#26 無

 遠目に的を眺めている。時間の経過と共に、飛んでいく矢が徐々に的の中心の赤い点に近づいている。


「ナイスー」


 今日私服を着ている先輩はポニーテールを結んでいない。先輩は拍手しながら陳晞のほうに歩いてきて、そして冷たいボトル水を投げた。プラスチックボトルは空中で曲線を描いて、陳晞はそれに少し驚いたが、それでもうまくキャッチできた。


「ありがとうございます」


「今日のあなたはなんか心ここにあらずな状態だから、帰って休めろとか言うつもりだったね」


 普段は試合の準備をする人しか土曜午前の自主練に出ないが、入学して以来、陳晞はほとんど自主練を欠席したことがない。


 最初は先輩たちに迷惑かけるのではないかと心配したが、幸い彼女たちはとっくに休憩室をもう一つの家として居着いて、後輩が来てくれると、そこにいる彼女たちも喜ぶ。


 弓道は弓術よりも『心』を重んじる。つまり、心を平静に保つことは弓道にとっては非常に重要なことである。


 正式な弓道に比べると、彼女たちの学校の部活は娯楽の面が強い。でないと弓道は前準備だけでも一年以上学ばないといけないから、落ち着かない一般的な高校生が続けられる訳がない。


 練習の時間が伸びるに連れ、陳晞は将来もこの技術を学び続けようとすら思うようになった。正直に言うと、陳晞は弓道に結構興味を持っている。もちろん林又夏にべた褒めされる弓道着も理由の一つである。


 陳晞は首を振った。「ごめん」


 弓道は心の鏡である。とある尊敬に値する先生がそう言ったらしい。陳晞は心の奥底から、自分のような半端ものはその言葉に相応しくないと思う。


『何せ私の心はこんなにも汚れている』陳晞はそう思っている。


「大丈夫よ」


 弓道着を脱ぎ、用具のて手入れを終わらせると、陳晞は部長と副部長にさよならを言った。女の子との付き合いは苦手だが、この二人の先輩と一緒にいる時は結構心地よいである。


 その理由は彼女たち二人しかいない時、十数人の女の子が群れる時のように騒がしくならないかもしれない。ここまで考えると、やはり自分は女性との付き合いに慣れていないと陳晞は思った。


 確かに落ち着かない。でもなんで林又夏は何でもないように振り舞えるの?これに対して陳晞は少し不満を感じた。


 風呂上りで大きいTシャツを着ている林又夏を見るだけでも、変な気分になる。なのに林又夏は前のように自分の布団に潜り込んだ。


 これは絶対にキスしたばっかりの人がすることではない。だが林又夏はそうした。


 いや、百歩譲っても、キスはしなくても、林又夏のその言葉は告白同然のものだった。


 私に彼女に興味を持たせるなんて、もしかして彼女は私が好きなのか?いや、ありえない。なんと言っても、林又夏に釣りあうのは、背が高くて優雅なイケメンだけだ。彼女も明らかにそういうタイプの男の子が好きだろう。


 しかし、もし好きではないなら、そんなことはしないよね。ここまで考えて、そして林又夏のその顔を見ると、陳晞は少しも落ち着けなくなった。今朝青いシャツを着ている林又夏に対しても、陳晞は平常心で林又夏を見ることができなかった。


 林又夏の名前を思うだけで、唇の感触を思い出す。たった数秒間だけでも、あるいはそれがキスとすら呼べないが、陳晞は切実に感じていた。


 女の子の唇ってこんな感じだったの?陳晞の心にさらに幾つかの疑問が湧いた。でもそれらは直接林又夏に聞けるようなことではない。


 横断歩道の前に立って、陳晞は思わず指で自分の唇を撫でた。自分がなにをしているのに気付いた時、周りに誰もいなくても、陳晞の頬は思わず赤くなった。


 これだからムカつく。そっちからあんなことをしたのに、何ともないような感じをしている。これではまるで自分だけが気にしているのではないか?


 始業式の後、学校の授業が軌道に乗ったばかりなので、バイトの時間は激減した。陳晞は少し気に病んでいるため、店長の再三の断りがあっても、彼女は自主練の後でかき氷屋に手伝いに行くことを続けている。普段のこんな日なら林又夏も鯛焼き屋でバイトをしていて、そしていつもかき氷屋に飲み物を飲みにくる。


 今日は多分もう来ないだろう。何せ今朝、林又夏は許浩瑜と一緒に出かけた。彼女たちの目的地を聞きたいが、結局陳晞は我慢して口を開かなかった。二人が仲良くなれるのなら何よりのことだ。陳晞は過剰に干渉したくはない。


「え?」


 足を止めて、目の前の光景を見て、陳晞は思わず困惑の声を上げた。かき氷屋があった場所には、今は何もない空き地になっている。


 陳晞は一歩下がって、まずは道標を確認して、それから回りを見渡した。それが確かに陳晞の見慣れた光景だが、目の前にかき氷屋があるべき場所には、なんの建築物もない。


 取り壊した?これはありえない。空き地に全く痕跡がない。それに昨日店長もちゃんと夏祭りで屋台を出していた。昨日の今日で取り壊すはずがないだろう。


 その場でボーっとなって、かなり時間が経ってから、ショックを受け過ぎた陳晞は携帯というものの存在を思い出した。


 ポケットを暫く探って、ようやく震える手でその薄い長方形の物体を取り出した。しかし、連絡先情報でもコミュニケーションアプリでも、陳晞は店長の名前を見つけられなかった。かき氷屋の電話番号すら消えてなくなって、地図アプリで検索してもその店はなかった。


 一つ深呼吸をして、陳晞は自分を落ち着かせようとしたが、数秒後にそれができないとわかった。携帯の中の情報をすべて漁っても、店長の名前おろか、林又夏と許浩瑜も消えている。


 風は依然として吹いていて、鳥の鳴き声は絶えなかった。真昼の太陽が背の高い少女に当てて、その眉のひそめた顔と強い対比を成した。


 今朝もメッセージを送っていて、設定も変えていないし、こんなことが起こるはずがない。頭の中を漁りまくって、やっとその数字の羅列を思い出した陳晞は手動で林又夏の携帯番号を入力した。携帯を強く握っている右手の震えが止まらず、肩に背負っている弓袋は今にも落ちそうだ。


 トゥルルルの音が急に止まって、一つ安心したと思ったら、それに続いたのは冷たい女の声でもなく、留守電サービスでもなく、ただ静寂であった。


 その瞬間、陳晞の背後に冷や汗が滲んだ。


 前回こんな恐怖心を感じたのは、あの日一人で店番する時だった。今は魔力の匂いを感じないし、あの不気味な客も見えないが、あの日に感じたものと同じだ。


 目の前の空き地が眩しく見えて、力が抜けた陳晞は膝を突いた。この時に真っすぐに地面に落ちて、衝突音を出した弓袋も気にしなかった。


 頭がまるでフリーズしたようで、陳晞は他の方法が見当たらない。警察に通報しても、何を言えばいいのだ?バイトの場所か消えた、こう言うのか?いや、それじゃ誰も信じてくれない。


 陳晞は両目を閉じて、何とか騒々しい思考の中で情報を整理しようとした。多分これが陳晞の思う自分の唯一の長所だ。


 林又夏と店長に家族がないゆえ、残った関係者は許浩瑜の両親だけだ――だが彼らがこの町に戻ってきてからはどこに住んでいるのか、陳晞に心当たりはまったくない。ましてや連絡手段なんて。


 膝を押さえて、頭をフル回転させた陳晞は、足に力を入れて自分を立たせようとしたが、次の瞬間に元の場所に戻された。


 一瞬でお腹の気持ち悪い感覚が再来した。久しく感じていない感覚だが、陳晞にはそれを良く知っている。


 閉じた両目から数滴の涙が出て、それに感情が含んでいることを陳晞は否定できなかった。右手で多分胃の位置の箇所を押さえて、陳晞は立ち上がろうとしたが、どうしてもできなかった。痛みで陳晞は絶えずに吐き気がして、その意識が遠ざかろうとしている。


 意識が朦朧としている間に、林又夏の声が耳に入ってきた。陳晞は力を振り絞って目を開いて、その綺麗な顔が陳晞の目に映った。背景は蛍光灯がついているかき氷屋だった。この時の陳晞は頬に流れる涙が喜びのあまりに流れた涙だと認めるしかなかった。


 そばにあった弓袋は消え、陳晞が手に持っていた携帯もどこかに消えた。


 あの人は心配そうな口調でなだめる言葉を話している。自分を懐に抱いた両腕は暖かくて、鼻には彼女と似た香りが満ちていて、少し鉄の匂いもする。


「あなたがいなくなったと思った」震えてその言葉を言って、陳晞は自分が単語一つまともに言えないような気がした。


 小さい手で陳晞の背中を軽く叩いて、「大丈夫だ、大丈夫」と林又夏は言った。


 いくら記憶の欠片がどんなに完全でも、あんな切羽詰まった状況で大規模な能力を発動させたのは、林又夏にとって大きな負担だった。


 林又夏はほとんど息を切らしたままかき氷屋に向かって走っていた。陳晞に会ったその瞬間で、すべてのことが重要じゃなくなった。体の疲弊も瞬時に霧散した。


 涙まみれの陳晞の顔を持ち上げ、林又夏はただ自責と心の痛みを感じた。陳晞が『時間』の影響を受けないとわかっていても、その瞬間に能力を発動させた。こんなにも無謀な自分が馬鹿みたいだ。


「どこか怪我とかしてない?」


 真っ青な顔の陳晞は首を振って、手を伸ばして林又夏にその顔についた血を拭いた。陳晞は歯を食いしばって何とか「何があった?」という言葉を出した。


 手を上げて自分の顔を拭いて、林又夏は陳晞を真似して首を振った。


 許浩瑜が足元に気絶した時に初めて、林又夏はその古い家屋の隅っこが鮮やかな赤色に染めたと気付いた。鯛焼き屋の店長が現ると同時に、血なまぐさいと腐敗の匂い飛んできた。


 その恐ろしい魔力に直面して、いくら林又夏でも手も足も出なかった。林又夏は自分にできるのは逃げることしかできないってよくわかっていた。


 この時、腕時計の時間表示は午前七時ぐらいだ。林又夏は能力で約五時間ぐらい遡った。この時に許浩瑜はまだ家にいるはずだから、これが一番安全の方法に違いない。


 あの人はヘズの子孫なわけがない。生まれ変わりなんて尚更だ――許浩瑜の同意がなくても、林又夏の直感は彼女自身にそう告げている。無意識が自分に早く能力を発動させろと言っているのと同じような仕組みだ。


 名だたる闇の神がそんなことをするはずがない。林又夏はあの男がヘズと自称することを認めない。そして、彼が言っていた、いわゆる『エターナルを作る』なんて馬鹿げた話を認めるわけにはいかない。


 この世界にはエターナルなんていない。林又夏であっても、時間を同じ一秒にずっと止められるわけではない。


「大丈夫だ。家に帰ろう」林又夏は陳晞をさらに抱きしめて「家に帰りたくなった」と言った。


 本当にそんな能力があったらいいなと、林又夏はそう思っている。今の彼女はただ陳晞のそばにいたいだけだ。

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