第3話 帰ってもらえませんか?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
いつまでも素っ裸なのはどうだろうと思い、起き上がってキョロキョロとする。昨日着ていた服は洗濯カゴに突っ込むとして、とりあえず部屋着を身につけよう。
ふだん仕事に出る前に部屋着のスウェットを脱いでベッドの上に置きっぱなしにしているのだが、今は当然ながらそこにはない。ベッドの足元を覗くと落ちてぐしゃぐしゃになっているのが目に入った。私は部屋着のセットを拾い上げてサクッと着る。
にしても、散らかってるよな……
家では風呂に入って寝るだけの生活を続けていた。数日に一回、入浴中に下着類を自動洗濯乾燥機に突っ込んでどうにか衛生状態を維持してきたわけだが、それ以外はまあだいぶひどい。家で食事をすると洗い物とかゴミ捨てとかの煩わしさがあるから、潔く全部外食にしたのは大正解だっただろう。
よくこの家に男を引っ張り込もうと思ったな、私……
シーツと枕カバーは洗濯した方がよさそうだな、と思ったところで彼が戻ってきた。
「水道水でいいのかな?」
グラスの半分まで水を汲んで持ってきてくれた。時間がかかったのは、おそらく飲み物を探してくれたからだろう。
「お茶も切らしてましたからね。水道水しかないです」
「冷蔵庫の中を物色させてもらったけど、何もないよね。朝ごはんは食べない主義? それとも減量中なのかい? 僕は今の君の身体はもう少し肉付きがよくてもいいくらいだと思うけど」
そう告げて、服の下にある私の胸やお腹のあたりを無遠慮に見つめてくる。
「ダイエットをしているわけじゃないですよ。ここ三週間近く、家には寝るためだけに帰っていたんで。食事は外で済ませているんです」
そう答えて、彼からグラスを受け取って水をありがたくいただいた。たくさん汗をかいていたから、二日酔いの頭痛には悩まされていなかったけれどとても助かる。
「なるほどねえ」
「シャワー浴びたら買い物に行きますけど、自称神様さんはいつお帰りになります?」
「うん?」
きょとんとされてしまった。ちょっと悲しそうにも見える。
「ほら、私、ちゃんと目が覚めましたし、心配もないでしょう? 神様だって帰る場所があるでしょうから、もうご帰宅いただくべきかな、と」
帰宅という表現が正確なのか悩むところだが、ほかに的確な言葉が咄嗟に出なかったのでよしとしよう。
「あー……それはそうか」
「どちらの神様なのか存じ上げず申し訳ないですが、あなたを私が独占していいわけではないですからね。ちゃんとお返ししないと怖いじゃないですか」
コイツを外に出したら、実家から送ってもらったお札をしっかりセットしよう。
私はベッド近くの棚の上に散らばっているものを寄せてスペースを作り、コップをねじ込むように置いた。
「なにか手順があるとかお供え物が必要だとかあるなら、連れてきてしまったのは私なのである程度は協力しますよ」
彼を見て譲歩と協力の意思があることを伝えていると、彼は無言で近づいてくる。離れようとした私はベッドに引っかかってストンと座った。近い。
「僕は君のそばに残るよ」
妖しく笑うなり私を押し倒した。強く押されたわけでもないのにあっさり倒れてしまったし、そのまま腕を拘束されてしまって私は驚いた。
「え、あの!」
「君のことが気に入ったんだ。それに、君とは縁ができてしまったからねえ、そう簡単には離れられないよ?」
せめて昨夜の記憶が戻ってくればいいのに。気に入られる要素がさっぱりわからん。
身の危険を感じて刺激しないように言葉を慎重に選ぶ。
「ええっと……気に入ったって、この身体が、ですかね?」
「それもそうだけど」
それはそうなのか。
私が苦笑すると、彼は私の首筋に顔を近づけてペロッと舐めた。
昨夜の感覚が呼び起こされたのだろう、彼の行動に驚いただけでなく身体が甘く痺れて声が漏れた。
「ちょっ……」
いい匂いだ。これは花――梅の花の香りに似ている。彼が本当にどこぞの神様なのだとしたら、その境内には梅があるのだろうと思った。
「君、自分が特殊な体質だってこと、理解していないでしょ?」
「普通の子どもとは違うんだろうなって思ってましたけど。友だちには見えないものが見えてることが多かったですし」
「だったら」
耳元で囁くのをやめて、彼は私と見つめ合った。ニコッと笑ったかと思えば、口元だけすっと笑みが消えた。怖い。
「その辺で見かけたナニカに願い事をするのは得策ではなかったねえ」
口を塞がれた。彼の唇で。
この感覚……
深い口づけに酔わされる。昨夜、間違いなく彼とこんな口づけをした。身体が熱い。
「なっ、わ、私」
少しだけ思い出した。
帰り道、性衝動を持て余していた私は妄想していた。デスマで放置していたスマホゲームの推しとイチャイチャするところを。アイドルにも推しはいるのだが、生身の男とそういうことをするところは想像することさえ気持ちが悪くて、二次元キャラならなんとか楽しめた。そのまま眠ればいくらかスッキリするかななんて思っていたわけで。
「僕は契約を交わしたつもりだから、そこはよろしく頼むよ、弓弦(ゆづる)ちゃん」
「名前……」
表札には名字のみ出してある。部屋に転がっている鞄を漁れば身分証は取り出せるだろうから調べることは容易ではあるが、彼に名前を知られているとは思わなかった。
……いや、夜も名前を呼ばれたような?
それはさておき、神様に名前を握られるのはよろしくない気がする。
私が焦ったことに気をよくしたのか、彼は言葉を続けた。
「ふふふ。可愛い名前だよね。倉梯(くらはし)弓弦。神様の加護をたっぷり得られそうで」
「自称神様というだけで、あなた、本性は悪魔じゃないですか……」
「ふふふ。そう思うかい?」
父さん、私、人生最大の厄介な拾い物をしてしまったようです。
後悔しているところで、腹の虫が盛大に叫んだ。重い空気をブチ破るめっちゃ響くいい音である。
彼は目をまんまるくしたあとに腹を抱えて笑い出した。
「あはは。元気そうでなによりだねえ。たくさん運動したからかなあ」
「意味深な言い方しないでください……」
「本当のことじゃないか。気持ちがよかったんでしょう? すごく可愛かったよ」
「わかりました。勝手に言ってください」
戦意消失で彼が退いてくれたので、私はベッドを出て風呂に向かうことにした。まずは汗を流さないと外に食べには出られない。
「身を清めるのかい? 僕も一緒に入りたいな」
「狭いので二人は無理です。すぐに出ますから、次どうぞ」
「残念。君の身体を清めるのを手伝いたかったなあ」
どこまで本気で言っているのかよくわからない。まともに取り合っていたら先に進まないので、ため息だけついて浴室に入ったのだった。
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