする俺。


しかし、何者かが俺の手を握る。いや、誰かは薄々分かっていた。


 振り向くと、海野が手を握っている。笑顔で、さっきまでの悲しみなんてなかったみたいに。それに、俺アレルギーの症状だって出ていない。


もしかして……。俺の心は期待で跳ねた。


「そのまま帰るとアマミー、風邪ひいちゃうよ?」俺のことを『アマミー』と呼んだその少女は、頰が赤く染まっている。


「……ウチ、の家、寄って行きなよ」


時が、止まったように感じた。







4月8日 16時30分 海野宅


 スマホで時間を確認すると、すでに16時を過ぎていた。俺は四葉に『遅れる』と謝罪の連絡をして、ポケットにしまう。


「ウチ、着替えてくるから。タオルはそこの棚の使っといてー。海野は部屋のドアから顔を覗かせて、俺に色々と指示をした。


「あと、女の子の部屋だからって、変なことしないでね」


「なんもしないって」


「まぁ、ちょっとくらいなら……」意外な返答の後、海野は部屋から出ていった。ドキドキと、謎の鼓動が残る。


 海野の家は、駅近くの一軒家。二階建ての新築で、広々とした庭もついている。彼女の部屋は2階にあり、そこに至るまで人の気配がしなかった。


『ウチの両親、今出張しててさ。だから気とか使わなくていいよー』


 彼女の発言は本当みたいだ。俺はゆっくりと立ち上がり、さっき海野が指定した棚を開ける。中には丁寧に折り畳まれたタオル。


 一番上にある、ピンクのタオルで体を拭いた。その間、邪魔になったスマホを部屋の中央にある丸机に置く。


通知だけ確認すると、四葉から数件あった。


「お待たせー」


 海野が部屋に戻ってきた。フリルのついた白いキャミソールにジーンズを履いている。


 その服装は、海野の体のラインを強調している。膨らんだバスト、引き締まっているウエスト、そしてもっちりとしたヒップ。


「……おかえり」海野から視線を外す。


なんだか、見てはいけないような気がしてしまう。


「おやおやー? アマミー、照れてるなぁー?」そんな俺を面白がって、海野は悪戯めいた顔をして寄ってくる。


「やばいって。それ、同級生の前で着たらダメな服じゃん」


「ウチの部屋着、こんなのしかないよー? アマミーが気にしすぎなんだって」


 海野はウリウリと肩を寄せて、俺は彼女から逃げ惑う。そんな風にしていると、いつかは事故が起きるわけで……。


「うわぁ! しまっ──」


「はい、捕まえたー」海野は俺に抱きついて、ベッドに押し倒す。


 ギュムッと体が沈み、それ故に動きが制限される。で、目の前には女の子。それもとびきりの美少女。


「ほら、これなーんだ?」海野は目の前に、薄い板を見せてきた。


「……俺のスマホ?」クイズにすらならない、簡単な質問だった。


「じゃあ、これはなーんだ?」


 海野が画面をタップしてロック画面を開く。俺の顔で登録されていたスマホは、簡単にセキュリティを解除してしまった。


 海野はすぐさま『ラーイン』を開く。俺のトーク履歴と、通話を見ることができるそのアプリ、いかにして使われるのか。


「四葉ちゃんから10件。……仲、いいんだね」海野は俺にマウントをとりながら、器用にスライドしてトークを確認する。


『いつ頃帰ってくるの?』 『おそーい』 『ねぇ、まだー?』


 そんな風に、10件ほど催促の内容があったのち、電話をかけてきた痕跡もあった。だが、それが海野にとってなんだというのだろうか。


俺には見当もつかず、困惑しているばかりだった。


「ウチを口説いといて、他の女の子と仲良くするの?」


 海野は鋭く、鋭利な刃物を突きつけている様な表情だ。俺の背筋がピンと伸びて、額に汗が滲み出る。


 なんだか、良くない方向に進んでいる気がする。このまま行くと、後戻り出来なくなってしまうような、そんな気が。


「ごめん、俺ちょっと、用事思い出したから──」俺の体は動かなかった。


「ウチのこと、気にかけたらダメだよ?」海野の呼吸は荒く、乱雑になってゆく。「……あんなの反則だって」


吐息が当たる。くすぐったい。足が絡まる。暖かい。


……カシャ


「ふふっ、アマミーが押し倒されてる写真撮っちゃった」そう言って笑う海野。開いているのはトーク画面。


「まっ──」俺はスマホに手を伸ばす。


だが、もう、何もかもが手遅れだった。


「……送信っと」

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