〈振りかえって夏〉

 半年も前のことだ。

 から梅雨という言葉がいたるところで人々の口から洩れるほど、雨の少ない梅雨だった。

 白のTシャツとミニスカートの良江は、短期大学部の門を出た。

 今日はまじめに最後まで授業に出たが、黄昏が優しく町を包みはじめるにはまだ時間がある。


 今日も「女坂」は文字通り女子学生であふれていた。

 鳥居の脇を過ぎると下り坂の左側は喫茶店が続き、途中一軒だけ本屋がある。

 その前に、この坂に入るはずのない男性の姿があった。二人の男性はやはり学生のようだけど、この下校時間の女坂に男性が歩くでもなくたたずんでいるという光景は異様だし、どうしても警戒心を抱いてしまう。

 だが、向こうにとってはかなりの度胸のいることだということもわかる。

 女子学生たちの、異様なものを見る視線に耐え続けられる人はそうはいるまい。

 秋の大学祭シーズンになったら、それでも自分たちの学祭への客引きにここに来る男子大学生も少なくないことは良江も聞いていた。

 だが今はまだ六月である。

 良江は気にもせずそんな男子学生の脇を通り過ぎようとした。


「あの、ちょっといいですか?」


 案の定、その学生が良江に声をかけてきた。だが、そんな悪い人にも見えない。


「実は僕たち」


 男が自分たちの大学名を告げた。五年くらい前に共通一次テストが始まる前は一期校に分類されていた旧帝大系で、京都ではトップクラスのエリート校だ。

 良江の家はその大学の近くなので、家の近所でもよくそこの学生は見かける。


「はあ」


「今度我われの有志で自主制作映画の上映会やるんですけど、よろしかったらチケットうてもらえませんか?」


「映画?」


「現代の若者の心理に巣食う退廃ムードを鮮やかに浮き彫りにした青春映画です」


 その陳腐な口上に、良江は吹き出しそうになるのを必死でこらえた。


「わかりました。ほな、また今度」


 立ち去ろうとする良江を、男は必至で追いかけてきた。


「そんなこと言わんと、チケットよろしく」


「今度、気が向いたら」


「今なら前売りで三百円。当日なら五百円でっせ」


 その言葉ぶりから、どうも京都の人ではないようだ。


「考えときます。当日気が向いたら」


「ほな、友だちぎょうさん連れてきてぇや」


 男は映画の上映日時や場所が書かれたチラシを、良江に渡した。いかにも学生の手作りという感じの手書きをコピーしたものだ。

 義理だけで良江はそれにさっと目を通した。


「当日は僕の名前だしてくれたら、前売りの三百円で特別に入れたげるさかい、必ず来てくださいね」


「はあ」


「僕は理学部物理学科三回生の山村修っていいますから」


「え? 物理学科の三回生?」


 良江はふと足を止めた。


「吉崎さんって知ってはります?」


「そない言われても物理学科に学生はぎょうさんおるし、みんな知り合いってわけでもないしなあ」


「吉崎誠二、出身高校は」


 良江が高校名を告げた時、さっきまで良江と話していた男と一緒にいたもう一人の男子学生が声を挙げた。


「吉崎誠二……同じ研究室です。自分、吉崎と知り合い?」


「高校の先輩です。テニス部の」


 良江の顔から警戒心が取れて、少しだけ明るくなった。


「ほな吉崎さんによろしく言っておいてください。高校のテニス部の後輩やった山本良江っていったら分かるはずですから、よろしく」


 良江は再び坂を降り始めた。


「あ、ねえ、チケット」


 最初に声をかけてきた山村という学生が騒いでいたけれど、次から次へと通り過ぎる女子学生の群れの視線に耐えきれなかったようで、そのうち良江を呼ぶのをやめた。


 その晩、意外な人から電話があった。

 今日話題に上がった吉崎誠二からだった。


「うわあ、先輩、元気ですか?」


「元気だよ。君も?」


「はい、元気です」


「ほかのみんなも?」


「さあ、元気なんちがいますか?」


「そうやな、みんなばらばらやもんな」


「でも懐かしい」


「今日杉岡から君の名前聞いてな」


「杉岡?」


「なんか映画のチケット買うてもらおうと声かけたとか言うてたけど」


 良江に声をかけてきた山村と名乗った男と一緒にいて、あとから話しかけてきた方の学生がその杉岡らしい。


「そんで元気してるかな思って、今でもテニス、やってるんけ?」


「いえ、今はもう。それにしてもあの人たち、先輩のお友だちですか?」


「そんな親しい友だち違うけどな」


「映画来てくれって」


「ああ、あんなんしょうもないもん、行かんでええ行かんでええ」


 笑ながら言う声が聞こえた。ふと間があった。


「そっか。山本はあの女子大に入ったんか」


「短大ですけどね」


「そうだ。いっそのこと、合コンしいひんけ?」


「ええ? そんなんしたことないし」


「頼むわ。うちの学部は女子少ないし、女子大に高校の後輩おる言うたらみんな合コン、合コンてうるそうてな」


「仕方ないですね」


 良江はクスッと笑った。

 事実、良江の友達もあの大学と合コンとなると飛びついてきそうな面子メンツは何人もいる。

 そんなやり取りを経て一応この二人で進行役で合コン開催ということになり、詳しいことは追って打ち合わせることにした。


「ほな、きばって人数集めてや」


「はい」


 良江が短大に入って初めての合コンの話が、これで決まった。



 店内は、うまく照明が落とされている。

 二十人くらいが座れるテーブル席が並び、それぞれに学生風のグループが収まっている。

 ほかにカウンター席もあった。

 河原町三条をさがった一筋目の細い道を東に入った北側にあるスナック「田園」は、学生コンパ専用といったところだ。

 看板には店名の上に「洋酒天国」の文字も入っている。

 ブティックやアクセサリーショップが入っている雑居ビルの三階で、そのビルは直方体ではなく、一階は広く空間がえぐられていたりして形は複雑だ。

 六月も末に近い土曜の夜、良江の女子大の学生六人と吉崎の大学の理学部の学生七人は、この「田園」で合コンを行った。


 良江と吉崎が進行役だったので、とりあえずくじで座席を決めた。

 番号を書いた小さな紙を二つに折ってアポロキャップに入れ、それぞれ各自一枚ずつ取るというくじだ。

 男女は別々にくじを引くので、交互に並ぶようになる。


 席も決まり、それぞれが引き当てた席に座った。細長いテーブルの、良江から見て左前に吉崎、右端には先日この合コンのきっかけを作った杉岡がいた。

 初めから席の数だけクラスが用意され、そのテーブルにバーテンがオールドのボトルを三つ置いていった。

 女子の一人が買って出て、水割りを作っていった。男子の中にはロックでと頼む者もいる。

 良江を含め女子大サイドは全員が未成年だったが、高校さえ卒業していればかまわないと男子サイドは言う。

 でもやはり最初の乾杯だけ付き合って、あとはウーロン茶などのソフトドリンクに切り替えた女子が多かった。


「乾杯!」


 吉崎の音頭で、グラスを合わせる音が響く。

 男子学生の何人かがたばこに火をつけたので、店内には煙とたばこのにおいが充満した。


「ほな、自己紹介しよ」


 吉崎の提案で、順番に簡単な自己紹介が始まった。

 ひととおりそれが終わると、隣や向かいに側に座った者同士で、飲みながら談笑が始まっていた。

 良江の右隣の男子が、良江の皿にオードブルから適当に見繕って取り分けてくれた。


「あ、おおきに」


 オードブルの皿には生ハム、空揚げ、パスタ、サラダ、ローストビーフなど盛り沢山だ。


「いえいえ。あ、俺の名前、覚えてる?」


「かんにん」


 最初の自己紹介でいちいち全員の名前を覚えられる人などいないだろう。


「水野浩」


「ああ、そうそう、そうでしたね。私は」


「山本良江さん……やろ? ここに誘われたときに、吉崎からさんざん名前聞いてるし」


 水野浩は気さくに笑う。つられて良江も笑顔を見せていた。

 だがそのあとは左隣の別の男子や向かい側の吉崎とも話が弾み、いつしか時はあっという間に過ぎていった。

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