Chapter 6 ●異生物接近#1
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その時シー・ゴリラは、まだ196ファゾムを遊泳していた。
深海生物であるシー・ゴリラは、このような暗闇の中でもはっきりと水中を見渡す事ができた。
シー・ゴリラは、水中に浮遊するコハク・ミカズキモ(大きさ1000μmの植物性プランクトン)を水掻きのある長い腕で器用に掻き集めると、口の中に放り込んだ。
30barで水中エントリーしてから、もう145分が経過していた。
シー・ゴリラはブランチを済ませ、ゆっくりと降下を始めたが、まだ脅えた様子に変わりはなかった。
時々鋭く周囲を見回したり、体毛を断続的に逆立たせなにかを警戒している。
シー・ゴリラは200ファゾムを越え、女史の残臭が漂う海綿生物の屍を発見した。クゥンと鼻を鳴らし、しばらくその周辺を泳ぎ回っていたが、女史がもういない事に気がつくと、やがてチカチカ光るマグネシウムの瞬きにつられ、下降していった。
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シュミレーションをなぞるように、2人はトンネルを突き進む…………
ダイシュナルは音波ソナーを駆使し、鍾乳洞のような不規則な凹凸をかわして行く。
この海底トンネルが、バリアントシーグルまで貫通しているという事は、M.O.C.の水中地形探査で明らかにされていたが、実際にここを通過するのはもちろん人類初のことである。
ダイシュナルは、厄介なダイブに手を焼いてはいたが、ある意味では前人未踏のこのエリア征服に意欲を燃やしていることも事実だった。
マリンジェットは、トンネルのほぼ中間地点に差し掛かろうとしていた。
“レギュレーター固定。マスククリア確認……これより最高速68ノットで、タイトポイントを突破する。異常海流発動に備えろ"
ダイシュナルは、後ろにしがみつく女史にメッセージを送ると、アクセルをめいっぱい蒸かし突入のタイミングを計った。
“GO!”の掛け声で、マリンジェットは体勢を斜めに傾けながら、その狭い亀裂に吸い込まれていった。
ガガッ———ガガガッ———ガッ———ガガッ
ブースターのノズルを擦りつけながらも、ダイシュナルはスピードを最高速に維持した。“キャーッ”
そのせつな————女史のスクーバタンクが岩肌の突起に接触し、彼女の体は大きくのけぞった。
“あぶない!”
ダイシュナルは女史にしがみつかれ、マリンジェットのコントロールを失った。
あわや岸壁に激突! というその時、マリンジェットは対物センサーの働きで急停止した。衝突は避けられたものの、乗っていた2人は急ブレーキのために、10メートルほど前方に吹き飛ばされた。
“……つう、大丈夫か?”
ダイシュナルは脇腹をおさえながら、俯せになって倒れている女史の方へ泳いでいった。女史は気を失っていた。……さらに悪い事にさっきの接触でタンクに亀裂が入り、エアー漏れを起こしている。
ダイシュナルはその亀裂に耐圧ゴムを張り付け、タンクに補強処置をすると、女史を抱え上げ揺り起こそうとした。
————しかし、今度は意識を取り戻さない…………。
ダイシュナルは取りあえず応急処置を施し、彼女の容体をチェックするためにPCCBデータをコンソールに呼び出した。
…………ピピッ……対象……シャルル・ソニア……脳波:異常ナシ……呼吸数:正常……脈拍:正常……血圧:正常……内的損傷ナシ……右鎖骨:単純骨折……左大腿部:裂傷アリ……外部損傷以上……意識不明ノ要因……外的衝撃ニヨル一時的ナモノ……安静ヲ維持セヨ……ピピッ…………
ダイシュナルは女史の体を、比較的海流のゆるやかなトンネルの壁際に移すと、コンソールのリモートコントロールを使って、マリンジェットを呼び寄せた。
10メートルも飛ばされたおかげで、タイトな危険ポイントは既に抜け出せてはいたが、女史がこんな状態では身動きは取れない。
ダイシュナルは、呼び寄せたマリンジェットから救急箱を取り出し、女史の鎖骨をアクリル・パテで固定し太股にバンデージを巻きつけた。
『とんだ所で足止めを食らっちまったな……』
まだトンネルの3分の1を残し、ダイシュナルはあせっていた。
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トンネルの入り口を見つけたシー・ゴリラは、シュミレーションを回想しながら中へ入っていった。マリン・ローズを根こそぎ浸食していったバルチコイドのせいで、ボトム・コーラルも所々掻き崩され、シュミレーションとは多少違っていたが、それほど気にするようすもなく進んでゆく……。
女史の臭いがだんだん強くなるにつれ、シー・ゴリラはスピードを増していった。
シュミレーションで見せた泳ぎよりも、もっとダイナミックで力強いストロークだ。途中何度か異常海流に見舞われたが、実際の海中で起きるアクシデントはシー・ゴリラにとってはむしろ当然のことで、いとも簡単にクリアしてしまった。
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……20分経過したが、女史はまだ気がつかない。
ダイシュナルは、既に6回めの酸素残量チェックを行っていた。
『オレのほうが74%……彼女のが46%か……平均60% こりゃー予備タンクを打ち込んどいたほうがよさそうだな』
予備タンクはクルーザーに積んであった。ダイシュナルの手元のコンソールで呼び出し、遠隔操作によって発射させることができた。
トンネル内からの送信が届くかどうかは、やってみなければわからなかったが、ダイシュナルは、とにかく操作を開始した。
すると、その時またしてもムービング・キャッチが反応をしめした。
……ジ……ジジ……異生物……急接近……速度30ノット……ジジ……距離30メートル……ジ……ジジ
『なんだって!』
ダイシュナルはぎょっとして、ムービング・キャッチの示す方角にMH250の銃口を向け息を殺した。
黒いシルエットがダイシュナルに迫る。
トリガーを引こうと指に力を込めた、瞬間そのシルエットは目の前で急停止すると、クルッと宙返りをして、グルゥと一声鳴いた。
『な、なんだ……おまえか。驚かすんじゃないよ』
ゴボッと大きく息をつき、ダイシュナルは思わず後ろにしりもちをついた。
シー・ゴリラの長い舌が、ベロッとダイシュナルのマスクをなめた。
次に、傍らに横たわる女史に鼻面をくっつけると、クゥンと鼻を鳴らし心配そうに寄りそった。
“心配するな、もうすぐ気がつくよ”
ダイシュナルはわざわざボードにメッセージを映し出し、シー・ゴリラに見せた。
女史の教育でこのシー・ゴリラは、簡単な言葉ならすでに理解できるようになっていた。シー・ゴリラはクーンと返事をすると、女史の隣に並んで横になった。
ダイシュナルは、再度予備タンクの遠隔誘導に取りかかった。
しかし、コンソールからの誘導電波は、トンネルの内壁に妨害され全く届かなかった。周波数を変えたり電圧を調節しながら、考えうる全ての方法を試してみたが、クルーザーからの反応はない……。
『もう一度トンネルを逆行して、ベイル海峡に出なければ無理か……。
だが傷ついた女史を、ここに置き去りにしては行けない。それよりなにより戻ってそんな事をしたら、またあの海流にはばまれて、エアーをさらに消耗することになる』
腕組みをして座り込んでしまったダイシュナルを、心配そうにシー・ゴリラが覗き込んだ。そのつぶらな瞳と目が合った時、ダイシュナルの脳裏に一つの解決策がひらめいた。
『そうだ、おまえがいたのを忘れてたよ。おまえにコンソールを持って行ってもらおう……誘導コースと周波数を、あらかじめタイマーセットしておいてやれば、あとはそれをトンネルの入り口に置いてくるだけだ。それならこいつにだってできる』
ダイシュナルはボードに、できるだけ判りやすく簡潔なメッセージを映し出し、シー・ゴリラにこの重要な任務を命じた。
シー・ゴリラは小さな瞳をしばたかせ、しばらくボードをにらみつけてから、1回だけ大きく頷いた。
ダイシュナルにコンソールを渡されたシー・ゴリラは、素早くターンするとトンネルの入り口に向かってあっという間に姿を消した。
ダイシュナルは、予備のコンソールをマリンジェットから取り出し、自分のPCCBに接続した。
女史のレギュレーターからコポッと泡が吹き出した。
『やっと意識を取り戻したか……』
ダイシュナルは横たわる女史の頭を持ち上げ、トンネルの壁にもたれかからせた。
“どうだ、オレが誰だか分かるか?”
女史は、シリコンマスクのサイドに付いているリューズを回し、ピントを合わせ直した。“あぁ……ダイちゃん……”
“立てるか?……”
“ええ……”
女史は少しふらつきながら、ゆっくり腰を上げた。
ダイシュナルは彼女の肩を支え、マリンジェットに腰掛けさせると、ふたたびエンジンを始動させた。
2人乗りのマリンジェットは、静かにトンネルの出口に向かった…………。
この先3分の1は、さほど危険な場所はなかった。
ダイシュナルは、エアー残量の状態や予備タンク誘導のため、一度舞い戻ったシー・ゴリラを再度トンネルの入り口まで行かせた事などを、彼女にメッセージしながら、入り組んだトンネルを進んで行った。
しだいに意識を取り戻してきた女史は、自分の事よりもシー・ゴリラが無事だったことをとても喜んでいた。
“よかった……シーちゃん元気だったのね”
2人を乗せたマリンジェットは10数分でトンネルを抜け、バリアントシーグルへ突入した。トンネルを出た時点で、水深220ファゾム……水圧はすでに40barを越えていた。
ダイシュナルの立てたダイブプランとは、だいぶ違ってしまったが、とにかく2人はM.O.C.の裏をかき、まんまとバリアントシーグルへの潜入に成功したのだ。
いよいよ異生物とのコンタクト(接触)を始めるための準備に取りかかった。
トーキンのブレイン(頭脳)脱却の手段は、既に2人の間でじっくりと練られていた。
3日前———深夜までかけて、一番成功率の高い方法を算出していた。
その方法とは、まずコミント・システム(対異生物情報解析装置)を使って、〈スカム・マスタ〉とのコミュニケーションの可能性を探る。こちら側からは、究めて友好的な音楽(ビートメッセージ)を送り続け反応をみる。
音楽(ビートメッセージ)とは、古代パグラ族たちが使用していた音によるコミュニケーション方法で、おもに水牛の革を張り付けた小型の太鼓を使って行なわれていた。
その太鼓を、叩いたり弾いたり引っ掻いたりして、およそ50種の音色を聞き分けていた。もし、〈スカム・マスタ〉が我々の推理どうりパグラ族となんらかの関係を持っていたならば、必ず反応を示すはずであった。
さらにその音楽にのせ、トーキンの脳波から読み取ったメッセージを、そのまま繰り返しデジタル信号によって送り続ける。
反応が有りしだい、あとはコミント・システムのメモリーにトーキンの脳波タイプだけを判別させストックさせてゆく。
女史の計算では、〈スカム・マスタ〉の多量の情報の中から、あと20%でも純粋なトーキンの意識をピックアップできれば、彼を救うことができると言うのだ。
ダイシュナルは、コミント・システムを作動させた。
コンソールの深度計の針は、前回のダイブで異常海流に見舞われた 250ファゾムを振り切った。
しかし、今回はあの時のような急流はまだ起こらなかった。
女史は緊張してダイシュナルに伝えた。
“どう?……コミント・システムの反応は……
そろそろ〈スカム・マスタ〉のテリトリーよ。彼らの科学水準なら、私達はとっくに捕捉されてると思うんだけど……”
ダイシュナルは前を向いたまま、うなずいた。
“ああ……やつらはわざと様子を見ているんだろう。トーキンからのロゴスデータも含めて送信してるから、オレたちが何の用事でこんなくんだりまでやって来たかは、もう分かってるはずさ。きっと、もうすこし自分たちの懐まで引き込んでから、料理するつもりなんだろうよ……そうはさせないがな”
そこまで言うとダイシュナルは、 280ファゾムでマリンジェットをピタリと静止させた。2人は固唾を飲んで海底を凝視し、微細な変化も見逃さないように努めた。
と、その時またもやムービング・キャッチがなにかを捕らえた。
……ジ……ジジ……距離50……下方ヨリ……急接近……ジジ……速度10ノット……ジ……対象生命体ノ分析を……セヨ……
ダイシュナルは急いで、コミント・システムを作動させ生命体の判別を命じた。
すると追い撃ちを掛ける様に、今度はボトムウォーターアデス(水中気象自動中継装置)が、なにかを捕らえた。
……ピピッ……渦巻き状……異常海流発生……発生開始深度……不明……現在位置330ファゾムヨリ……サラニ……上昇中……ピピッ……
“来たわ!〈スカム〉よ”
“そうらしいな。速度10ノット、距離50ファゾムということは、接触まであと数分しかない———取り敢えず浮上しながら時間をかせぐ”
ダイシュナルはマリンジェットを上昇させながら、海洋生物誘導サイクルガンを構えた。“こいつがうまく効果を表せばいいんだが……とにかくやってみなきゃわからん。なんせ相手は未知の生物兵器だからな”
ダイシュナルは銃身を対象に向け、電子エネルギーを充填し始めた。
息をこらして、2人はマリンジェットにしがみついて発射のタイミングを待った。
下から沸き上がって来る、ゴーという渦の振動を素肌に感じながら……。
……ピピッ……距離20ファゾムヨリ……依然接近中……ピピッ……
淡々と状況を伝えるムービング・キャッチの電子音声だけが、暗黒の海域に響き渡る。
2人の目の前を、青筋めくらうお(ブルー・ブラインドフィッシュ)の群れが通り過ぎていった。蛍イカのような発光組織をもつこの魚は、光りの届かないこのような深海でも美しくきらめいて見える。
————だが今の2人に、その美しい魚群を鑑賞する余裕などあろうはずがない。
ついにダイシュナルは〈スカム〉を肉眼で捕らえた。……と言っても赤外線モードのマスクを通してだが。
“見えたぞ! あの時と同じだ……。凄い勢いで回転してるのがわかる”
“早く打って ねえ、ダイちゃんたら”
女史は、初めて目にするその渦巻きの迫力に、すっかり圧倒されていた。
大マゼラン星雲のような楕円のスパイラルは、その外縁を銀色に発光させながら2人の目前に迫る。
“まて、ギリギリまで引き付けるんだ”
ダイシュナルは覚めた表情で、サイクルガンのスコープを睨み付けた。
すでに楕円の外周は、スコープからはみ出すほどに2人を取り込もうとしていた。
マリンジェットが一瞬ググッと傾ぐ。
“今だ!”
オレンジ色の閃光が、辺りを包み込むように広がった。
突然の誘導光線に〈スカム〉は一瞬回転を止め、その渦型のフォーメーションを分解した。その動きは、先程までの秩序だったものとうって変わり、酷くバラバラなものになった。〈スカム・マスタ〉の制御を失ったのである。
もはや、泡状生命体はただの単体生命となり、オレンジ色の光の網の中で混沌と漂うばかりだった。
数10粒の〈スカム〉が脱出に成功したが、すぐに深淵に吸い込まれるように逃げ去った。
ダイシュナルは慎重にオレンジの網を操り、それを岩盤に固定した。
“OK! こうしておけば安心だ”
息衝く間もなく、今度はコミント・システムが分析反応を表した。
……ピピッ……泡状生命体……中心部ヨリ……トーキン……ノモノト思ワレル……脳波パターンヲ確認……12%マデ摂取ニ成功……メモリー登録完了……ピピッ……
“すごいわ、予想以上の収穫よ”
しかしダイシュナルは、歓喜する女史に同調しなかった。
“いや、オレはそうは思わんな……。やつらの科学水準の高さから見ても、せっかく隔離したトーキンの精神を、そうやすやすと手放すとは考えられない。とにかくトーキンを蘇らすために、最低でも20%は彼の意識を奪い返さなきゃならないんだからな。あと8%奪取するまでは油断は禁物だ”
ダイシュナルは表情を引き締め、メッセージを送り続けた。
そして〈スカム〉に攻め寄られ浮上してしまったので、再度280ファゾムまで潜行した。〈スカム・マスタ〉との根競べが続いた……。
女史は酸素残量を気にし、何度もコンソールに目をやっていた。
そして、ついに痺れを切らした彼女は、ダイシュナルを後ろからつっついた。
“私のエアー、あと30%しか残ってないわ”
“ああ……、おまけに予備タンクは無いし、焦って減圧停止時間が不足すれば、オレたちもトーキンの隣に横たわることになるからな。こうしていてもらちがあかない、危険だがこっちから仕掛けるか?”
ダイシュナルは女史に同意を求めた。
“いいわ、とにかくもう少し潜行しましょう”
マリンジェットは2人を乗せ〈スカム・マスタ〉に接近していった。
————300ファゾムを越え、ついに2人はワードプレートによる交信も不能になった。
水圧も60barに近付き———2人の体は、今にも押潰されそうなプレッシャーに取り囲まれていた。PCCB(超耐圧スーツ)がなければ、その体はとっくにプレスサンドのようにペチャンコにされているだろう。レギュレーターにしても、パワーヴァルブを使用していなければ、とうに呼吸停止に陥っているはずだった。
そのような科学機材に防御されなければ、一時も生きることを許されないJランクダイブ……多くのダイバーの命を奪った300ファゾム以下の世界。そこに侵入する者を狂気に落とし入れる赤いスフィンクスが住むというこのエリアに、2人はさらに危険な異生物とコンタクトをとるために潜行を続けるのだった。
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