第20話 颯爽と

 凛子りんこ彦坂ひこさかの言葉に従った。もはや化け物としか思えない相手の脅しに逆らうのは無謀だろうし、しっかりと手間暇を掛けて体を綺麗にする気になれるわけもない。

 いつもの半分以下の時間で入浴を済ませ、リビングに戻る。


「やあ凛子、濡れ髪が色っぽい……」

 彦坂は微妙な表情で口を閉ざした。視線は凛子の服に向いている。

 凛子はひそかに満足した。今着ているのは、色気もヘチマもない高校時代のジャージである。大掃除などの作業用にと置いてあったのだが、狙い通りの効果を発揮したようだ。これで気分が白けて帰ってくれたら最高だ。

 だが敵は凛子が想像するより手強かった。


「……いい。すごく新鮮だ。学生時代に戻った気分になる」

 腐ったリンゴみたいな笑みを浮かべる。凛子ははしたなくも唾を吐きたくなった。どうやら変態には逆効果だったらしい。


 仕方ない。覚悟を決める。

 今はこの場を生きて切り抜けるのが先決だ。後のことは後で考える。なかったことにはしない。絶対にきっちりと始末をつける。


 気持ちの悪い笑いを貼り付けたまま、彦坂が近付いてくる。凛子は後退りしそうになるのをこらえた。

 特に好きでもない男と寝るなんて、世の中にはよくあることだ。屈辱も絶望も感じない。少しぐらい肌が汚れたって洗えば落ちる。


 だけど。凛子は頬の傷痕がひりつくのを意識した。もし誰かがこの場に助けに来てくれたなら、自分は心から感謝するだろう。ひどく中途半端で言葉足らずなメッセージに込められた意味を読み取って、我が身も顧みずに駆けつけてくれる人がいたら――。



「そこまでだ! 悪しき竜のかけらの化身よ!」



 凛として清々すがすがしい声音が、重い闇の気配を斬り裂いた。凛子は胸を弾ませて顔を上げ、彦坂がバネじかけのように振り返る。


「馬鹿な、ただの人間風情が入って来られるわけが……」

 未だその言葉の終わらぬうち、五階の窓の外から黒い霧を払って現れたのは十代半ばと思しき美少女だ。

 光り輝くような白金の髪を肩の後ろになびかせ、澄んだ瑠璃色の瞳が彦坂を睨み据える。

 そしてその背中にはなぜか、武大ぶだい竜仁たつひとが負ぶさっていた。


「え……武大くん? 何してるの?」

 凛子と目が合うと竜仁は気まずそうに顔を逸らした。

「ユリア、降りる」

「はっ」

 そそくさと少女から離れる。だが彦坂は竜仁には目もくれない。


「生意気な小娘……生きていたのか。だがなぜ僕と凛子の邪魔をする。嫉妬か? 僕に愛してほしいのか? クッ、いいだろう。二人まとめて相手をしてやる。僕が寛大な男で良かったな、クフフッ」

 彦坂は頬を歪めた。たがが外れたみたいに笑い声がしだいに高くなり、しまいには大きく肩を震わせ始める。


「フッフッフ、ハッハッハ、ヒャッヒャッヒャー!」

 そして再びドス黒い霧が噴き出していた。さっき凛子が見た時よりもさらに濃密で禍々まがまがしい。

 やがて瘴気しょうきは狂ったように笑い続ける彦坂の体を完全に覆い隠すと、徐々に一つの形を取っていき、ついに別の姿に成り代わる。


「黒騎士……? そんな、だって昼間は彦坂先生とは別にいたのに!」

「肉体を乗っ取られたようです。しかしまだ間に合います。魂の融合が完了するより前に、悪しき竜のかけらを打ち砕きます」

 戸惑いを露わにする竜仁に、ユリアが強い決意と共に告げる。それに闇が応じた。


「然らず。砕かれるのはぬしの方なり。彼方での恨み、吾が今ここで晴らすべし。永久に消え果てよ!」

 今や黒騎士は完全なる実体化を遂げていた。闇が凝り固まったかのような大剣を、少女に叩きつけんと振り上げる。


 ユリアは手にしていた細長い包みの覆いを取り去った。美しい剣が現れ、鞘から抜き放たれたやいばが白金の光を放つ。

「貴様を滅ぼすことこそ我が天命……聖剣騎士カナミ・ユリア、して参る!」


 黒騎士の兇猛なる斬撃をユリアは真っ向から受け止めた。巨木と細枝が打ち合うがごとき体格差は、しかし美少女を寸分たりとも退しりぞかせはしない。

「既に我が君との契りを済ませた私だ。かけらごときに負けはせぬぞ」

 勢いをつけて押し返し、いとも鮮やかに黒騎士の剣を跳ね除ける。見惚れるような手並みだ。心技体全てで相手を上回っているのだと確信させる。


「大丈夫ですか、鷹司さん」

 竜仁が凛子を連れ、戦いの渦中から距離を取った。凛子は素直に導きに従った。ユリアの優勢をちらりと確かめてから、竜仁のことを改めて間近に見つめる。少し前までは単なる知り合いでしかなかった。だが今は気になって仕方がない。


「武大君、どうして……」

 問いが自然と口からこぼれ出る。竜仁は少しはにかんだような顔をした。

「どうしてユリアちゃんに」

「鷹司さんのことが」

「おんぶされてたの?」

「心配だったからです」


 二人の言葉が交錯する。竜仁は沈黙した。凛子は首を傾げた。

 やがて竜仁は肩を落とし、わけを教えた。

「……その方が速いから、です。僕が自分の足で走るより」

 凛子は目を瞠った。感動で打ち震えそうだ。


「あぁ、ユリアちゃんって本当にすごいのね。驚いた。今日の光景は一生忘れられそうにないわ。あんなに可愛らしい女の子が、大学生の男の子をおんぶして五階の窓から飛び込んでくるなんて。素敵だわ。今まで想像したこともなかった……」

「でしょうね……ははは、はぁ」

 竜仁がため息をつくかたわらで、光と闇の両騎士による戦いは終幕に近付いていた。

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