第11話 一番大切なのは捕まえることじゃねェ。生き延びることだ。
2階の高さから地面に飛び降りた賊は、何事もなかったようにその場を走り去った。
今から下に降りたとしても到底追跡には間に合わない。天晴れなほどの逃げ足だった。
この場での逮捕を諦めたジェニーは、ベランダから室内に戻った。
「どうした、嬢ちゃん? 何かあったか?」
「ごめん、清ちゃん。事務所に上がって来て」
「ん? 何かあったんだな? わかった。今行く」
玄関前に置き去りにした荷物を拾い上げ、事務所に持ち込みながらジェニーは清十郎に電話を掛けた。
詳しく問いただすこともなく、一言で動いてくれる清十郎が頼もしい。
(あと20若ければ押し倒すのに)
独身者の清十郎には息子などいない。
(どこかで遺伝子残しておけばいいのに……)
10代の清十郎を想像して、思わず口中に唾液が湧く。
(いかん! 異常事態に直面してメンタルが暴走してる?)
ジェニーはシンクの蛇口からグラスに水を汲んで、ごくごくと飲み干した。喉がからからに乾いており、いくらでも水が飲める気がした。
手の甲で顎に伝わる水滴を拭い、その手をスーツのスカートに擦り付けたところで玄関に人の気配がした。
「清ちゃん?」
「おう、おいらだ! どうした、嬢ちゃん?」
脱いだ背広を左手に下げた清十郎が玄関から入って来た。
(あれはだらけて脱いだわけじゃない。「武器」だ)
敵がいれば、頭から上着を被せて視界を奪う。数秒混乱する間に相手を無力化する技を、清十郎は持っていた。清十郎はその技を、「手」と呼んでいた。
「空き巣が入ったの」
ジェニーは端的に告げた。
「いたのか?」
「いた」
「逃げたんだな?」
「ベランダから」
清十郎は頭の先からつま先までジェニーを舐めるように見た。
「怪我はねェようだな」
「うん」
安心した清十郎はジェニーを従えて、ゆっくりと奥に進む。
「荒らされちゃァいねェようだな」
そうなのだ。事務所には乱れたところがない。片付けているのは清十郎である。
物の配置が少しでも変われば、気づく。
弱小片桐会計事務所には金目のものなど無い。ノートPCとデスクトップくらいが値の張る設備であったが、わずか2人のオフィスである。そんなものを狙うのは割が悪すぎる。
狙われるとすれば「情報」なのであるが、それはここにはないのであった。
自分たちで使った経費を示す領収書、請求書の類を除いては書類というものがほとんど存在しない。清十郎ができる限りの電子化を進めたのだ。
それが証拠に、「スキャナ」はあっても「コピー機」はない。
書類の類は電子ファイルとして、すべてクラウドサーバーに保管されている。PCは「仮想端末」であって、ハードディスクを装備していない。
今回の「空き巣」が何を狙って入ったにせよ、盗まれるようなものはこの事務所に存在しないのだ。
「パソコンにも触っていねぇな」
こちらの事情に詳しいのか、ITに詳しいのか。見ただけでここから情報は取れないと見切ったようだ。
後は書棚と金庫しか、怪しげな場所はない。
書棚には会計学の教科書、税務マニュアル、税務通達、六法全書などが並んでいるだけで、書類ファイルはない。
「こいつも触った形跡がねぇな」
「私が入った時は金庫を開けようとしていたよ」
「また無茶をしやがったな? おいらを呼ぶまで待てねぇのか?」
「だって、逃がしたくなかったんだもん」
自分たちの事務所で空き巣を働こうなど、許せるものではなかった。
清十郎は金庫の前に立った。
「傷つけてはいねェな。ダイヤルを解錠できる技能持ちか。素人じゃねェ」
「鍵の方を探し回った形跡もないから、そっちも自分で開ける気だったんじゃない?」
金庫は二重のロックがあるタイプで、ダイヤル錠の他にシリンダー錠を開ける鍵がを必要とした。
鍵はもともと事務所にはおかず、2人のそれぞれが身に着けているのだが、それを知る者はお互い以外にいない。
「表の鍵もきれいに開けられていたから、鍵屋並みの腕なんじゃない?」
人目のある外廊下で10分も鍵をいじってはいられない。1分以内に玄関の鍵を解錠できる腕の持ち主であろう。
「こりゃあ最新の電子ロックに換え時かねェ」
「お金ないのに」
ちなみに金庫の中には金はない。権利証や契約書などの重要書類を保管しているだけであった。
「ベランダから逃げたって?」
「速くて伝票も切れなかった」
「おいおい、あぶねェ真似してくれるなよ。向こうがピストルでも持ってたらどうすんだ?」
清十郎は顔をしかめた。この娘は無鉄砲すぎる。
「空き巣はピストルなんか持ってないでしょ?」
「
特殊な空き巣であることを清十郎は恐れていた。
「身に覚えはねぇが、
この場合のプロには、「殺しの」とか「戦闘の」という枕詞がつく。そんな輩と会計事務所がまともに戦えるはずがない。
「一番大切なのは捕まえることじゃねェ。生き延びることだ。それを忘れちゃァいけねェぜ」
「……うん。わかった、気をつける」
確かにその通りである。ジェニーは返す言葉がなかった。
それから清十郎はベランダに残された脱出用のロープを検分したが……。
「こいつぁどこにでもあるような物だなァ。追いかけたところで犯人にはつながるめェ」
ロープをほどき、くるくると巻き取って回収する。
「それ、ほどいちゃっていいの? ほら、現状保存とか……」
「おめェ、警察に届ける気かい?」
「えっ? 届けないの?」
清十郎は室内に戻ってから説明を始めた。
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