机上詩同好会
愛知川香良洲/えちから
机上詩同好会・本編
プロローグ
坂の途中に建つ、ある高等学校。北から体育館、「上」という文字を左右反転にしたような配置の校舎、専門学科である音楽科の、レッスン室と共に演奏ホールも併設された専門学科棟と並ぶ。体育館の西隣には、屋上にプールが設けられ中二階はそれ用の更衣室も設置されている第二体育館と、隣接して屋外にテニスコートが作られている。第二体育館とテニスコートの南側には運動場が広がり、学校のすぐそばにまで広がる自然公園との間に無の空間を生み出す。
校舎に関しては東西方向に普通教室棟と特別教室棟が、南北方向には管理棟と以上三棟を繋ぐ役目を負うピロティー棟があるが、坂の途中にあるのでその高低差は最大二階分にも及ぶ。管理棟の三階に当たるのが特別教室棟の一階という感じで、両棟を繋ぐピロティー棟は生徒達から俗に「宙に浮いた教室」と呼ばれることもあったりする。つまり一階が柱だけで構成されていて、壁は耐震補強用の鉄フレームぐらいと言ってもいい。ただ、このスペースに教室を作っても不便極まりなくすぐに倉庫化してしまうことが予想されるので、かえって妥当かもしれない。
そんなピロティー棟の三階、日時で言えば十二月のある日、午後〇時二十分を回った頃。「展開教室」と呼ばれる二教室の前にある廊下に授業終了のチャイムが響いた。南側の特別教室棟からは授業を終えた生徒たちが流れてくるが、すぐに途切れ廊下は無人になる。そんな空間を、少女が一人通過した。北から、南へと。
少女が戻ってきたのはそれから十分程たった頃。その両腕では紙束を抱えている。少女平川 琴美は吹奏楽部に所属していて、今日は特別教室棟内にある部室から楽譜を持ち出しこの階と同じ高さにある管理棟四階・生徒会室横の印刷室でコピーをしようとしていた。
少女の対面に当たる北側から、少年が一人歩いてくる。藤田 洸、彼は質問があって特別教室棟三階の数学科研究室へと向かっていた。少年が廊下の中程に差し掛かった時、後ろから声がかかる。
「あ、藤田さん」
少女と少年のクラスで国語総合イ、いわゆる現代文を教える岡本 純子が少年に声をかけたのだった。少年は立ち止まり、振り返る。しかしそのことに少女は、ボーッと歩いていて気付かない。
「何ですか、岡本先生」
「この前私は『詩を書く』っていう授業をしたわよね? 藤田さんも出してくれていたのだけど何しろ提出数が少なくて。だから皆の詩を印刷して配るのは止めようと思っているんだけど、あなたの詩は私的にとてもいい詩だと感じたわ」
「ありがとうございます」
「たしか、『少女の呟き』って題名で──」
「きゃあ!」
その時、少女が少年の背中へとぶつかった。それまでボーッとしながら歩いていた少女はぶつかった時に初めて意識を取り戻したが、その驚きのあまり腕の中にあったものを放り出してしまう。その、大量の楽譜は一度天井近くまで舞い上がり、バラバラに散って床へと落ちていった。
少年は一瞬動転したがすぐに立ち直り、背中へ張り付いた少女の姿を確認する。
「──平川、さん?」
記憶の中から少年はクラスメイトの名前を探りだし呼び掛けるが、少女の反応はない。もう一度呼び掛けて聞こえてきたのは
「──(すー)」
という寝息だけだった。学生服の上着の生地をしっかりと掴み、少年が歩いても引き摺られるようについてくる。そんな光景を見て岡本は笑い
「あらら、しっかりと眠っていますね」
冗談めかして言った。少年が
「全く、他人事だと思って……。で先生、どうすればいいですか……」
と困った様子を見せると岡本は少し考え指をチッチッチッと振り答える。
「とりあえず、保健室でしょうね。まさか階段を引き摺って降りる訳にはいかないから……藤田さん、上着を脱いで」
「……え? ……ああ、そういうことですか」
結局少年は、いわゆる「お姫さまだっこ」で少女を保健室へと運んでいったのだった。
#
少女が目を覚ましたのは午後四時を過ぎた頃だった。まず見たのは天井につけられた石膏ボードの白色。もちろん、少年にぶつかる直前までの記憶しか持っていない(というより少年にぶつかったことさえ認識していない)少女にとって、その意味は全く解らない。 起き上がって周りを見ると、前方など三方向は白のカーテンに覆われていた。また自分の体に何やら布が掛かっていたこと、下が比較的柔らかいこと、そして空気自体が暖房を入れたように暖かかったことから得られた答えを呟く。
「ここって……保健室?」
「ああ、そうだよ」
少年の声が、それに応えた。独り言のつもりだった少女は言葉が返ってきたことに驚いて辺りを見回す。少女の左手側で少年が椅子に座っているのを確認したのは、それから十秒程たった後だった。
「やっと目を覚ましたか」
少年は心配した様子で呟いた後、
「いきなり人の背中に張り付いて寝てしまったから、びっくりしたよ」
と声をかけた。少女は「人の背中に張り付いてた」、そんなことをしていたのかと思い出そうとしたが記憶がない。少女がぶつかったその瞬間、いやその直後には一瞬覚ました意識を楽譜と共に手放していたからで、少女には確かめようがない。やむなく、少女はその言葉を信じることにした。
「寝不足とか、風邪とかじゃないか?」
少年はなおも心配して声を掛ける。少女は首を横に振り
「ちゃんと睡眠は取っているはずだし、熱もない。ただ何だろう、最近ずっとだるいんだ。『慢性疲労』って感じかな」
と言った。それが少女の感じる、自分の身体の状態。少年はその言葉を聞き、
「慢性疲労で三時間ぐっすり寝ちゃうのもすごいけどな」
と感想を言う。すると少女は驚き、
「三時間ってことは、今って……」
指を折って計算をし始めた。そんな様子を見て少年は
「四時だよ」
とそっと教える。その言葉に少女が
「部活、行かなきゃ!」
と慌ててベッドを飛び出そうとするのを手で制し
「ぶっ倒れた日に呑気に部活なんて出来ないだろ!」
少年は叱りつけた。少女は、確かにそうだとは思ったが
「楽譜、コピーしなきゃ……」
自分に与えられた仕事ゆえ、放棄できない。その心配を解消するように
「あれなら担任の、高橋先生だっけ? あの人が部長に渡しておいてくれたそうだ」
と少年は告げる。それを聞いて少女は安心した。
「ならよかったけど……」
「それはそうと、早く学ラン返してくれないかな?」
「学ラン? 私、藤田くんの学ランを借りて何したの?」
意識がなかった少女に、解るはずがない。それを察し少年は掛け布団を勢いよく捲りあげた。
「ちょ、ちょっと何するの……」
少女が布団を押さえようとしたが、少年の方が早い。驚く少女に少年は腰辺りに掛かっているものを指差し
「ほら、あるだろう」
と言った。少女が見ると確かにはそこには学生服の上着がある。
「え、うーんと、何で?」
「寝てる時、ずっとそれを掴んでいたんだよ。しかも離さないしさ。まさか一緒にベッドに入る訳には、いかないだろ……」
恥ずかしくなったのか、少年の声は途中でしぼんでいく。少女もその光景を想像して、その先を妄想して、顔を真っ赤にして俯いた。気まずくなって沈黙が二人の間に流れる。
「とりあえず──ごめんなさい」
勇気を振り絞って少女が口を開き、学生服を掴んで少年に差し出した。ずいぶん失礼な言い方だ、と言った後に少女は後悔していたが少年は何も言わず受け取る。上着を羽織り少年は
「さてと、平川さんも起きたことだし帰るとするか」
と、椅子から立ち上がろうとした。それをつい、少女は腕を掴んで引き留めてしまう。
「まだ何か?」
少年が聞くと少女は戸惑いながらも
「うーんと、ほら……病人を置いていくのは、ね」
俯きながら言った。そんな様子を見て少年は溜め息をつき
「解った、一緒に帰るよ」
呆れるように頭を掻いたのだった。
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