第4話 川澄アキナとシーリーコート
「どうも、お元気ですか?」
突然後ろから声をかけられて、アキナは警戒しつつ振り向いた。
普段の彼女なら振り向かない。
彼女自身を名指しして呼び止めたのならばともかく、誰に対して呼びかけたのかわからない曖昧な内容に反応するほど暇ではないからだ。
だが、その時はつい振り向いてしまった。
呼びかけられたのが日本語だったからというだけでなく、なんとなく無視しては悪いというような不思議な感覚を抱いたからだった。
「あんた、誰さ?」
すぐ後ろにいたのは知らない青年だった。
いや、顔と格好は知っていた。
さっき〈923club〉の中二階の踊り場から彼女を観察していた、彫りの深い整った美貌とさらさらの黒髪を持った青年だった。
特にこちらを見つめる瞳が印象的で、角度や光、表情などの様々な違いによって、黒から青、時折金色にさえも思える不思議な色をしていて、瑞々しく潤みながら、不知火のように萌えている。
とても間近ではお目にかかりたくないほどの美青年だった。
普通の女の子ならば、思わずうっとりしてしまうこと間違いない。
だが、実の両親からも不感症じゃないかと囁かれているアキナにとってはコメントする気が起きない程度の美貌でしかなかった。
(もう少し美形なら考えてあげなくもない)
と、とても鷹揚に青年の美貌を評する。
「あなたは先程、あの悪名高いアンシーリーコートと戦うという風なことを言っていたようですけど、本気ですか?」
「うん、マジだけど? や、それがあんたに関係あんの?」
「止めておいたほうがいいと忠告しに来たのですけど……」
どうやらさっきのタクシーの運転手と同じことが言いたいのだと理解して、アキナはひらひらと手のひらを振る。
要するに拒絶の仕草だ。
見ず知らずの誰かに忠告されて逃げ出すようなら、こんなところまで高い
アキナにはアキナの譲れない決意があるのだ。
「悪いね。あたし、誰がなんと言おうとあいつに一泡吹かせたいの。だから、止めたって無駄だよ」
「……それは眼を見ればわかります。けれど、これだけは知っておいてもらいたいのです。やつは―――アンシーリーコートと名乗る男は人間ではないのです」
悪魔だという評価は聞いていたが、本当に人間ではないという評価は初めてだった。
わずかにアキナの好奇心の食指が動いた。
少しだけなら話を聞いてやってもいいという気分になったのだ。
「人間じゃないというのなら、なんなの?」
「やつは、妖精です」
アキナは回れ右をした。
これ以上付き合っていられないというわかりやすい態度だった。
だが、青年は諦めない。
「ちょっと待ってください。嘘や冗談ではなく、本当に妖精なのですから!」
手を掴まれたので、仕方なく振り向く。
この掴みかたはセクハラだと言おうと思ったが、そのまえに口に出たのは、
「アンシーリーコートってのが、『邪妖精』のことだということは知っている。でも、それはただの名前だろ。日本にだって『悪魔』ちゃんはいたし、ザブングルの片割れみたいな妖怪はいる」
「『悪魔』ちゃんは結局命名されませんでしたし、ザブングルのあれはあんな顔をしていてもとりあえず人間です」
アキナはちょっと思案した。
黒目黒髪の見た目とはいっても、どことなくケルト系のような西洋風の顔をしているくせに、日本のつまらない知識を持っているのが奇態だった。
それに日本語がもの凄くうまい。
間違いなく日本人に学び、日本人とともに暮らさなければ発せない淀みのない喋り方をしていた。
よくわからないが、話を聞いてやってもいいと再び思い直すほどには真剣そうではあった。
「まあ、百歩譲って、あいつがその名の通りに『
「やつはある事故から妖精の力を使えるようになって、それ以来、自分のためにその力を使い続けているんです。それは僕たちの
「ふーん。ということは、あんたも妖精?」
青年の話す説明を本気にはしていなかったが、話の文脈からするとそういうことになるので、アキナは試しに聞いてみた。
すると、青年は顔を上げて、名乗った。
「ええ、僕の名前はシーリーコートです」
とりあえずアキナは目の前の青年をぽかりと殴った。
殴っておくべきだと論理の先にある何かが告げたからだ。
なぜ殴られたかわからない青年―――シーリーコートとかいうらしいは―――は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていた。
「……どう「なんで、
「いや、そういうわけでは……。あっちは邪妖精ですけど、僕は『妖精を纏ったもの、人に非ず魔に非ず、アストラルの弾劾者。強力な王の力を持ち、秩序を維持する大妖精』などと呼ばれていて、まったく成り立ちが違うのです。佐藤さんと砂糖さんぐらい違うんです」
「ほう、名前が似ているだけだと言いたいのか? ああん?」
ヤンキーのように絡んで語尾が跳ね上がるアキナから後ずさって、シーリーコートはうんうんと何度も頷いた。殴られたせいかより真剣さは増している。
どうやら嘘を言ってはいないようだとアキナは矛を収めることにした。
ただし、警戒は忘れない。
さっきからこの青年はのんびりと飄々と振舞っているが、何やら隠している様子が見て取れた。
おかしな発言の真偽はさておくとしても、正直に答えているようで意味を二重隠しにできるように言葉を濁していることは見抜けていた。
彼女を陥れるためではなく、何か別の目的があるらしいことは明白だったが、それは決して口外しないだろう。
ならば、別に無理して問い詰める必要もない。疲れるだけだし。
その点、川澄アキナは非常に合理的な女だった。
「で、あんたは何をしに、あのアンシーリーコートを見張っているんだ。意味もなくってわけじゃないだろ」
「……僕は、その、アンシーリーコートをですね。とりあえず妖精の力を使えないようにするために来たんです……よ。なにしろ、やつはテレビの全世界中継でも力を使いましてね。今でもこちらの迷惑を顧みないで使いまくっているものですから」
「一年前……?」
かちりと脳みそにスイッチが入った。
シーリーコートの言っている内容が理解できたのだ。
一年前に全世界中継で力を行使したというのならば……
「あいつのビリヤードの力はイカサマってことなのか?」
「そうです。やつは手玉を自由に操ることができます。だから、どんな的玉にも当て放題ですし、どこの穴にも落とすことができる。だから、たとえあなたが世界チャンピオンであったとしてもやつに勝つことはできないのです」
手玉を自由に操る……的玉に当てられる……穴に落とせる……
「なるほどね、だから、あんな構えや適当なストロークでも大丈夫なんだ。そうすると、的玉を打ちやすい位置に手玉を配置する必要もない。道理でポジションショットが下手なわけだ。角度や力が必要ないんだから……」
アキナは彼女が狙っていた
動きにくいコートをまとい、腰を落としもせずに適当に突き、狙いも定めていないようなのに機械的な精確さで次々にポケットを奪っていく戦い方。
あれがすべてインチキによるものならば、それはビリヤードではない。
そうなっては駆け引きも技術もなにもいらないのだから。
ビリヤードで勝つために日本からやってきた彼女からすれば、それは戦う価値すらなかったという事実でしかなった。
無理に挑戦しても意味がないということを教えたいがために、シーリーコートがあえて告げたのだということをアキナは理解した。そして黙りこくった。
その沈黙を、彼は失望ゆえのものだと思った。
戦う意味をなくしたゆえの沈黙だと。
だから、優しく慰めようとしたのだが、あえなく失敗する。
「―――で、あいつが操れるのは、手玉だけなの? それとも的玉もいけるの? あと、あたしのような対戦相手の邪魔までできるの?」
「……はい?」
胸ぐらを掴まれて、シーリーコートは戸惑った。
アキナの眼には闘志がまだ宿っていた。
それどころか、その闘志の炎はさらなる熱を増していた。
「えっと、どうして―――」
「いいから、さっさと答えろっ! あいつのインチキはどこまで可能なんだ?」
「……キューに魔法がかかっていて、当てた手玉だけを自在に操れます。他の的玉を自在に操れたりはしません……」
「そう。本当に相手を妨害したりはできないのか?」
「で、できません。そういう力は持っていないはずです。できたのなら、僕が察知できるはずです。結局のところ、やつはただの人間ですし……」
「ならばよし」
アキナはシーリーコートを解放して、顎に手を当ててまたもなにやら考え出した。
彼女のその素っ頓狂な行動を、シーリーコートは少しビクビクしながら見つめていた。
正直、彼にはアキナの行動と思考がよくわからなかったのだ。
最初こそ、妖精の力というものを疑った素振りを見せたものの、すぐに事実を受け止めたのか、シーリーコートの話を全面的に肯定し始めた。
それだけでなく、傍にいる彼のことも忘れたかのように路上で何かをものすごい勢いで思考し始める。
あまりに破天荒すぎて対処に困る相手であった。
いったいこの女の子はなんなのだろう、と大妖精が頭をひねっていると、ついにアキナが開眼した。
思わずびくっとしてしまうシーリーコート。
聞こえるはずのない雷がどこからともなく鳴り響いてきたかのような衝撃があった。
「よし、勝負だ。アンシーリーコート」
敵がどういう相手なのかわかっていたというのに、彼女は不敵にも言い放った。
顔に勝利の確信を浮かべて。
まるで目の前に対戦者がいるかのように。
シーリーコートは、実に十数年ぶりに、人間の持つ恐ろしさの一端を垣間見たのであった……
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