第3話 数字は嘘を吐かねェ。

 それから清十郎はぐずるジェニーをなだめすかして、何とか仕事モードに復帰させた。


「頼むよ、嬢ちゃん。おめェも共同経営者なんだからさ。会社のことを考えてくれねェとな」

「わかってるから! その先は言わないで!」


 顔をしかめるようにして、ジェニーが言った。


 その先は本来こう続く。


「おいらもそう長くはないんだぜ……」


 67歳の体にはあちこちガタが来ている。それはジェニーにもわかっている。わかっているつもりでいる。

 だが老化の足音は、本人以外には響いて聞こえない。


 1年ごとに衰えて行く足腰に、清十郎は静かな絶望を以て寄り添っていた。


「嬢ちゃんが出掛けている間に、グレート製薬の公開情報を集めて置いた。今夜中に・・・・目を通しといてくれ」

「わかった……」


 今夜中という言葉を聞いて、ジェニーの顔が暗く染まった。ジェニーは決して勉強が苦手ではない。大学在学中に国家公認会計師試験に合格したほどだ。


 だが、暗記と詰め込みが死ぬほど嫌いだった。


 よく言えば「天才肌」なのだ。自分はアドリブで生きていきたいと公言している。

 悪く言えば「行き当たりばったり」だ。国家公認会計師という特殊な資格がなければ、どんな生活をしていたかわからない。


 会計師の仕事にしたところで、父が残してくれた自社ビルと顧客リストのお陰で何とか食いつないでいる状態であった。

 遺産を相続する形で会社に対する持ち分を引き継いだ。残り半分の所有者である清十郎とパートナーになったわけだ。


 したがって、2人の関係は仕事において対等であった。


 事務所の代表はジェニーとして対外的には前に出させている。清十郎亡き後のことを考えての取り計らいであった。


 自分の目が黒い内に、ジェニーを一人前に仕立て上げる。それが清十郎の悲願であった。


「サーバーに共有ディレクトリを起した。財務諸表、営業活動報告書、重要事項説明、プレスリリース、役員人事異動、株価推移、関連報道なんかをアップしておいた。覚えなくて良いから読んでおけ」

「うわあ、嫌いな名前ばっかり。わかった……。読んどく」


 思わず弱音を吐いたジェニーだったが、清十郎に睨まれて首をすくめた。


 いわゆるIRすなわちInvestor Relations(投資家向け広報)とは、現代の企業に求められる説明責任である。株主の権利保護を重要視するグローバル・スタンダードが日本でも常識になったのだ。

 これに伴って、それまで入手に手間とコストがかかっていた企業情報が、ネット上で簡単に収集できるようになった。


 日本を代表する企業ともなれば大手監査法人が情報の1つ1つをチェックする。それを潜り抜けて来た公表値である。本来嘘はつけないはずだ。


 それでも不正がすり抜けるのはなぜか? 数字になる前に誤魔化しているか、真っ当な数字として説明されているか、どちらかであった。


 前者を見逃せば監査法人に責任がある。厳しいようだが事実を帳簿に反映させるのが会計監査人の責務だからだ。


 これに対して、後者を止めるのは難しい。数字を誤魔化しているのではなく、理由を誤魔化しているからだ。


 それでも、と清十郎は言う。


「それでも数字は語るのさ、真実をな。音を聞くんじゃねェ。数字の声を聞いてみな。数字は嘘を吐かねェ」


 今の社員は知らないだろう。清十郎はかつて大日本に所属して、「千里眼」と呼ばれた腕利き会計師であった。

 同僚だった片桐丈が家の都合で独立するのに合わせて、大日本を退社した。まだ平社員だった清十郎を当時のパートナーが膝を折ってまで引き留めた。


 それだけの異才として将来を買われていたのだった。


 当時の後輩が、今はパートナーにまで出世した尾瀬みつるである。今回清十郎が電話を掛けた相手だ。

 尾瀬は清十郎のすごさを一番身近で見ていた人間であった。


 その尾瀬はグレート製薬事案の真っただ中にいた。自分の担当顧客だったのだ。

 パートナーともなれば究極の監督責任を背負う。社員のしたことはすべて自分の責任である。


 担当企業の不正が発覚した以上、その実態特定と再発防止策の実施確認まで自らが見届けなければ責任を果たすことができない。


 だが、冷静に考えて見よ。事件の発生を見過ごした人間が、再発防止策実施を見届けることができるのか?

 その力がないから見過ごしたのではないのか?


 ここに監査法人の大きな矛盾が存在する。


「けどよ。それを世間には言えねェやな」


 不正を許さないのが監査法人の存在意義だからだ。頑張りましたができませんでしたという言い訳は通用しないのであった。


「その穴を埋めるのが、おいらみてェな日雇い稼業だけどな」


 監査法人の正社員たちがこなしきれない重荷を、代わって背負うのが臨時雇いの請負会社であった。


「嬢ちゃん、先入観を持たれちゃ困るが、『棚資たなし』に『無形固資』、『仮勘定』を良く見とけ」


「棚資」とは「棚卸たなおろし資産」のことである。製品を作るための原料は通常この勘定を通過する。ここを操作すれば「製造原価」を変えられる。


「無形固資」とは「無形固定資産」のこと。研究開発投資などがここに分類される。ここをいじれば費用を増減させられる。


「仮勘定」とは「一時的に処理を保留した取引」が滞留する勘定である。ここを使って収入、費用を誤魔化すことができる。


 不正があれば勘定が歪む。


 脈1つで病名を言い当てる名医のごとく、監査人は数字を読んで不正を見通す。それが「国家公認会計師」であった。

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