110-最初の記憶



 窓の外に見える光景は薄暗く、大木が立ち並ぶ森林地帯が湖を挟んだ向こう側に見える。そんな窓際に置かれた寝台の上で新しく出来上がった太腿と腹部の傷に包帯を巻いていた。


「……オレは死のうと思えば、死ねる、か」


 思い返すは灰を被ったようなあの空間。


「それが分かっただけでも良かった」


 亡者の手に委ね、あのまま行けば死ねる。そう確信した。

 しかしながら、自分の命の解像度が上がっていくと共に、兄妹達も『死ぬ』のだと分かった。


「……」


 神に与えられたと言われている異能。兄妹達も死なない体だ。やはり、そう万能なものでも無い。


 神の奇跡が使える時点で、神の手の届く範囲に収まる『異常個体』であることに変わりない。

 包帯を巻切り、上着を羽織る。

 横の机の上に置いていた角灯を消そうと手を伸ばす。


「…………神さんは何を望んでんだか」


 その時、ギィ、と扉が開く音がした。


「エレぇ……ねむれなイ」


 寝巻きに体を包んだアレッタが眠たそうに目をこすって、枕を片手にやってきた。

 一気に現実に戻されたような気がした。


「何のために寝室を分けたと思ってるんだ」


「エレと寝たいといってるんダ」


「なんでそんなエラそうなんだ」


「エレの奥さんダカラ。ふへ」


「どーいうコト」


 亜人の姿になってから遠慮のなさに拍車がかかっているようだ。母親の一件はアレッタの心の楔のようなものを取っ払ったのだろう。


 溜息をつき、寝台の空いているところを叩いた。広くない場所にアレッタは潜り込み、ぷは、と顔を覗かした。


「エレも眠れなイ?」


「……出来たばかりの傷ってのは痛むからな。横になっても目が覚めちまう」


「アラ。そーゆーことなら任せテ!」


 頬杖を着いて窓の外を見やるエレの腕をアレッタは掴み、自分のおでこに当てた。そして、


《静なる者に動きヲ

 渇きを知る者に満ちヲ

 救済を求める者に生命の躍動ヲ

 慈悲深き恩寵ヲ――》


 ぽうっと優しい光が灯り、アレッタは堪えるようにギュッと目を瞑った。


治癒ヒール


「フゥ……ドオ? マシになっタ?」


(……マシにはなった気がする。傷が治ってるのか?……気の所為程度だからなんとも言えんか)


「奇跡使いすぎだぞ」


「毎日五回祈ってるから、まだヘーキ」


 エヘ、と見上げてくるアレッタの髪の毛を乱雑に撫でた。

 少女も頬を赤らめながら手を合わせ、五指の間に指を入れ込み、自分の胸元へ引き込む。

 酷くゆっくりな心音が、汗が滲むような温かさと共に指先から伝わってくる。外界の温度と少女の温度の対比に悴んでいた指が解されていくのが分かった。


「エレの手、冷たくて気持ちイイ」


「そーかい」


 月明かりが彼女を照らした。

 青白く、神秘的な輝きを上塗りされでもなお熟した蜜柑色の瞳、林檎のような頬に口角も緩む。


「オマエは温かいな」


「ニへ」


 水面に反射する太陽の煌めきであっても、彼女ほどの輝きは見せないだろう。

 温かく、優しく、無防備な笑顔は疲れきった体に沁みるように──ガジガジ。


「……噛むのだけは止めてくれ」


「ンェ……っぱ。痕付けてタ」


 手を見てみると、左手の薬指の付け根あたりに血が滲む傷跡が見えた。

 ニヤニヤと笑うアレッタの角を引っ叩き、もう一度傷跡を見て……。


「……あ」思い出したかのように首筋を出した。「オマエだろ、ここ噛んだろ! この傷跡! 絶対!!」


「ウム。キズだらけのエレを治そうとしたのである」


「治そうとした……? 多分、オマエの母ちゃんと戦った後だろソレ。よく母親を手に掛けた奴を治そうとしたな」


「エレ。ママ倒してくれた英雄だからナ」


 八重歯を出して笑ったアレッタに思わず体をこわばらせた。その笑顔は見たことがある。


 ──殺してくれてありがとう。私の英雄。


 重なった。情景が、声が。


「…………この記憶は……オマエだったのか」


 なんで忘れたのかと思っていたら──そういうことだったんだな。

 


      ◇◇◇



 唱喝の詩人ムシクスを倒した後、調度品棚を空けたらそこには彼女がいた。


 全体的に白いその少女は、所々に金盞花色が入った髪をしていた。

 一方で小さな角は黒いが、髪と同色が差し込まれている。

 瞳は蜜柑色で獣のように細く、ぷるぷると恐怖に震えている口から見える八重歯は吸血鬼ほどではないが、人のそれよりも鋭い。


 ひと目で、唱喝の詩人ムシクスの娘。亜人だと分かった。

  

 だけど、すぐに殺さなかったのは彼女が傷を治そうとしてくれたからだ。

 

「アナタのキズ、どうやったらなおせますカ」


 そして、首筋を噛まれた。

 どうやら触れられたり、体液を注ぎ込まれると傷が治るらしい。

 唄を用いる魔族で、あの魔族は壊した空間を元に戻す程の力を持っていた。その子どもであるならば、何らかの術を受け継いでいてもおかしくはない。


 ちゅぱ、すぅ──と、首筋に唾液の橋が架かる。


 だが、傷は治らなかった。すると少女は困った。まぁ、当然だ。

 只人に治せない傷を亜人が治せるわけもない、と。


(時間の無駄だったな──)と武器に手を伸ばす手がピクと痙攣した。


 渦巻く、光のない瞳。オレは昔の自分の姿をそこに見た。

 上から何か言われて、それしかしてこなかった子の顔だ。

 勇者に選ばれなかった後、鏡に映る自分と同じ顔だ……。


「……俺はさ、他の人よりも治りにくいんだ。頑丈だからさ」


「どうやったら、なおル? ワタシ、おこってなイ。ありがとうっておもってル。だかラ……」


「大丈夫さ。戦うのがオレの仕事だからさ。傷は勲章みたいなもんさ」


「クンショウ……?」


「戦いを頑張ってきた証拠って感じかな。今までも、これからも、まだ頑張らないといけない」


「タタカイ、ガンバル?」


「うん。キミのお母さんみたいな人をいっぱい倒さないといけないんだ」


 無限の闘争がこれからも続く。頑張って作っていた笑みが消えた。

 そう。もう、少女に構ってるわけにはいかない。

 モスカ達と共に、この沼沢を抜け出し、次の標的を殺しにいかなければならないのだ。


「じゃあ――」


 もう、いいだろう。

 この子を楽にしてやろう。死ねば、楽になれるんだから。

 背中の後ろで握った短剣を振り抜こうとして、


「えいゆう、みたイ……」


 腕が止まった。


「ゆめ、みてるみたイ。たすけてもらえるなんテ……おもってなかったシ……」


 いままで光のなかった瞳に、光が宿る瞬間を見た。

 

「むかし、ホン、よんダ。えいゆう、かいてタ。アナタ……ソ、レさん? はえいゆうなノ?」


 照れてうつむき、もじもじと両手の人差し指を合わせて問う。


「オレが……えいゆう?」


「ウン!!」


 顔がひきつる。


「いっぱい、たおス。かっこイイ! クンショウ、モ、イイかんじダ!」


 なぜ、殺さない? 

 手は動く。頭も動いてる。何か術にかけられたわけじゃない。

 ダメだ。殺さないと。

 この子が大人になったら、人を殺す。


「えいゆうダ! たすけてくれタ! だれも、ママ、たおせなかっタ。ずっと、つらかっタ……」


 誰かを殺す前に、殺した方がいい。


「ダカラ──」


 少女に抱きつかれ、咄嗟にその後ろ首に切っ先を向ける。


「アリガト! ワタシのえいゆうサン!」


 がば、と顔を上げた少女と瞳が合う。


「ッ?」


 その目には星が宿っていた。反射して映る自分の瞳は、澱み、暗く、地の底のような色をしている。


「アリガト!」


 少女の目には、後ろを浮遊するマナも埃も紙吹雪に見えるのだろう。

 散らばっている瓦礫も銀色の鎧も、どこからか聞こえてくる狼の鳴き声も、全てが目の前のエレという「えいゆう」を称賛しているように見えるのだろう。


「……」


 殺さないといけない。

 このままこの子を放っておいたら不幸になる人が出てきて──

 それで、なのに。だというのに──……。


「……ははっ」


 なんで、手が動かないんだ。

 なんで、こんなに心が軽くなってしまったんだ。


「……? どうしたノ?」


 少女に問いかけられ、ふるふると首を横に振った。


「……オレさ、英雄に見える?」


「ウン!!」


「そっか。……そりゃあ、いいや」


 少女に向けていた短剣を下ろし、少女を抱き抱えたまま地面に背中をつけて笑った。


「今まで生きてきた中で、一番の褒め言葉だ」


 敵にこんなに晴れやかな気分にされるとは思っても見なかった。

 心の底から笑みが込み上げてくる。


「ウレシイ?」


「うん」


「エイユウ!」


「ありがとう」


「たすけてくれタ」


「そうだね」


「ママつよかっタ?」


「油断してくれたから勝てたねぇアレは」


「ソレ、つよイ」


「エレね」


「なんでそんなにつよイ?」


「頑張ったからねー……、才能がない割に」


 頭を撫で、少女の黒いツノに触れた。


 とても鋭利で、人間のモノではない。職人が作った工芸品でこういうのを見たことがある。石を割って、薄い状態にした。あれは黒曜石だったか。神秘的な黒色の薄布に見えて、美しかったのを覚えている。


 それに似ている。

 薄布のようで、固く、緩やかな螺旋を描いて伸びている。


「アノ……」


「ん?」


「くすぐったイ……」


 照れ顔に、完全に集中が切れた音がした気がした。


「ぷっ──」


 瞳が目の前の明かりを捉えようと大きく見開く。

 上がった口角が目を細めるまでのほんの僅かの間。それでも、確かにその明かりを見た。

 

「ははははっ!」


 疲れと、感情と、情けなさと。

 それらが込み上げ、顎を引いて笑った。


「ホント、キミは……」


「?」


 殺意なんてどこかに行ってしまった。取り戻そうとしても、今更武器を握ることもできない。

 武器を握ろうとしていた手をそのまま少女の頭の上に置いた。


「人に己を忘れさせるのが上手だ」



 

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