第29話 暗い水のなかで

 暑い夏が近い。強い陽射しと白く光る建物や道路。額から滴る汗、吐く息さえ火の玉のように熱い。


 沸騰する血液。灼熱に薄れる意識。枯渇した喉。恋しいのは冷たい水のみである。喉を潤す水、火照った心や身体を冷やす水が欲しい。


 プール帰りの子供たちの、濡れた髪が羨ましい。海に行きたいが、仕事が時間を縛っている。プールでもいいが、上司に申し出るそんな暇も度胸もない。


 自宅から10分程の所に小学校がある。当然、児童プールもある。夜間には校門も施錠され、外部からの侵入者を防止している。


 夜中なら、プールを独り占めだな。たまった仕事を早めに処理し、心踊らせて帰路についた。


 夜食は軽く済ませた。衣類の中から昨年も使用した黒の水着を取り出す。


 時計は23時を回ったところである。


 半ズボンの水着は、普段、街で使用も可能なタイプである。上に黒のTシャツ、下は黒の水着に着替えた。


 小さなビニール袋にフェイスタオル。準備万端である。ささやかな違法行為に、ひさしぶりに心が踊る。


 テレビを流しているが、まったく見ていないし、聞いていない。時計が0時を示している。人が、街が寝静まる。


 マンションの鍵をカチャと鳴らした。エレベーターも、いやマンション全体も闇に包まれている。


 既に人通りの途絶えた路を、小学校まで

ひとりだけで歩く。胸の高さの校門を軽く乗り越え、広い校庭を横切って隅にあるプールへ着いた。


 まったく照明がないため、闇が集まった場所にプールはある。地面から50㎝位の高さでコンクリート造りのプール。


 更に2m程度のフェンスに囲まれている。網の目フェイスなので、汗を滴らせながらよじ登り中に侵入した。


 月がくっきり、妙に涼しげに蒼く暗い水面に浮かぶ。汗まみれのTシャツを脱ぎ捨て、暗い水の中に火照った身体を沈めた。


 冷たい水の中に潜る。頭が、身体が、心が急速に熱を失う。壁を蹴ってプールの真ん中に・・・・・


 水面に浮かび仰向けになって、冷えた瞳で空を見上げる。真っ暗な夜空に蒼白い月。胸が何故か ときめく。


 何一つ音がない。月以外に瞳に映るものはない。べたつく暑さもない。明日の予定もない。


 嫌な上司の顔も、仕事のスケジュールも、すべてを水の中に溶かした。


 心が安らぐ。まるで水と同化し、溶けて水の一部になった。


 風がないのに水面が静かに揺れる。

 暗い水底が揺らめき、そして蠢く。


 冷たい水より更に冷たい何かが、身体に優しく絡みついた。左腕に、胴体に・・・・・


 『ガボッ』


 水中に引き込まれる。声は出ない。水の中で絡みついた白い細い腕が、もがく身体を抱きしめる。


 水面が遠ざかる。月が暗い水の中で滲み、そして 隠れた・・・・・

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