第5話『スタジオオーディション本番』

「もしもし佐藤さん。いま、聞こえてますか」


音響監督の筑波が、手元の『TB』というアルファベットの書かれたボタンを押しながら、机に設置された小型のマイクに話しかける。


「は、はい! 聞こえております! よろしくお願いします!」


スピーカー越しに、佐藤愛莉の声がコントロールルーム内に響いた。

TBトークバックとは、コントロールルーム内(筑波達がいる空間)からレコーディングブース内(愛莉がいる空間)とのコミュニケーションを取るためのツールだ。ボタンを押している間だけ、筑波の目の前にあるマイクからブース内に声を送ることが出来る。


「なんか思ったより緊張してるっすね」

「挨拶の時にかましすぎたって、ちょっと後悔してるんじゃないか?」


制作陣の木梨と藤堂がヒソヒソと言葉を交わす。

確かに、スピーカーから聞こえた挨拶は、先程の印象とは打って変わってややぎこちないものだった。


「キューが出たらご自身のお名前、キャラクターの名前、台詞の順でやってもらって。キューランプここね、見える?」


筑波の言葉に合わせて愛莉の目の前、ブース前方に据えられた『CUEキュー』と書かれた赤いランプがチカチカと点滅した。

トークバックが聴覚的なツールなのに対して、キューランプは視覚的なコミュニケーションツールだ。これも筑波の手元にあるボタンを押すことでブース内のランプが光り、収録開始の合図などを役者に伝えることが出来る。


「じゃあ一回音量チェック兼ねてテスト行こうか。二番の台詞まで一回読んで貰えるかな」

「は、はい、承知しました」


言われて、課題の台詞を愛莉が読み始める。

それに合わせてエンジニアの安田が諸々の調整を済ませ、筑波にジェスチャーでOKを伝えた。


「良い声だけど、なんか硬いな」


制作プロデューサーの藤堂の口から、ポロリと本音が溢れる。

木梨も口には出さなかったが、似た感想を抱いていたようで、静かに首を縦に振った。

監督の富山は、腕を組んだ状態でじっと目を閉じていた。


「どうします? 一旦このまま行ってみます?」


筑波が富山の方を振り返り、指示を仰ぐ。

富山は無言のまま、頷いた。


「では本番もこの感じでお願いします」


TBで告げた後、筑波はたっぷり二秒間、CUEランプを押し込んだ。



§



「佐藤愛莉。ヤン・貴妃・ウィンディ」


声がかすかに震えたのが、自分でも分かった。

テストで声の出方に問題はなかった気がするけど、正直自分が何をどうやったか全く思い出せない。用意してきた演技プランなんてとっくに崩壊していたし、もう早くこの拷問みたいな時間が終わって欲しいという気持ちでいっぱいだった。


「(まったく、緊張し過ぎじゃ。それでは折角の美声も台無しじゃて)」


その時、背後からふわりとした気配を感じる。

そう、今日私に取り憑いたばかりの、楊貴妃を名乗る謎の背後霊だ。

未だに信じ難い話だし、ストレスが生み出した幻影の可能性も否定出来ないが、こんな状況になっている以上そうも言ってられない。

一体誰のせいでこんなことになってるんだと思いつつ、不思議と心地のいいその温もりに、いつの間にか私は身を委ねていた。


「(しかし一介の平民の女子おなごの割には、この逆境で踏ん張っただけでも上出来じゃ。褒めて遣わす。後のことはワシに任せよ)」


入れ替わるように、自分の意識が背後へと抜けていく。

自分の身体なのにまるで他人のもののような、経験したことのない俯瞰の感覚がそこにあった。

四肢の筋肉が、肺が、腹筋が、背骨が、肩が、自分の意思に反して、別の誰かの意志によって、有機的に組み合わさり、動かされる。


あれ、自分が声を出す時って、こんな風に――


「控えよッ! 王の御前であるぞッ!」


――瞬間。

空気が、変わった。


四方八方に吸音材が敷き詰められ、音の反響が極限まで抑えられているはずの空間が、ビリビリと震える。

唖然とする私の意識を横目に、自分の顔が、ニヤリと笑った気がした。


「先程は失礼を、ボルコンスキイ伯爵。つい先日セクター7セブンでクーデターがおこったでしょう。そのお陰で王族はどこも皆気が立っております。セクター3スリーを統べる我がヤン一族も例外ではありませんわ」


主人公のアンドレイが、ウィンディに初めて出会う場面での台詞だ。

辺境貴族ボルコンスキイ伯の嫡男と、王族として産まれた絶世の美女。セクター3が戦火に呑み込まれるその直前、二人の運命の歯車が絡み合い、回り始めるきっかけとなる重要なシーンだ。


「改めて、私の名はヤン・貴妃・ウィンディ。セクター3『ハミール』における当代の王、ヤン・寿王・リーの姉にあたりますわ」


――完璧だった。

特に大きな感情の動きがあったわけではない。所謂、説明的な台詞だ。

だが、完璧だった。

僅か一連の台詞の節々から、彼女の出自の高貴さ、受けた教育レベルの高さ、そしてその身に背負う責任の大きさが克明に表れていた。


演技において喜怒哀楽の感情表現は、基本的に読解力という解釈に依存する。

それはつまるところ国語の授業における「この人物のこの時の気持ちを答えよ」という質問と本質的には何ら変わらない。

受け手によっていくつかバリエーションが発生することは確かだが、それは“無限”ではなくせいぜいが幾つかの選択肢に絞られる事が殆どで、だからこそ国語の授業等で“間違った選択肢”を作る事が出来る。

故に、喜怒哀楽などの感情表現の方向性は、演者の読解力によって再現性が担保できるのだ。


だが、“人柄パーソナリティ”は違う。

人間が生まれつき備えた性格と素質に加え、家庭や生活環境、周囲との人間関係など、幼少期から大人になるまでの成長過程で次第に形成される人格は、その多くを共有する双子ですら明確な差異が発生する。即ち、誇張なくの可能性が存在する。

そしてそれを演技に落とし込んだ場合、事実上不可能と言っていいほどの再現性の困難が発生してしまう。

その結果として現れるのが、「自分に近い性質の役ほどハマりやすい」という現象だ。

逆に、キャラクターのパーソナリティが自分とかけ離れるほど、演技に説得力を持たせることは極めて難しくなっていく。ゆえにどれだけ才能あるベテランの役者でさえも「ハマり役」という概念から逃れることは不可能だ。


しかし世間に、全く違う性質の役柄を演じ分けられる役者が存在する事もまた事実である。

それは一体何故か、どういったカラクリなのか。

少なくとも今の佐藤愛莉に、それを理解することは出来なかった。

ただただ目の前に突き付けられたを――楊貴妃を自称する意識体が己の肉体を使って紡ぐ、真なる王族の高潔と峻厳とを、という至上のダイナミクスを以てひたすらに受容する他なかった。


「(これ……“ホンモノ”だ……)」


演技の極致は、演技からの脱却、即ち真実の現出である。

今自分のからだを操る思念が、史実上の楊貴妃その人だと信じられたわけではなかった。また仮にそうだとしても、ヤン・貴妃・ウィンディはあくまで架空のキャラクターだ。設定の一部は楊貴妃がモデルになっているとは言え、その人物像や背景バックグラウンドは架空の要素を多大に含ませ再構成されている。

しかし今、愛莉が目の当たりにしていたものは、紛うことなきそのものであった。


「あなたは不思議な人ね、ボルコンスキイ伯爵。時代が違えば私たち、良いお友達になれたやも知れませんわ」


作中のシーンを掻い摘んだだけの僅かな台詞。

それを聞きながら愛莉は、ウィンディに襲いかかる過酷な天運と宿命とを、まるで追体験するかの如き錯覚に囚われていた。


「あぁぁぁああああっ!!! どうして……!! なぜこのようなことに……ッ!!」


そしてウィンディの悲壮なる運命は、遂に佳境へと突入していく。

意図せずアンドレイが運び込んでしまった戦争の火種によってセクター3は戦火に包まれ、ウィンディは最愛の弟、寿王リーを失うのだ。


「貴様らは……そうまでして……! そうまでして奪いたいか!? 自由を奪い……尊厳を奪い……果てには我が弟の命まで……ッ! そうまでしてまだ喰らい足りぬというのか外道どもめ!!」


運命に弄ばれた皇女の、悲痛なる叫び。

奇しくもその怨嗟の咆哮は、彼女を助け出そうと駆けつけたアンドレイ達へと向けられてしまう。

そして直後、彼らのいる宮殿は爆発に包まれ、二人の運命は分かたれる。


「あぁ……こうなるなら、始めから心など持たなければ良かった……」


いつの間にか愛莉は自分の頬に、一筋の涙が流れていることに気がついた。


「(これが……愛する人を失う悲しみ……)」


そして台詞は、ついに最後のそれへと移る。

セクター3を追われた亡国の一団に保護されたウィンディは、彼らを束ねる象徴として擁立され、今度は自らの意志により、再び戦火へと身を投じることになるのだ。

避難船で身を寄せ合う民草たちの前に現れ、ウィンディは彼らに語りかける。


「我々はみな、大きな傷を負いました。」


「外部からもたらされた災いによって、故郷を追われ、愛する者を失い、安寧は踏みにじられました。」


「忌まわしき帝国軍は、今なお我ら故国の大地を踏み荒らし、空を穢し続けています。」


「我々は一度頽くずおれました。何もかもを蹂躙され、ただ悲運にたおれるしかなかったのです。」


「しかしだからこそ、我らは再び立ち上がらなければなりません! 立ち上がり、連中に思い知らせるのです! あの大地が、空が、一体誰のものかということを!!」


「必ずや我ら故国の大地に! 再び我らハミール人の理想郷を築くのです!!」

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