第10話 オレンジ色の海

 太陽は、もうすでに水平線に限りなく近づいていた。あたりは、太陽から染み出した色に侵食されて、空も海もオレンジ色に染まっている。

 僕と美佳は、堤防に寄り掛かり海と向かい合っていた。ゆっくり流れる時間のなかで、僕は美佳に自分の中にある記憶のページを一ページずつ開いて見せた。僕の口から溢れ出した言葉の流れは、美佳の心にたどり着き、そのたびに小さく、でも僕に確認するように頷いた。

 僕はすべてをさらけ出し、美佳が優しく受け止めた後、二人は刻々と姿を変えていく海を静かに黙って見つめた。

 少し強めの風が吹いて、美佳の髪を揺らした。海の光が映る美佳の瞳が潤んでいるように見えた。

「泣いているの。」

と、美佳に聞いた。

「橘さんは、何も悪くないのにね。」

「仕方ないさ。誰にもどうすることも出来ないし。」

「でも、私。少しうれしいんです。だって、橘さんのこと、今一番知ってるのは私ですから。」

「そんなに、僕のことが知りたかったの?」

「ええ、」

美佳は、少し恥ずかしそうにうつむいてみせた。

「じゃあ、今の僕を一番よく知っている君にしかしてあげられないことを二人でしようか?」

「なにをするんですか?」

「いいから、いいから。」

 僕は、美佳の車椅子のブレーキを外し、後ろから押し始めた。片手で美佳の車椅子を持ち。もう一方の手で自分の車椅子のリングを回した。縦に並ぶ形になった美佳は、後ろにいる僕に振り返って言った。

「あのぉ、どこに行くんですか。」

 僕は、笑顔だけで返事を返して押し続けた。少し行くと、先ほど道路側に降りた階段にたどる着いた。反対側には海に降りていける階段がある。階段を降りれば、弓形に弧を描いて広がっている砂浜があった。

「海に行こう。」

 互いの車椅子にブレーキをかけ、僕は自分自身の足で立ち上がり美佳を抱き上げた。腕の中の美佳は、少し驚いたように身を固くした。

「えっ、何を。」

「君の夢を、僕に手伝わせてくれないか。」

 そう答えて、僕は砂浜に続く階段を一段ずつ慎重に降り始めた。足の痛みはあったが、腕の中の大切なもののためなら何の苦にもならなかった。最後の一段を降りたとき、美佳の足を見て思い出した。

「ちょっと、下ろすよ。」

「えっ、あっ、ハイ。」

「ここで、靴を脱いでいこうか。」

といって、僕は美佳の靴に手をかけた。靴を静かに脱がすと白くて華奢な足がのぞいた。僕も靴を脱ぎ素足になった。二人の靴を階段に並べて置き、ふたたび美佳を抱き上げた。砂浜は、昼間の太陽の光を蓄えて、素足の僕を暖かさが包み込んだ。

「階段に靴を並べておいたのはまずかったかなぁ。あのまま見つかると、まるで心中だよなぁ。」

「あっ、そうですね。このまま、この世界からいなくなったら確実に心中扱いですね。でも、私たちがどうやって海まで行ったかは、謎が残りますけどね。」

「えらく、冷静な分析だな。」

「ええ、このまま、海に沈んでもいいかなって。」

「おいおい、そんなことしないよ。するわけないじゃないか。君の夢の手伝いをするって言っただろ。」

美佳は、黙って僕の胸に顔を近づけた。美佳の吐息が、シャツの上からでも暖かさを感じさせられた。

「わかってます。」

 美佳は、僕の顔を見上げて小さくつぶやいた。

 僕は美佳の重みを感じながら、一歩一歩砂浜を進んだ。足を踏み出すたびに、僕の足は砂に埋もれ、砂浜に痕跡を残していった。振り返れば僕の足跡がはっきりと残っているだろう。だけど、今の僕にそんな余裕はない。僕に身を預けている美佳を、何とか波打ち際まで連れて行かなければという想いで頭の中はいっぱいだった。

「海が近くに・・・。」

うつむいていた美佳が、顔を上げてそう言った。

 温もりのあった足下の砂は、海水を含みだして冷たさを感じだしている。もう、僕の足は波に洗われる砂浜の所まできていた。波が打ち寄せてくると、足下に白い泡沫がまとわりついた。

「さあ、君の足跡を僕と一緒に刻もうよ。」

 僕はそう言って、美佳をゆっくりと下ろした。美佳の後ろから脇に腕を回して、僕の前に立たせた。

「海って、冷たいんですね。」

 二人の前後に並んだ足には、大きな波が押し寄せてきて踝までを濡らした。

「ほら、君の足跡を波が消していったよ。」

「ホント、そうですね。でも、少し足がくすぐったいですね。こんな感覚、初めてです。」

美佳は、顔をこちらに向けながら柔らかな微笑みを返した。海も空も、そして美佳の瞳もオレンジ色に染まっていた。もうすぐ水平線に着きそうな太陽が、二人の重なった長い影をぬれた砂浜に映していた。

 幾度、僕たちの足下を波が洗って行っただろう。周りの光は、オレンジ色から赤みを増した色に移り変わっていた。

「橘さん、お願いきいてくれませんか?」

 突然口を開いた美佳の声は、小さく波の音にかき消されそうだった。

「なんだい?」

「あっ、えっとですね。わたし、橘さんの顔が見たいんですけど。」

「えっ、ああっ。わかった。」

 僕は、美佳の希望を理解して頷いた。美佳を中心にして、僕は円を描くように少しずつ体を移動させていった。美佳は、自力では立ってはいられないので、慎重に体を移動していった。僕の背中が夕日を浴びる頃、美佳と向かい合わせになっていた。美佳は黙ったまま、僕の背に腕を回しお互いの距離を縮めた。僕も、美佳の背に腕を回して美佳の体を支えた。少し早くなった、お互いの心臓の鼓動をお互いが意識した瞬間だった。

 背中に回された美佳の腕に、より一層力がこもった時、僕が映った大きな瞳を、美佳は静かに閉じていった。僕は、微かに震えている美佳の唇に自分の唇を重ねた。二人の一つになった影は、砂浜に残像のように映り込んだ。永遠の時に刻まれるように。

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