第2話 彼女の正体を知っちゃった

 はっと気がつく。俺は自宅アパートにいて、キッチンを背もたれに床に座り込んでいた。なぜか背中や脇は汗で微妙に湿っているし、後頭部が痛む。


「……寝てたのか?」


 一応外出用の上着は着ていて、ポケットを探るとスマホが入っていた。なぜかガラスフィルムは割れているし、ケースは擦り傷だらけ。


 落としてなんかないはずなのに。記憶にないことに首を傾げながら時刻を確認すると、午前二時。


 もしかして散歩に出ようとして、ここで寝こけてしまったのか? しかし、思い出したくても頭の中に霞がかったようになっている。


 一体何がどうなっている?


「やっぱり寝かせるならベッドの方がいいよね……もう一回術を……」


 ハッとした。奥の居室から鈴が転がるような声と、何かを踏み分けるような音が確かに聞こえた。


 背中をじっと冷たいものが這う。


 ここは間違いなく、俺が一人暮らしをしている部屋のはず。


――女の子の声がするわけがない!


 意を決して立ち上がって一歩を踏み出すと、そっと引き戸を開けた。


「っっっ!?!?」


 そこには見覚えのある人形が――! あまりの恐怖に総毛だった。なぜかあっちも俺を見て、紅い目を皿のように開いている。


「ええっ、もう起きられるんですか!? あれっ!? どうして」


「なに言ってんだ!? ってか」


 その先は喉の奥で引っかかった。「君は何者なんだ」と聞くだけなのに、頭の中でそれを押さえつけるように警報装置がけたたましく鳴っている。


 命の危機が忍び寄っていると直感し、必死で記憶をたどる。この子とはさっき出会って、それから。


 何気なく首を触る。小さな穴が空いていることに気がついた途端、記憶にかかっていた霞がざあっと晴れた。


 今度こそ。そう本能が叫んでいる。俺は、彼女からできるだけ距離を取るため、背中を見せないように後ずさるように玄関の方へ移動した。


 なぜかそれを見てあわあわと慌てる。そりゃそうか、せっかく捕まえた獲物が逃げようとしているのだから。


 でも俺は、彼女を作る前に死にたくないっ!!


 対吸血鬼の武器になるようなものなんて当然何もないので、選択肢は『にげる』一択である。後ろ向きのままでもなんとかサンダルを履くことに成功した。


 そのまま玄関ドアを後ろ手で開けようとしたが、ご丁寧にチェーンがかかっている!!


「くそ、抜かりがないな!!」


「に、逃げないでくださいっ!!」


「来るなあっ!!」


「あのっ」


 焦った俺にじりじりと寄ってくる吸血鬼。不自然なほどに澄んだ紅い目がギラギラと光っている。万事休すかと思った瞬間だった。


「そっ、その、助けてくださってありがとうございますっ!!」


「おおッ!?」


 台所の床の上でうやうやしく三つ指をつく吸血鬼。


 色々と起こってることがデカすぎて、どう噛んでも飲み込みきれない俺。


 一メートルの距離で見つめ合う。いやまあ俺は完全にヘビに睨まれたカエルだ。さっき襲われた時のことを思えば、どう考えてもあっちの方が強いし。


「あの、断りなく噛んでしまってすみません……あの時隣に座ってくださらなかったらあそこで朝を迎えてしまっていたかも……お陰様で陽の光を浴びずに済みました」


 吸血鬼はいったん頭を上げたが、俺と目が合うとふたたび頭を床に擦り付ける。


「まあ、とりあえず話聞くから座れよ。なんか飲むか?」


 と、聞いておきながら、ここには吸血鬼が飲めそうなものなんて俺の血以外にないことに気がついた。首を切って血を噴き出させている自分を想像し発言を後悔していると、彼女は表情を晴れさせた。


「えっ、あの。じゃあ……」






 リリス・ノクターンと名乗った彼女は、俺の向かいにちまっと座り、レンジでチンしただけの牛乳をおいしそうに啜っている。俺はその様子を固唾を飲んで見ていた。


「一樹さんって言うんですね……あ、えっと、榎本さんとお呼びした方が良いですかね?」


「別にどっちでもいい」


 目の前に本物の吸血鬼がいる状況では、大体のことが瑣末すぎる問題となる。


 魚編の漢字が書かれた湯呑み(ばあちゃんに持たされたものだ)は人形のように美しい彼女にはあまりにもミスマッチだった。男の一人暮らしにわざわざ客用のカップなんて用意してないから、俺が普段使ってるやつで申し訳ない。


 ところでなんで牛乳なんだろう? ああ、牛乳ってつまるところ血液でできてるからだな。


 ひとり問答して納得したところで、リリスはニコニコと微笑みかけてくる。


「はあ、おいしい。温度もちょうどいいです。温めるの上手です」


「ああいや、適当だぞ」


 レンジでチンしただけで褒められるなんて子供の時以来だ。ましては相手は見た目だけならめちゃくちゃ可愛い女の子。


 不覚にも胸の奥がむずむずしてきたので目を逸らしながら、俺は飲みかけのオレンジジュースのペットボトルに口をつけた。


 リリスは、暗がりで見た時と全く印象が違った。


 俺の部屋にいること自体がおかしいと感じるほど度を越した美人なのには変わりないが、女吸血鬼と聞いて想像する妖しさとはあまりにも遠くかけ離れている。


 俺を見てパチパチと目を瞬かせている様子は……なんというかどこか普通の……いや、ちょっと抜けてる女の子のようにしか見えない。


 この世界に吸血鬼がいて、夜な夜な血を吸って歩いている、という噂は今までちょくちょく聞いたことがあるが、学校の怪談みたいなものだと思って俺は鵜呑みにはしていなかった。


――けれど、世界のあちこちに本当にいるんだそうだ。


 リリスは、遠い遠い西の国からこの島国に流れ着いてきた一族だという。人ならざる存在に比較的寛容で、保護してくれる団体も存在するこの国は吸血鬼にとっても暮らしやすいんだとか。


 彼女はあのツタに覆われた洋館で、家族や仲間たちとひっそり暮らしているらしい。

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