第十六章 命は尊い
「佳芬、先週のあの魔神仔……」
「覚えてないって言いましたよね!もう五十回以上言いましたよ!」
「じゃあ紅い服の少女は見た?」
「見てません!見たくもないです!もう聞かないでくださいよ!」
「佳芬行かないで──」
私は振り返ることもなく休憩室を離れた。同様に、防災訓練から戻ってきて以降、先輩、医師、搬送スタッフ、果ては常駐の清掃スタッフまで全員が、小魚の言う『優しい魔神仔』の容貌に興味津々だった。
優しい魔神仔なんていないのに!あの日私を送り返したのは、デブオタク高校生道士と妻子のいる冥官だけなんだよ!
そのとき、無線から途切れ途切れに声が聞こえてきた。「──六十八歳女性、農薬を飲んで自殺、古総合病院へ搬送」
「あああ、面倒がやって来るわよ」経験豊富な専門看護師の小魚に、医師の指示を待たず、すでにそのおばあさんのために集中治療室のベッドを探していた。「素晴らしい、ベッドがないわ。しばらくは緊急救命室にいてもらうことになるわね」
無線を聞いて事務室からふらっと出てきた緊急救命室の主任が言った。「農薬を飲んで自殺を図ったというのは聞いたか?まずは生理食塩水を準備して口をすすぐんだ。ほかのことに関しては、患者が来てから私が薬を処方する──だがおそらく助からないだろうな」
「何をどれだけ飲んだかによるんじゃないですかね……」研修医でさえ、そのおばあさんに対し一縷の望みも抱いていなかった。
農薬自殺──とりわけパラコートは、いまだに処置のしようがない。一口で十分命取りになり、死へ至る過程はひどく緩慢で苦しい……大量に飲んでその場で直接死ぬほうが、ひょっとしたら幸せかもしれない。
救急車がサイレンを鳴らしながら救急外来の出入口に到着し、救急隊員が素早く患者を救急車から降ろしたものの、私たちが会いたい人物は見当たらなかった。
「ご家族は?」救急隊員が口を開くのを待たずして、ウチのボスがまず尋ねた。このときに家族はすごく重要なんだ!この手のいずれは死んでしまう患者には、家族と相談して決めなきゃならないことがたくさんある。応急処置を放棄するかどうか。腎不全になったときに人工透析をするかどうか。薬による治療を試すかどうか。死亡診断書は何部必要か。院内で死亡宣告をするかそれとも自宅で死を迎えるために帰宅するか、といったことを含めているのだ――
突然、人影が音も気配もなく救急隊員とボスの間に割り込んだ。彼ら二人はまったく人影に邪魔されることなく、引き続き患者の状況を引き継いでいた。
『ご家族』がついて来たああぁぁ……私は内心で悲鳴をあげた。患者とほぼ同じ年齢の男性は、うつむき瞼を閉じながら耳を傾けていた。
「六十八歳女性、農薬を飲んで自殺を図り、現在意識はハッキリしています。そばにビンがあり、パラコートでした。娘が帰宅後に倒れている両親を発見し、すぐに通報しています――」
「では旦那さんは?どこへ搬送されたんですか?」
「一足先に逝ってしまいました。患者が娘に述べたところによると、旦那は先月ステージ四の肺がんと診断され、夫妻はそのためかなり落ち込んでいたそうです。ですが同居していた娘は両親がいつ農薬を準備したのかまったくわからず、今朝朝食を食べているときも何ら異常はなかったとのことです」
おじいさん、何の恨みもないように見えるのに、どうして奥さんのそばから離れようとしないの?もちろん、おじいさんに私の心の声は聞こえないし、私も見えていることを知られたくはない。
「いつ飲んだんですか?」
「昼の十二時です」私はパソコンの上の時計をチラッと見た。今はもう午後五時だ。
今日は往生する人が多いのかな?もう五時間経っているのに、白黒無常もまだこのおじいさんを迎えに来ない。でもおじいさんがこのままここにいたら、私たちに危険が及ぶと思うんだよね。
「五時間ですか……ではここからは私たちが引き継ぎます。佳芬、採血をしてくれ。採血するのは……」ボスは一つ一つ検査したい項目を挙げていった。私はナースカートから必要な試験管を選び出しスタンバイした。看護師たちはいつものように、患者の周りを取り囲んで作業に当たった……
「娘は?」
「父親の手続きをしに行っています」
ボスは私たちの方をチラッと見た。患者は世の中に何の執着もないかのように、虚ろな目つきで天井を眺めていた。「今なお意識がハッキリしているから、多くは飲んでいないはずだ。まずは使える薬から使っていく。検査の結果が出る頃には娘も来るだろう」
「本当に多くは飲んでいないようです。夫はビンの四分の三を飲んだ、と患者が言ってました。四分の一も飲んでいませんよ」
「つまり自分の旦那が硬くなっていくところを見ていたのか?」患者に配慮して、ボスはこの言葉は特に小さな声で言った。
救急隊員も声を抑えた。「少なくとも我々が行ったときには、旦那はすでに硬直していました。二人抱き合った状態で」
ボスは長いため息をついた。「くそっ……」
私の方こそ『くそっ』だ!死んだばかりの魂のそばで、その死について話さないでくれないかな?採血しながら凶悪化した怨霊の対処なんかしたくないよ。重要なのは、私じゃ対処できないということだ!意外にもその亡霊は取り乱すこともなく、うつむいて目を閉じた姿勢を維持していた。
その亡霊の奇怪なオーラは、すでに往生室に常駐している双子の冥官の注意を引きつけていた。私が振り向いたときにはもう、その美しい一卵性姉妹がそう離れていない場所に立ち、いつでも対応できる準備をして待ち構えていた。私は与薬カートを押しながら、その二人の方へ近づいていった。
「簡さん」いつものように、二人はまず礼儀正しく挨拶をした。
私は声をひそめて聞いた。「白黒無常は?」
「連絡したんですが、忙しいみたいで」
忙しい?あの二人にも、新たに死んだ幽鬼を引率する以外の業務があるんだろうか?私はおじいさんの亡霊をチラッと見て、応援を呼ぶことを即断した。「晋雅棠を呼ぶよ。あんたたち知ってる?道案内センターの──」
「雅棠先輩と道案内人は向かってきています」民祐青が言った。「私たちは二人とも『中華民国』です。能力は低いほうですし、怨霊を処理した経験も多くはありません。簡さんは私たちの気持ちなんか気にせず、ハッキリ言って構いませんよ」
実は、民祐青の気持ちは気にかけている。私はこの間の、自分の能力不足で民祐寧の足を引っ張っていると思い込んだ祐青のカウンセリングを忘れていないんだ。民祐青が自分の弱さに堂々と向き合えるようになったからには、民祐寧と一緒に処刑人の試験を受けるために努力しているということかもしれないでしょ?
部屋の反対側では、専門看護師の小魚が経鼻胃管と活性炭をおばあさんのそばに持ってきて、優しい声で説明した。「おばあさん、活性炭を流し込むから、経鼻胃管を入れますよ。あとで私の指示に合わせて唾を飲み込んでくださいね?」突然、おじいさんの亡霊が動いた。用具が載っていたカートを両手で力いっぱい押すと、大きな音を立てて地面にひっくり返った。この場面を見て、民祐青と民祐寧はそれぞれ腰に吊るしていた長剣と縛霊縄をつかんだ──
「ちょっと待って」
「簡さん!今処理しなかったら、凶悪化しますよ!」民祐寧は亡霊を睨みつつ、剣の柄を押さえる手はかすかに震えていた。
かすれた声が緊急救命室に響き渡った。「……妻を死なせてやってくれ」
その亡霊は言葉を話した。
「お願いだ、妻を救わないでくれ……死んで楽にさせてやってくれ……」
「これ以上妻を苦しめないでやってくれ……」
「儂が間違っていた……妻を苦しめていたのは儂だ……」
「一緒に行こうと約束したのに……」
「残してしまってすまなかった……」
その亡霊は地面に跪いて懇願した。どんなに泣いて悲しもうと、霊視能力のない小魚がその訴えを聞くことは不可能だ。小魚が体をかがめて伸ばした手は、亡霊をすり抜けた。鉄製のカートを引っ張り起こすと、いぶかしがりながら独り言を言った。「ぶつかったのかしら?」
小魚が地面に落ちた備品を拾ったときもおじいさんの亡霊は阻止しようとしたけど、半透明の手は無駄に振り回されて小魚の腕をすり抜けた。
「力が尽きそうだ」祐青はこの悲しい一幕を見て言った。「さまよえる亡霊の力は元々あまりないですから、先程の鉄のカートをひっくり返したあの行動ですべての能力を使い果たしたはずです」
そのとき、焦点の合わなかったおばあさんの目が明瞭さを取り戻し、経鼻胃管を持って近づいてきた小魚を潤んだ目で見た。「経鼻胃管を入れなくてもいいですか?」
「おばあさん、ですが──」
「死なせてください」
小魚は深く息を吸うと、ゆっくりと手にしていたチューブを置いた。「医師と話し合ってみます」話し合いの結果、医師は私に患者の治療拒否に関する詳細を記録するよう求めた。後の法律のいざこざを避けるため、娘が来てから話すことになった。
「延命治療拒否の同意書は?」
ボスはナースステーションのパソコンの前に座り、リュックから水筒を取り出して静かに水を飲むおばあさんを見ていた。「サインする前に娘に伝えないとな。患者が飲んだ量は多くないから、娘の到着までは絶対に大丈夫だ」
今のところ私たちがおばあさんにできることは何もないからみんなそれぞれ別のことをしていたけど、民祐青と民祐寧は依然としてナースステーションの隅に立っておじいさんの亡霊を監視していた。おじいさんの亡霊はまるでまだ生きているかのように、連れ合いの額を撫でていた。
一、二時間後、民祐青が口ごもりながら私の前に来て報告した。
「簡さん……あのおばあさん、何かちょっと変です」
「何が変なの?」私は振り返って見た。見なきゃよかったものの、見た瞬間に背筋がゾッとした。
おばあさんは連れ合いに向かって微笑んでいた。
見えるの?なんで?死にゆく人だけが幽鬼を見れるんじゃないの?少量の農薬を飲んで死ぬ過程はすごくゆっくりで一日単位だから、一、二時間で変化が現れるなんてありえない──
それからおばあさんは不透明な水筒を手に取ると、おじいさんが見守る中、口の中に一気に流し込んでゴクゴクと飲み干した。
私はナースステーションを斜めに突っ切って、おばあさんのベッドに駆け寄った。その水筒を取り上げると、化学薬品の嫌な刺激臭が鼻にツンときた──
「先生!水筒の中身は農薬です!」
「なんだって!?」
「ボス、患者は気を失って、心拍と血圧が低下しています──」
「先生!このベッドの患者は応急処置をするんですかそれともしないんですか?」
「先生──」
「看護主任、急いで娘さんに連絡を!」いろんなことが一瞬にして起きた。ボスの指示を受けて、私はすぐに患者の娘に電話をかけた。電話が繋がると、聞こえてきたのは疲れきった女性の声だった。
「もしもし」
「もしもし、こちらは古総合病院の者です。お伺いしますが、
「バイタルサインは?」いきなり専門用語を耳にして、私もやむを得ずパネルの数字を告げた。「心拍四十五……」
「DNR(蘇生処置拒否指示)を聞きたいのですよね?すべて拒否します。のちほどそちらに行ってサインしますので。すでにタクシーに乗っています。院内での死亡宣告で構いません」
「はい、わかりました」私が応急処置の準備をしていた同僚に向けて激しく首を振ると、知らせを受け取った同僚たちは次々にベッドのそばを離れた。心電図も私たちの目の前で一直線になった。全員余計なおしゃべりをすることなく、珍しく静かに患者のチューブを片付けた。
備品を片付けている同僚の後ろで、おばあさんとおじいさんが抱き合っているのが見えた。それから私に九十度のお辞儀をすると、自発的に緊急救命室で長いこと警戒にあたっていた双子の冥官のもとへ向かった。民祐青と民祐寧は多くを語らず速やかに二人の手に縛霊縄を結ぶと、点滅する明かりの下去っていった。一方で待機していた雅棠と道案内人も全員撤収した。
今日の緊急救命室は異常なほど静かだ。
三十分後、患者の娘が来て私の目の前で残りの書類に署名した。彼女はとても落ち着いていて、まるで機械みたいに目の前に差し出されたすべての書類に署名していたけど、胸の職員証を見たら別の病院の看護師だった。道理でプロセスにもあんなに詳しいわけだ。彼女が母親の遺品を確認しているとき、あの水筒を手に取っているのが見えたので私は注意して言った。「その水筒……中に農薬が入れてあったんです──」二度と使わないほうがいいだろう。
「病院に持ってきて飲んだんですか?」患者の娘は平然と言った。「本当に、遺書に書いてあった通りです。『一緒にあの世に行く』、『一緒にいれば、地獄も天国になる』だなんて……」
いや、地獄は地獄でしかない。処刑人は確実に相応の刑罰と苦痛を受けさせるんだ。冥府と長く付き合ってきた私が、一番よくわかっている。
彼女は間を置いて、再び言葉を発したときにはもう涙声だった。
「……自分勝手な二人ですね」
私はただ彼女を抱きしめ、優しく背中を叩いて慰めることしかできなかった。
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