51 はじめての道
51 はじめての道
それは、イナホがまだ幼い頃。
父親からの厳しい弓の指導に耐えかねて、家を飛びだしたことがあった。
イナホは村から遠く離れた場所にある森で、岩の上に腰掛けて泣いていたのだが……。
そばにあった茂みがガサガサと揺れ、彼女は涙の残る顔をハッとあげた。
ここは村では『聖域』と呼ばれる場所で、村人は滅多なことでは来ない。
ということはイノシシかオオカミ、それともクマかと、イナホは立ち上がって弓矢を構える。
しかし茂みを破って出てきたのは、四つん這いの男だった。
男はボサボサの髪にぶ厚いメガネをしており、さえない風体。
しかも全身は土埃にまみれ、クモの巣や葉っぱがあちこちに付いている。
目の前で身を固くしているイナホにに付くと「おや……?」と声をあげた。
「……こんなところに……人がいるなんて……。……お嬢ちゃん……お名前は……?」
しかしイナホは答えず、矢を引き絞る。
「……わぁ、待って……ください……。……こんな山奥で……通報案件なんて……」
男はぼりぼりと後頭部を掻く。
イナホは警戒を顔に滲ませたまま問う。
「おじさまは、どなたですか」
「……僕は……怪しい者じゃないです……。……薬草を……探してたんです……」
「おじさまは、お薬を作る人なのですか?」
「……職業は……違いますけど……。……薬も作ります……。……そういうあなたは……なぜ……泣いているんですか……?」
涙の跡を指摘され、イナホは取り出した手ぬぐいでごしごしと顔を拭う。
袖で拭わないあたり、育ちの良さを窺わせる。
そしてその間はずっと無防備だったのだが、男は襲い掛かってきたり逃げ出したりせず、滔々と語っていた。
「……なにか……嫌なことでも……あったんですか……? ……僕も……今朝……嫌なことがありまして……。……ロックに……引っかかれちゃったんですよね……。……ポーションで……治そうとしたんですけど……切れちゃっててて……」
「ロックさん、ですか?」
「……ええ……。……僕の友達の……黒猫……です……」
黒猫と聞いて、イナホの顔はほころんだ。
「どうして、引っかかれてしまったのですか?」
「……舌を……しまい忘れてたのを……からかったんです……。……そしたら……怒っちゃって……。……本人が言うには……パンチのつもりだった……そうなのですが……。……爪が……思いっきり出てて……」
男と黒猫のやりとりを想像して、イナホはとうとう肩を震わせ笑ってしまった。
しかしすぐに現実を思いだしてしまい、沈んだ顔に戻ってしまう。
ぺたんと地面に正座をしてうつむくイナホの顔を、男はのぞきこんだ。
「……なにか……嫌なことが……あるんですか……?」
「嫌なことというわけでは、ないのですが……。弓矢が、上手にできなくて……」
「……ああ……それで……悩んでたんですね……。……その格好からして……巫女……ですね……。……あなたは……巫女に……なりたいん……ですね……?」
「父上にそう言われて、なろうとしているだけです」
「……あなた自身は……なりたいとは……思っていないんですか……?」
「わかりません……」
「……そうですか……。……じゃ……せっかくですから……弓矢を……射ってみて……くれませんか……?」
男に促され、イナホは弓に矢をつがえて構えを取ってみせる。
数十メートル先にある、枝から垂れ下がっている赤い木の実を狙ったのだが、矢はそのそばを掠めていった。
男は「ほう……」と感心したようなため息を漏らす。
「……あの距離にある……標的に……あそこまで……狙えるなんて……たいしたもの……じゃないですか……」
しかし、イナホはまだあどけない表情を険しくしていた。
「いいえ、巫女になるためには、あのくらいの的は百発百中でないとダメなのです」
「……厳しいんですね……じゃ……今度は……僕といっしょに……射って……みましょうか……」
「えっ? おじさまは、東弓がおわかりになるのですか?」
「……多少は……」
イナホは二射目の体勢に入る。
男はその隣でしゃがみこむと、手取り足取り教えるように、彼女にぴったりと寄り添った。
イナホの耳元で「……いいですか……」とささやく。
「……道を……想像……してみてください……」
「道ですか?」とイナホ。
顔こそ標的に真っ直ぐ向けていたが、表情は言葉の理解しかねているようだった。
「……ええ……人が歩く……道です……。……目を閉じて……。まっすぐな道を……歩いている姿を……想像……してください……」
人を疑うことを知らないイナホは、素直に瞼を降ろす。
「……その道は……どこまでもまっすぐで……どこまでも続いています……。……季節は春……空は晴れ渡っていて……気持ちのいい……そよ風が……吹いています……」
ささやきに身を任ていると、自然と身体の力が抜けていく。
「……そしてあなたは……どこまでも行ける……翼を持っています……地平線の向こうには……なにがあるんだろう……。……仲良しの友達の家か……おいしいお菓子の家か……大好きな人がいる家か……早く……行ってみたい……」
イナホは頭の中で、地平線を目指して道なりに飛んでいた。
「……さぁ……ゆっくりと……目を開けて……。……道が……見えるはずです……」
眠りから覚めるように瞼を開くと、まわりの音がすべて消えていた。
風の音も、木々のざわめきも、小鳥のさえずりも。
それどころか、周囲にあった森も見えなくなっていた。
あるのはまっすぐな道と、遠くに見える1本の木だけ。
矢を引き絞っていたイナホの手、そこに添えられていた男の手が動く。
イナホが導かれるように弦を離すと、矢はまっすぐに飛んでいき、赤い木の実のド真ん中を撃ち抜いていた。
「……えっ!?」
と声をあげた瞬間、周囲の音と形跡が戻ってくる。
「……あ……当たった……!?」
イナホは目をぱちぱちさせながら、傍らにいる男を見た。
「いったい、どんな魔法を使ったのですか!?」
「……魔法……じゃないです……あなたの……実力です……」
「そんなことはありません! だって、今まで何度練習しても、当たらなかったんですよ!?」
「……東弓の……コツを……教えた……だけです……」
男は、出会ったばかりの頃と変わらぬ口調で語る。
「……武器というのは……絶つ道具です……。物を……命を……運命を……。でも……東弓は……導く道具でもある……とされているんですよ……」
「導く……?」
「……そうです……矢文……かぶら矢……ひきめ矢……。……人々を……正しい道に……導くために……使われてきました…」
男は、イナホの頭にぽんと手を置く。
「……まっすぐな道は……あなたの心です……。……巫女になりたくなければ……無理をしなくても……いいんですよ……。……あなたのお父さんも……きっと……わかってくれると……思います……。……自分の気持ちに……まっすぐでいてください……。」
「自分の気持ちに……まっすぐに……」
その日の夜、イナホは聖域の森で不思議な男に出会ったことを、父に話す。
男の助言の通りに矢を放ったら、魔法のように命中したことを伝えると、父は感涙の涙とともに彼女を抱きしめた。
「おお……! それはきっと、シンラ様だ……! シンラ様がお前を、導いてくださったのだ……!」
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