56.『ゆっくりと苦しみをもって』
……深夜二十三時のこと。私と千秋ちゃんは、とあるバーで一緒に飲んでいた。
そこはお酒よりもケーキが主軸の女性向けバーで、薄明かりの下で物静かな雰囲気を楽しみつつ、ケーキとお酒を嗜むといった、そんなお店だった。
私と千秋ちゃんはカウンターに並んで座り、各々ケーキとお酒を目の前に置いている。千秋の前にはモンブランとハイボールで、私の前にはチーズケーキとレモンサワーがあった。
「……美結ちゃん」
私のぽつりと呟く独り言は、店内にうっすら流れるBGMにすらかき消さるほど、小さかった。
流れているBGMは、ジムノペディの第一番。寂寥感と哀愁のこもった、孤独なピアノの旋律が店内を包んでいる。この曲を聞いていると、吹奏楽部だった学生時代を思い出す。
「……ねえ、千秋ちゃん」
隣にいる彼女へ、私は声をかけた。千秋ちゃんはハイボールの中の氷がからんと溶ける様を見ながら、私へ「なに?」と返した。
「明くんと美結ちゃんは、なんていうか……本当に、苦しいことがたくさんあるよね。私、なんだかやりきれないな……」
「……………………」
「明くんも美結ちゃんも、若い内からお母さんを喪ってしまって……。美喜子の場合は自業自得なところも多いけど……でも、こんな最期はあんまりだよ……。美結ちゃんも明くんも、さすがに堪えちゃうって……」
「……………………」
「どうして神様は、あんなに良い子達をいじめるんだろう……?」
「……神なんていないよ、城谷ちゃん」
「千秋ちゃん……」
「もし本当にいるんであれば、私が絶対にぶん殴ってやる」
そう言って、千秋ちゃんはハイボールに口をつけた。コップの半分ほどまで飲み干すと、カンッと音を立てて置いた。
「……城谷ちゃん、私は……どうすれば良いんだろうか?」
「え……?」
千秋ちゃんは珍しく、とても弱々しい口調だった。いつも『私は鋼の女』なんて言って、無表情でなんでもへっちゃらって顔をしてる、あの千秋ちゃんが……。
「私は……城谷ちゃんも知ってる通り、いじめられっ子だったし……家庭環境も最悪だった。親もいじめっ子もみんな殺して、私も死んでやるって、何回思ったことか」
「……千秋ちゃん」
「自分がそんな人生だったから、余計に彼らのことが気にかかる。私が子どもの頃に、大人からしてほしかったことを……彼らに、してあげたいって」
「……………………」
「でも、なんか……分からなくなった。私は二人の幸せのために、美喜子を裁いた。二人から遠ざけて、美喜子に報いを受けさせた。でも……それで、それで本当に良かったんだろうか……?私は今日の美結氏を観て、そこがとんと分からなくなってしまった」
「……………………」
私たちの席から少し離れたテーブル席で、女性客が数人騒ぐ声が聞こえる。
「それでさー、彼氏がさー」
「はー!?それヤバいねー!」
「ねー!ちょっとおかしいよねー!」
……ケタケタと笑う彼女たちのいるところと、私たち二人のいるところが、同じ店内であるはずなのに、まるで別の世界にいるかのような……そんな場違い感を覚えていた。
「……ちくしょう、美喜子め。クズでバカの癖に……美結氏を悩ませやがって……」
千秋ちゃんはカウンターに肘をつき、手を額に当てて、眼を閉じた。
「独りぼっちになったのだって、どう考えても自分のせいじゃない。身から出た錆……孤独になって死んだって、ちっとも美結氏のせいなんかじゃない。あいつが最低のクソ野郎で、美結氏のことたくさん苦しめたから、今度は自分が苦しむ番になった……。それだけだって」
「ちょっと、千秋ちゃん……」
「あんたの杜撰な生き方のせいで、美結氏にたくさんしわ寄せが来るだろうってこと、少しは想像しておけよ。赤ちゃんだって美結氏が引き取ろうとしてるんだぞ。あんたがちゃんとしておけば、こんなことにはならなかったんだ。自己中で能無しのバカ女が……」
「千秋ちゃん、言いたくなる気持ちは分かるけど、美喜子はもう故人なんだから、そこまでにし……」
と、そこまで言いかけて、私の言葉は止まった。
「……………………」
千秋ちゃんの眼から、涙が溢れていた。唇をきゅっとつぐんで、何もかもを堪えるように泣いていた。
すん、すんと、千秋ちゃんの鼻をすする音が聞こえる。歯をぎりっと噛み締めて、肩を震わせている。
「本当にバカな女……。だって、美結氏の手紙は『さようなら』なのに。完全に縁を絶たれた言葉なのに。それすらも嬉しかったって……意味分かんない。頭おかしいんじゃないの?」
「……………………」
「あんたねえ、繋がりに餓えすぎだっての……。最期になってようやく、美結氏に謝罪と感謝ができるんなら、どうして生きている内にしなかったのよ……。あんた、最期まで自己中すぎんのよ……」
「……………………」
「ああ……もう。私としたことが……。この先の人生で、絶対泣いてたまるもんか、二度と泣くもんかって、そう誓ったのに…………」
……私は椅子ごと彼女のそばに近寄って、背中をゆっくりとさすった。
ジムノペディが、透明な旋律を静かに奏でていた。
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