8 浮気以前に結婚してな以下略

 ウサギに箸の使い方を教えるのは結構難しい。

「こうやって持って、私が食べるのを見ながら真似してください」

 たとえでなく現実の話になるとは撫子も思っていなかった。

「こうか?」

「交差しちゃいけません。こう、中指で支えるんです」

「中指ってどれだ?」

「真ん中の指です」

 レストラン「ハバナ」で懐石料理を前にして、フィンに箸についてあれこれとレクチャーする。

 ウサギの頃に中指など意識したことはなかっただろうから、フィンはなかなか手に箸を挟めない。すぐに箸を取り落とす。

「手づかみの料理をお持ちしましょうか? そのような料理を召し上がるお客様も多いのですから」

 ペルシャ猫のウェイターが見かねて声をかけてくる。

「いやだ。おれの家の人間はこれで食べていた」

 しかしあくまでフィンは箸で食べようとする。撫子はその意気だとうなずいた。

「ということは、フィン様はアジア系の方ですか?」

「アジア?」

「どの辺の出身なのでしょう?」

「さあ? しゃべってないで続けるぞ。で? これはどうするんだ」

 会話は続かないが、文句ばかり言っていた頃よりはずっと良い。一生懸命なので教えがいがあった。

「吸い物はこう持って、口をつけて飲みます」

 スムーズではなくとも一応一通り食事の仕方を教えてから、今度は部屋に戻る。

「部屋の備品で使い方のわからないものはありますか?」

「全部わからない」

 それもそうかと、撫子は片っ端から説明を開始する。

「まずスリッパを履いて」

「履くって?」

「こう、靴を脱いで足に通すんです」

「脱ぎ方がわからない」

「はい、お手伝いします」

 人間でいえば保育園児より一般常識に疎い。

 屈みこんで靴紐を緩めながら、撫子はふと首を傾げる。

「脱ぎ方がわからないなら、どうやってお召しになったんですか?」

「このホテルに来て人型を作らせたら、この格好になっていた」

 今のフィンは外国の寄宿学校の制服のような、カッターに半ズボンを肩で留めた格好になっている。現代日本のやんちゃ坊主には似合わない、上品で堅苦しい服装だ。

「お似合いですけど、お部屋では着替えた方が楽でいいのでは? お手伝いしますよ」

「面倒くさい。それにこれは正式な格好なんだろう?」

「まあ、文句なく正装ですね」

 いまどき珍しいくらいの立派な格好だ。現代日本には合わないが、このホテルの風景にはしっくりくる。

「これでいい。いつ会ってもいいように」

 撫子が顔を上げると、フィン様はぷいとそっぽを向く。

「何でもない。それで、スリッパを履いたら次はどうするんだ?」

 熱心な生徒に戻った彼に、撫子はそれ以上の追及をする気にはなれなかった。

「あれはベッドで、あっちが机、鏡」

 備品のあれこれを説明しながら部屋を移り、お風呂場に辿り着く。

「さて、お風呂の入り方をマスターしましょう」

「いやだ!」

 ウサギは泳がないんだっけ? 撫子は首を傾げつつ続ける。

「気持ちいいですよ。温まりますし」

「生きていた頃に何度か浴びせられた。あんなちくちくする水嫌いだ!」

 シャワーはまあ、ウサギ視点だと針みたいに見えなくもない。

 まあいいか、気が向いたときに覚えてもらえば。撫子はあっさりあきらめてお風呂場を出る。

「あとは……」

 撫子は言いかけて、はたと気づく。

 もう説明することが思い浮かばない。

「いやいや、何かあるだろう」

 慌てて自分に突っ込んだが、やっぱりない。

 遠い目をしながら生きていた頃に思いを馳せる。人間の生活は複雑だと思っていた。でもあらためて教えるとなると、動物とたいしてやっていることに変わりはない。

 食欲、睡眠欲、性欲。他は案外、必要になった時に考えていた気がする。

 何か日々悩みがあった気がするが、今となってはわりとどうでもいいなぁと思った。

「困ったときは音声案内」

 このホテルは動物のお客様のために、あちこちの場所で音声解説してくれる。動物のお客様は文字がわからないので、写真の横に音声ボタンがついている形となっている。

 色とりどりの花々が咲いている景色に興味を引かれて、撫子はその横のボタンを押してみる。

『現在、ホテルの中庭で川遊びを行っております。お申し込みはベルボーイにどうぞ』

「よし! フィン様、庭を見に行ってみませんか?」

「水は嫌いだと言っている」

「水辺で見るくらいなららくちんですよ。泳がなくても楽しいです」

 撫子は力を入れてどうにかフィンを説き伏せると、鈴でチャーリーを呼んでもらった。

「川遊びは舟に乗って中庭を遊覧するコースです。ライトアップされていて綺麗ですよ」

 チャーリーが連れていったのはホテルの中につながっているゴンドラだった。

 三人で乗り込んだ後チャーリーが壁のボタンを押すと、斜め上に向かってゆっくりと上昇し始める。

 ホテルの外は真っ暗だった。そういえばあの世は月も太陽も昇らないとオーナーが言っていたのを思い出す。

「このホテルってお城みたいだね」

「ヨーロッパの貴族の別荘をモデルに作られたそうですよ」

 光はなくとも物の輪郭はうっすらと見えた。羽を広げるようにホテルの建物が広がっていて、森が周りを飾るように囲んでいる。

 まもなくゴンドラが止まった。撫子たちは下りて石畳の道を歩く。水の流れる音が聞こえてきて、船着き場に出る。

 澄んだ水がさらさらと流れている、静かな川だった。

「こちらです。どうぞご乗船ください」

 チャーリーにうなずいて、撫子はフィンを振り返る。

「フィン様、お手をどうぞ」

 フィンはそろそろと手を伸ばす。撫子は手を取って、ゆっくりと小舟に彼を乗せた。

「大丈夫ですよ」

 ぎゅっと握ってくる手をそのままに、撫子は舟の中央に座る。

 小舟は勝手に流れ始める。撫子ははじめチャーリーが漕いでいると思っていたが、見ると彼もこちらを向いて座っているだけだった。

「どうやって動いてるの、これ」

「川の流れですよ。人工的な川なので流れも速くないですし、安全です」

 そんな便利な川があるだろうか。

 撫子はこの世界に来ておおよそのことは不可思議なほど便利なので突っ込めなかった。

 ゆったりと流れる川に揺られて、舟は庭園の間を遊覧する。淡い赤茶色の光でほんのりと庭が照らし出されていた。

「そろそろ見えてきましたね。この辺りは白い花です。あれが百合の花、あっちがスノードロップです」

「季節が違う気がするけど、よく一緒に咲かせられるね」

「全部造花ですから」

「うん?」

 そうは見えないほど本物そっくりだったので、撫子はきょとんとする。

「死出の世界に植物は来ません。植物は死んだら死出の世界に運ばれることなく消えるんです」

「どうして?」

「魂を洗う必要がないからですよ。記憶がないので」

 魂を洗う。面白い表現だと撫子は感心する。

「魂を洗う設備の一つが、このキャット・ステーション・ホテルみたいな所ってこと?」

「そのとおりです」

 チャーリーがにっこりと笑う。

「フィン様も撫子様も、ごゆっくりと静養なさってくださいね」

 フィンはまだ水が怖いようだったが、撫子に身を寄せるようにしながら時々川岸を窺っていた。

「フィン様、花はお好きですか?」

「あんまり見たことがない。おれ、家の中で飼われてたから」

 そういえば日本にはあんまり野生のウサギは見かけなかった。結構出身地は自分と近いのかもしれないと撫子は思った。

「外に出たのも数回で、カゴの中から見ていただけだったから、こういうのは不思議だ」

 咲き乱れる花々を見回しながら、フィンは問いかける。

「人間はこういうのを見て、綺麗だと思うのか?」

「そうですね。人によりけりですけど、私は好きです」

 撫子は少し得意気になって言う。

「私の場合名前がなでしこという花ですから、花については思い入れもありますし」

「なでしこってどんな花だ?」

 撫子は辺りを見回して探す。たぶんあの花は小さいから、他の花に簡単に埋もれてしまう。

「右側の桃色の花のエリアにありますよ。そろそろです」

 チャーリーが教えてくれて、撫子は右岸の川べりを凝視する。

 舟は流れて、すぐに桃色のエリアに着いた。

「あ、あれです!」

 川岸に群生している桃色のなでしこがあった。撫子が興奮気味にそれを指さすと、フィンはじっと赤い目でなでしこを見る。

「小さい花だな。隣の花の方が派手だ」

「ああ、カーネーションですか。一応仲間なんですけど、やっぱり負けますよね」

 人気があるのもたぶんカーネーションの方だ。日本ではなでしこは大和撫子といういい言葉があるといっても、地味な姿は仕方ない。

 フィンは一息だけ黙って言った。

「悪くない、と思う。綺麗かどうかは別として」

「はい! ありがとうございます!」

 フィンが眉間にしわを寄せて呟いた言葉が、撫子をぱっと笑顔にさせた。

「フィン様。撫子様はオーナーの奥方様ですから、口説いちゃいけませんよ」

「くどくって?」

 チャーリーは面白そうに猫目を細めながら言う。不思議そうに首を傾げたフィンに、撫子は焦って言い返す。

「結婚してませんってば!」

 チャーリーはやはり面白そうにうなずくだけで、撫子の主張は通ってくれなかった。

 次々と左右に現れる庭園の紹介をしながら、撫子はフィンの生前について話を聞かせてもらった。

「生まれてすぐ母さんが死んだから、おれの世話はほとんど兄さんがしたんだ」

 フィンは兄を母親代わりに思っていたらしい。

「おれの家の人間は優しかったから、おれが何をしても怒らなかった。でも兄さんは厳しくて、おれが食事をこぼしたりするとそのたびに叱った」

 わがまま放題に育ちながらも兄にだけは頭が上がらなかったらしく、フィンは耳を伏せながら兄のことを小声で語った。

「おれを叱るのは兄さんだけだった。おれはなかなか言う通りにできなかったけど、諦めずにずっと付き合ってくれたんだ」

「いいお兄さんだったんですね」

「うん。でもある時引き離されて、おれは別の家のウサギになった」

 フィンは顔を暗くしてうつむく。

 撫子は黙って、フィンをじっとみつめながら話を聞いていた。

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