第30話 荒野のイミューン

*   *   *



 神谷は駆けだした。

 巨大なイミューンが広げた手の平を振り下ろす。

 神谷は斜め前に跳んでよけた。空振りした平手打ちで地面がずんと震え、土煙が舞う。

 イミューンは、そのまま地面に擦るように手を振り払った。

 背後から迫ってきた手を、神谷は後ろに大きく宙返りして跳び越える。

 勢いがつきすぎて、着地で少しつんのめった。体が軽い。重力が弱くなったみたいな感覚だった。跳躍力も、スピードも、自分が思い描いた以上の出力が出る。

 これなら、いけるかもしれない。

 ちらっと後ろに視線をやる。沙凪と空澄が巻きこまれない場所にまで下がったのを確認する。

 敵はでかいが、攻撃は単調だ。腕は二本あるが、攻撃できるのは一本ずつ。片方の腕は常に上体を支える必要があるからだ。体の向きを変えるのも腕頼りで、その間は攻撃が止まる。巨体ゆえに動きも遅い。

 何度目かの攻撃をよけた時、空振りした腕を刀で斬りつけた。渾身の一撃だったが、切り口から黒い霧が少し噴き出ただけで、イミューンは再び持ち上げた腕を振り下ろしてくる。

 かわした神谷は、そのまま巨体の横に回りこむ。

 その時、頭上から黒い何かが降ってきた。とっさに横に跳びのく。

 轟音とともに、地面がビスケットのように砕けた。自分が立っていた場所にイミューンの尾ヒレの一本が突き刺さっている。病院の天井を突き破ったあの黒い柱はこれだったのか。

 何本も並んだイミューンの尾ヒレが、鎌首をもたげるヘビのように立ち上がった。先端をこちらに向けて、いっせいに降り注いでくる。

 神谷は冷静にひとつずつかわしていく。一本一本が神谷が両腕でかかえきれないくらいの太さがあり、地面があっという間に穴だらけになっていく。

 神谷はかわしながら尾ヒレの一本に刀を振ったが、刃が表面を滑った。尾ヒレだけは他と質感が違う。磨き上げた石みたいな硬質な殻で覆われている。病院で襲われた時と比べて、格段に強度が上がっている。

 後ろはダメだ。尾ヒレの数が多すぎて、攻撃している余裕がない。

 イミューンの前方に戻ると、すかさず手が降ってきた。反射的に大きく地を蹴ろうとする足を抑え、回避できるギリギリの距離だけ下がった。

 ねらったこととはいえ、文字通り目の前に指が落ちてきた瞬間は冷や汗が噴きだした。飛び散った地面の破片が体に当たるのを無視して、イミューンの腕を駆け上がる。

 気づいたイミューンが振り向く。

 背の上に乗った神谷はそのままの勢いで頭部へ接近し、首を斬りつける。

 手応えがあった。だが傷口から噴きだす黒い霧は、思ったよりも少ない。

 顔を上げると、蚊を叩き潰そうとするみたいにイミューンの手の平が迫っていた。神谷はとっさに背中から飛び降りた。着地と同時に地面を転がって衝撃を殺し、すぐに体勢を立て直す。

 イミューンは調子を確かめるみたいに首をぐねぐねさせただけだった。傷が浅すぎるのか、痛みは感じないのか。表情がないイミューンからは読みとれない。さて、どうしたものか。

 何度もイミューンの手を避けるうちに、あたりは土煙でよく見えなくなってきた。

 その煙を突き破って、突如、手が迫ってくる。

 神谷はとっさに上体を引いてなんとか回避したが、安心する間もなく、別の方向から手が現れた。

 慌てて神谷は土煙にまぎれて走る。方向はまったく分からないが、とにかく今は少しでもイミューンから距離をとりたかった。

 ところが走りだして間もなく、岩の壁に行く手遮られた。土埃で先が見渡せないので、仕方なく壁沿いに進むが、なかなか途切れない。

 ふと気づくと、視界がクリアになっていた。土煙に隠れて逃げるつもりが、いつの間にか抜けだしてしまっていたらしい。すぐにイミューンとの位置関係を確かめる。

 土煙の上に高々と掲げられた尾ヒレの先が、こちらを向いていた。

 慌てて地面に伏せた神谷のすぐ上を、尾ヒレが貫く。

 尾ヒレが引き抜かれたあとの岩には、大型車のタイヤくらいの大きさの穴が空いていた。

 神谷の頭にバカな考えがひらめいた。岩壁の上を見上げる。頂点の高さは、イミューンの頭を上回る。

 やるだけやってみるか。

 イミューンは神谷を串刺しにしようとし、神谷は着実に攻撃を回避する。そのたびに、背後の岩に穴が増えていく。大きく飛びのいた時、岩に突き刺さったまま尾ヒレが横に動いた。神谷を追いかけて横一文字に岩を裂く。

 その時、ズンと大地が揺れた。

 裂け目が軋み、頭上でゆっくりと岩が傾き始める。

 神谷は走る速度を上げ、岩から離れる。

 激しい地鳴りとともに、自重に耐えられなくなった岩がイミューンの背を押し潰した。崩落の轟音とイミューンの咆哮に、鼓膜が揺さぶられる。

 砕けた岩の破片が隕石のように降ってくる。神谷は自分に当たらないことを祈ってまっすぐ走り続けた。

 やがて地鳴りがおさまり、神谷はイミューンのいたあたりに目をこらす。

 土煙の中、イミューンの首がうごめいていた。吠えながら腕をバタバタさせている。

 神谷は思わず舌打ちする。まだ動けるのか。直撃したはずなのに、どこまで頑丈なんだ。

 神谷は今走ってきたところを引き返す。大きな岩を踏み台にして、イミューンの背に跳び移る。

 イミューンは尾ヒレが岩に埋もれていて、身動きがとれなくなっているようだ。岩がぶつかって傷ができたのか、首の少し下あたりから黒い霧がもれ出ていた。神谷は迷わず、そこに刀を突き立てた。

 悲鳴のような甲高い叫び声が、鼓膜から脳まで突き刺さる。

 鍔の近くまで深く沈んだ刀を引き抜くと、クジラの潮吹きのように黒い霧が勢いよく噴きだした。

 効いた。

 視界を埋め尽すほどの太いしぶきが立ち昇る。

 だから、背ビレの接近に気づくのが遅れた。

 しまったと思った時には、もう体ごと弾き飛ばされていた。

 空高く跳ね上げられ、一瞬、意識が飛びかける。

 やがて、体はきりもみしながら落ちていく。

 なすすべなく、背中から地面に叩きつけられた。そのまま何度かバウンドしながら転がっていく。なんとか体を丸めて顔と腹だけは守る。

 ようやく回転が止まり、やっと呼吸ができた。息を吸うだけで体が痛い。全身がばらばらになりそうだった。

「神谷さん!」

 声と足音に視線を上げると、沙凪と空澄が駆け寄ってきていた。神谷は、クソッと口の中で毒づく。せっかくふたりを下がらせたのに、自分がこっちに来たんじゃ意味がない。

「大丈夫ですか」

 沙凪が神谷を助け起こそうと手を貸してくれる。

 ガラガラと瓦礫が崩れる音と震動がした。イミューンが岩を押しのけて起き上がる。神谷を捜すように周囲を見渡していた首が、三人に気づいた。腹を引きずりながらのしのしとこちらに向かってくる。

 神谷は、沙凪に支えられてなんとか立ち上がった。頭は急げと叫んでいるのに、体が思うように動かない。

 神谷の腕に触れている沙凪の手が、小刻みに震えているのに気づいた。

 最初は怖がって体も思考も停止していたのに、今は震えるほどの恐怖を前にしても、唇を噛んでこの場に踏みとどまっている。この夢の中で、沙凪はいつの間にか自分の足で立てるようになっていた。神谷が知らない間に、何かを見つけたのだ。だが、ここを突破できなければそれも無駄になってしまう。

「心配なんかすんじゃねえぞ」

「えっ?」

「俺が勝つ姿だけイメージしてろ」

 イミューンと自分の間に、さっき落とした刀が転がっているのを見つけた。そうだ。まだ戦える。

 沙凪の手に力がこもる。そこから何かが流れこんでくるのを感じたのは、おそらく気のせいではない。痛みが、少しだけ和らいだ。

「はい」

 沙凪の力強い返事に背中を押され、足を前にだす。体が前傾したら、倒れる前に反対の足をだす。そうして無理やり勢いをつけて、走る。

 集中しろ。ただ目の前の敵だけ見てろ。

 落ちていた刀を拾い、速度を上げる。

 イミューンの手が降ってくる。

 神谷は跳躍し、指の間をすり抜けて腕の上に飛び乗る。そのまま背中まで駆け上がるつもりだったが、さすがにイミューンも学習したようで、腕が上に跳ね上がった。体が宙に浮き、無防備になった神谷に向かって、イミューンが背ビレを突きだす。

 刀をしっかり両手でにぎった神谷は、衝突の瞬間、体を回して背ビレを受け流した。衝撃とともに火花が散る。

 すぐに空中で体勢を立て直し、刀を構え直す。落下の勢いと全体重を載せた刀を、上を向いたイミューンの顔に突き刺した。

 間近で上がった悲鳴で、全身がビリビリと震える。

 首が大きくうねり、のたくる。神谷は振り落とされないように必死に刀にしがみついた。

 イミューンの体が地に落ちた。衝撃で宙へ放りだされた神谷は、地面を転がって受け身をとる。バタバタと振り回される腕を避けて、距離をとった。

 苦しみもだえていた首もだんだん落ちていき、動きが鈍り、やがて動かなくなった。

 強い風に土煙が吹き流されると、あたりは静寂に包まれた。

「神谷さん」

 沙凪と空澄が駆け寄ってくる。安堵で顔をほころばせてはいるが、ところどころに、まだとけきれない不安や恐怖のかけらが残っていた。自分がそんなぐちゃぐちゃな表情をしていることに気づきもせず、沙凪は「大丈夫ですか」とまた神谷を気遣う。

「さすがに、しんどい」

 思わず、そうもらしていた。大丈夫なわけがないだろう。夢じゃなかったらとっくに死んでるぞ。そんなこと言ったって意味はないのは分かっていたが、軽口のひとつでも叩かないと、心配する沙凪の視線に耐えられなかった。

 それに対して沙凪は、真面目な顔で首を振る。

「その年であれだけ動けるなんてすごいですよ」

「本当にお前はひとこと余計だな」

 沙凪の口角が上がり、少しましな顔になった。

 その時、荒野に不似合いな無邪気な声が聞こえた。

「兄ちゃん。遊ぼう」

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