ドラゴン・レディの帰投

[短編] [ミディアム] [ファンタジー度★★★]




 こうして遂に 竜の時代は終わりを迎えた

 最後の竜が人の手により斃された時 その体と魂は分かたれた

 間際 黒き竜はその血を用いて一本の杖を創り出し

 いつの日か帰らんとするために 最も信頼する者に預けたという

           『時の書』第四巻十二章「竜の国・人の国」より




 午後のぬくい陽ざしが、遥か高く丸天井のステンドグラスを透かして、エントランスホールに様々な色となった光を落とす。見上げるほどまでに背の高い書架がぐるりと円形に壁を成し、建物の内部を形作っている。ステンドグラスの文様も棚に収められた史料の数々も、共に魔法の歴史を物語る。丸天井の中央には、鳴らすための仕組みが見当たらない巨大な鐘が一つ。

 ここは「いにしえの魔道保管庫」。書物や魔道具、ありとあらゆる魔法にまつわるものを収集・整理・保存して後世に遺していくための、いつ誰が創ったのか分からない・・・・・古い建物だ。


 他に誰も人の姿の見当たらない中で、男が一人。カウンターデスクの向こう側に腰掛けて、所在無げに本の頁をめくっている。ロイド眼鏡、後ろに撫でつけた真っ白い髪、年齢を読み取れない風貌。色とりどりの光が男の顔の上で踊っていたが、男はそれを意に介すこともなくどこか無機質な表情を崩さない。この生真面目を絵に描いたような男は、館長から魔道具の管理を任せられている者だった。

 ここで働きはじめてどのくらい経っただろうか? 男は思い返そうとしてみたが、はて皆目分からない。気がついたらここで働いていた、そういう感覚だ。さりとて不便はない。老爺の館長の下で、魔法書や魔道具、古きものや強きもの、そういった魔法の息吹を感じられる品々に囲まれて働くこの空間は、男にとって不思議と非常に心地が良いものだった。


 零れる光に変化はなかったのだが、その中でふと男は目を通していた書物から視線を上げた。


 小さな手が一本の杖を握っている。赤い宝玉を戴き、それを抱えるように鎮座する黒い竜の装飾が施された、短い杖。

 その杖を掲げるようにして持つ手の主は、まだ幼げな少女だった。歳は七つくらいだろうか。大人の胸の高さに届くか届かないかくらいの背丈。カールの強い黒髪を頭の高い位置で二つに結んでいる。黒のフリルとレースのふんだんに使われたドレスがよく似合っていた。

 その女の子が、カウンターデスクの向こう、男の目の前に立っていた。


 男は一瞬ドキリとした。眼鏡の奥で目を丸くして、椅子を引いて立ち上がりかける。しかしそれもすぐに落ち着いた。きっと夢か何かの類いだ、と。

 だってそうだ。杖をはじめとする魔道具は自分が管理をしているのだし、その鍵のすべては今もきちんと自分が持っている。それに。降り注ぐ色とりどりの光の中、それらをすべて受けてなお強く黒くそこに在る幼い少女。その手には、この魔道保管庫の中でもとりわけ厳重にしまわれていたはずの秘宝・黒竜の血の杖。とても、現実のものとは思えなかった。

(何処の精霊のたわむれだろうか……)


 そうして男は、今度はゆっくりと椅子を引いて立ち上がった。カウンターの中から出て、腰を屈めて女の子に話しかける。その表情をややほころばせるようにして。

「こんにちは、ご機嫌うるわしゅう、お嬢さん」

「リザよ」

 小さな女の子はツンとすましてそう言った。それに少し微笑みを呈して男は声をかけ直した。

「リザさん」

 微笑んだまま続ける。男はそのまま、白い手袋をはめた手をスッと差し出した。

「どうぞそれをお返しください。とても大事なものなのです」

「いや」

 リザと名乗った幼い少女は、すました様子をまるきり変えずにそう言った。

「これが大事なものなのは知っているわ。だってこのあたしのもの、なんですもの」

 最後その口端にチラリといたずらっぽい笑みが覗く。


 そうして少女はパッと踵を返して駆け出した。エントランスホールの中央、カウンターデスクの真正面にある、地下へと続く跳ね上げ扉の中へ。……いつの間に開いていたのだろう。男がここで働いている間、この蓋のような重い扉が開いたのは、ただの一度も見たことがないというのに。

 これにはさすがの男も慌てた。立ち上がり、後を追おうと足を踏み出しかける。だがこのままカウンターを空けていくのも如何なものかと思い、ホールをぐるりと見回した。

「館長! 館長!」

 そう呼ばわってみる。しかし、いつもはどこかの本棚の奥やら柱の陰やらからひょっこりと現れるはずなのに、この時に限って老爺は出てこない。


(さて、どうしたものか……)

 視線を元に、女の子の駆けて行った方へと戻す。そこでは依然、跳ね上げ扉が開いて地下へと続く階段を覗かせていた。そこに丸天井からの光が差している。長年積もった埃が、まるで妖精の粉のように色とりどりに輝いてゆっくりと舞っていた。


 男は肩をすくめてやれやれと首を振り、カウンターの上の本も開いたままに、少女の後を追いかけていった。






 地下に伸びていく螺旋階段の一方の側面は、エントランスホールと同じように書架の壁となっていた。もう一方の側面は吹き抜けになっており、その底は遥か遠く闇に沈んで見えない。


 果てなく見える螺旋階段。その上を、時計の針が進むように回って、回って。

「リザさん。待ってください、リザさん」

 男の声を背にして、小さな少女の足取りは軽やかに。杖の宝玉が放つ鈍い赤銅色の光が歩みに合わせてゆらゆらと、地下の薄闇の中にぼんやり浮かんで見える。男がどんなに急いでも、その光る杖を持って先を行く少女との距離が縮まることはなかった。

 やがてリザと名乗った少女はある場所で足を止めた。そこにようやく男は追いつく。少女の小さな手がそっと、棚から一冊の本を抜き取った。不思議なことにその本は、男がカウンターの上に置いてきたはずの『時の書』の第四巻。少女が始めの頁を開き、一節を読み上げる。



「 竜はこの世界を治める

  神・巨人・精霊に次ぐ 四巡目の世界の司

  竜は かの四元素を従える

  風・火・水・土 それらを以て世界を廻す  」



 それを耳にした瞬間。男は自分の頭上で空気が歪むのを感じた。途端、猛烈な風が辺りに吹いた。叩きつけるように、薙ぎ払うように。男は思わず片手を上げて顔を覆った。その間も風は容赦なく吹きつける。止まる所を知らない暴風にさらされる中で、男はどうにか薄目を開けて小さな少女に目を向けた。

(彼女は大丈夫だろうか……?)

 少女は片手で開いた本を持ち、もう片手で杖を顔の横に掲げて、凛と顔を上げその場に立っていた。二本に結った黒髪が猛烈な風になびいている。大の大人が吹き飛ばされそうな程の風の中、それをものともせずに。その口元には微笑みすら浮かんでいた。

 吹き荒れる風の中、少女は杖を持った腕をスッと高く伸ばした。黒竜が抱いた宝玉が鮮やかに赤く輝く。すると風は一転して静まり返った。


 それを呆然と眺めていた男はハッと息を飲んだ。幼い少女の姿が、変化していたのだ。

 黒竜の血の杖を手にするは、年頃の少女。その背丈はもう大人とさほど変わらない。カールの強い黒髪を高い位置で一つ結びにして。柔らかなギャザーのふわりと広がる膝丈のドレス、そこからすらりと伸びる足の先まで、全身を黒で包んでいる。その姿は薄暗い闇の中で、むしろ一層際立って見えるようだった。

「これは、何が。リザさん……?」

 手にしていた本を棚に戻すと、男の方を振り向いて年頃の少女は淡い微笑みを浮かべた。

「エリザベートよ。あたしの名前、そう言うの」

 そうして少女は踵を返し、再び螺旋階段を下っていった。


(エリザベート……?)

 何か頭にひっかかるような響きだった。それが何なのか思い出そうと頭に手をやる。そうして男は驚いた。風が、男の頭の上に宿っている。きっちりと撫でつけ整えていたはずの男の白い髪は、先程の風に乱されたどころか、今もその風に吹かれて絶えずなびいているのだ。

(何だこれは……。分からないことばかりだ。でも、こうして考えていても仕方がない……)

 男は首を横に振り、少女の後を追って螺旋階段を下った。






 果てなく見える螺旋階段。その上を、時計の針が進むように回って、回って。

「待ってください、エリザベートさん」

 男の声を背に、少女のすらりとした脚は軽やかに螺旋階段を下りる。ほのかなえんじ色の光が、その足取りに合わせて揺らめいた。やがて少女はまた階段の途中で足を止めた。そこでようやく追いつく男。少女の手が再び棚から一冊の本を抜き取る。どういうわけかその本は、またしても『時の書』の第四巻。前半部分の頁を開き、少女はその一節を読み上げる。



「 歴代の王は 竜の持つ体色によって順番に決められた

  それは光と色の織り成す 原色と混色

  すなわち 赤・緑・青・藍緑・紅紫・黄・白・そして黒

  最も新しき王は 漆黒の体を持つ竜の娘        」



 それを聞いた男は、頭の上に何か異様な熱を感じた。次の瞬間、ごうと音を立てて火の手が上がった。火はその身を高く躍らせて、何もかもを喰らい尽くさんとするかのように広がっていく。視界が歪むほどの熱波に、男は思わず両腕を上げて顔を覆った。炎の中で少女を探す。

(危ない、彼女が……!)

 少女は片手で開いた本を持ち、もう片手で杖を顔の横に掲げて、凛と顔を上げその場に立っていた。黒髪が火の燃える光を受けてきらめいている。膨れ上がる火の勢いに怯む素振りも見せず、まっすぐに顔を上げて。その口元には微笑みすら浮かんでいた。

 燃え盛る火の中、少女は杖を持った腕をスッと高く伸ばした。黒竜が抱いた宝玉が鮮やかに赤く輝く。すると火は跡形もなく消え去った。


 男は目を強くしばたく。少女の姿は、再び変化を遂げていた。

 黒竜の血の杖を手にするは、ひとりの大人の女性。その背は前よりも高くなっていた。カールの強い黒髪は腰の辺りまで艶やかに伸びている。身に纏うは、宝石の散りばめられた、流れるようなシルエットの黒のロングドレス。光を放つかのようなその様子。それは決して、縫いつけられた数えきれない程の宝石の仕業だけではないだろう。

「あなたは、あなたは一体……」

 手にしていた本を棚に戻すと、男の方を振り向いてその女性は淡い微笑みを浮かべた。

「エリザベート・フォン・シュヴァルツドラッヘ。……今は、それだけ」

 そうしてそのまま踵を返し、再び螺旋階段を下っていく。


(エリザベート・フォン・シュヴァルツドラッヘ。それは、それは、黒竜の王の名だ……!)

 書物で得た知識ではなく、実感としての確信が己の中にあった。しかし男の記憶はそこから断絶している。なぜ自分はそのことを知っているのだろうか……? 男は頭に手をやった。その指先に触れた熱さに驚く。比喩ではなく、頭が燃えていた。先程の火が燃え移って消えなかったのではない。男の髪が、揺らめく火そのものになっているのだ。

(何故……。ああ、ダメだ、立ち止まっていては。追いかけなくてはならない)

 男は頭を幾度も横に振り、女性の後を追って螺旋階段を下った。






 果てなく見える螺旋階段。その上を、時計の針が進むように回って、回って。

「お待ちを、エリザベート様。どうかお待ちを……」

 黒いドレスを纏った女性はするすると螺旋階段を下りていく。宝玉の放つ明るい朱色の光がそれに伴う。彼女は階段の途中で足を止めた。男が追いつく。棚から取り出される本はまたも『時の書』の第四巻。そうして若き女王は中頃の頁を開き、一節を読み上げた。



「 世界を成す四元素を従える竜の国の王に 謁見を願う者は後を絶たず

  各地の竜は無論のこと 新しく世界に誕生した「人」なる生命も

  人は竜よりずっと小さく 竜に恐れをなす者も少なくなかった

  そのため竜は 対等な会話のためなれば人の姿を取ることも是とした 」



 男の頭の上、何かが膨れ上がるような感覚があって。今度は辺りに水の渦が溢れ返った。それはまるで、巨大な手がむんずと掴み掛かって引き摺り込むかのような恐ろしいうねり。男は両の脚を踏ん張り、ごうごうと音を立てる奔流に抗った。その間も視線は彼女を探す。

(彼女は、果たして……)

 若き女王は片手で開いた本を持ち、もう片手で杖を顔の横に掲げて、凛と顔を上げその場に立っていた。黒髪が水にたゆたう様は、逆巻く水の激しさとは裏腹に実に優美なものだった。まばたきの一つすらせずに。その口元には微笑みすら浮かんでいた。

 荒れ狂う水の中、女王は杖を持った腕をスッと高く伸ばした。黒竜が抱いた宝玉が鮮やかに赤く輝く。すると水は夢か幻だったかのように引いていった。


 男はそれを凝視する。彼女の姿は、またしても変化を。

 黒竜の血の杖を手にするは、押しも押されもせぬ誇り高き貴人。カールの強い黒髪を豊かに結い上げて。腰の辺りからたっぷりと広がった厚手の生地の黒いドレスは、まるで世界を覆う空のよう。そして何よりも、彼女の内側から放たれるオーラが、それが決してただの比喩ではないことを物語っていた。

「ああ、偉大なる女王様、あなたは、何故、どうして……」

 手にしていた本を棚に戻すと、男の方を振り向いて女王は淡い微笑みを浮かべた。

「まだあともう少し足りないようね。……ね、そう思わなくて?」

 そうしてそのまま踵を返し、再び螺旋階段を下っていく。


(エリザベート・フォン・グロウス・シュヴァルツドラッヘ。ああ、偉大なる我が女王よ……)

 かの方は一体、何を。いや、そう思う自分は一体、何者なのか……。まとまらない思考。めまいがする。男は頭に手をやった。男の頭の上には水が湛えられていた。女王がその手にした杖で受けたはずのあの水である。その今は静まり清冽な水に手をやっても、男の頭は冷えない。

(分からない、分からない、分からない……。ああ立ち止まるな、追いかけなくては……!)

 男は強く頭を横に揺さぶると、女王の後を追って螺旋階段を下った。






 果てなく見える螺旋階段。その上を、時計の針が進むように回って、回って。

「ああ、偉大なるエリザベート陛下。どうか、どうかお待ちを……!」

 女王は一歩、また一歩と螺旋階段を下りていく。はっきりとした赤色の光が男の視界の中できらめいていた。女王が足を止めたところでようやく男は追いつく。棚から取り出されるのは『時の書』の第四巻。そうして女王は終わり頃の頁を開く。その声が一節を読み上げる。



「 それが理なれば然もありなん やがて竜と人は相容れぬものとなった

  長きに渡る戦いの末、数多の色の竜は次々とこの地から失われ

  最後まで立ち続けた漆黒の王も 果てには人の手で討たれたのである

  王に宿りし四元素は 世界を揺るがした後どこかへ消え失せたという 」



 頭の上、渦巻くものが重い。そう男は感じる。足下で地面が割れた。そこに落ちる間もなく、怒涛の勢いでせり上がってきた土が溢れ返り、何もかもを飲み込んだ。視界が塞がれていく。男は無我夢中で両腕を振るった。上も下も分からぬ中で男は、彼女の姿を求めた。

(ああ陛下、陛下は……!)

 偉大なる女王は片手で開いた本を持ち、もう片手で杖を顔の横に掲げて、凛と顔を上げその場に立っていた。その豊かな髪に土は付くことなく、黒々とした輝きを誇ったまま。胸の辺りまで埋まりかけているにも関わらず、一切動じることはなく。その口元には微笑みすら浮かんでいた。

 うねりのたうつ土の中、女王は杖を持った腕をスッと高く伸ばした。黒竜が抱いた宝玉が鮮やかに赤く輝く。すると土は地割れの跡すら残さずに消えた。


 男はそれを黙って見ている他なく。そうして女王の姿は、変化を遂げていた。

 黒竜の血の杖を手にするは、歳月を丁寧に重ねた老婦人。背丈こそ縮めど曲がることのない背筋。黒々としたカールの強い髪を、高い位置で大きくシニョンにまとめ上げている。ケープをゆったりと巻き、ドレスの生地はしなやかにその身を包んで、足元の辺りで波紋を描くように優雅に広がる。その色は黒。褪せることなく、陰ることのない、輝きだった。

「ああ。ああ。エリザベート・フォン・グロウス・シュヴァルツドラッヘ・エンデ……」

 手にしていた本を棚に戻すと、男の方を振り向いて女王は淡い微笑みを浮かべた。

「ええ、私は最後にはそう呼ばれましたね。偉大なる黒き最後の竜の王、と……」

 そうしてそのまま踵を返し、再び螺旋階段を下っていく。


(エリザベート・フォン・グロウス・シュヴァルツドラッヘ・エンデ! そう、そうだ。ああ、偉大なる黒き最後の竜の王よ……!)

 男はよろめくようにふらふらと頭に手をやった。触れた先は豊かな土。そこには草木の芽生えの兆しすらも現れている。

 だが、もはやそのことは気にもならなかった。思い出したのだ。自分のことも、女王のことも、すべてを。

 自分は四元素の精。黒竜の王に仕える従者。彼女の死を看取った者――。だがそれらの記憶すら、男にとって今はどうでも良く。

(王よ、王よ。あなたは今、どこへ行こうというのか。ああ、また私を、置いて……?)

 愕然と首をわずか横に振り、そうして男は無我夢中で螺旋階段を下った。






 果てなく見える螺旋階段。その上を、時計の針が進むように回って、回って。

「ああ偉大なる陛下。エリザベート様。後生です。待ってください、行かないで……!」

 女王は実にゆったりとした歩みで螺旋階段を下る。その手に持つ真紅の光が、男の目線の先でまばゆいばかりに輝いている。その進みは遅く、それにも関わらず、男がどんなに急いでもその距離を縮めることはかなわなかった。男が追いついたのは女王が足を止めた時になってようやく。しかし今、女王がその足を止めて向いた方向は壁となった書架ではなく、ぽっかりと開けた空間の方だった。


「な、何を……」

 息を切らせてそうつぶやきかけ、男は「あっ」と声を上げた。

 エリザベートその人は優雅に首を回してその瞳を男に向けると、螺旋階段から一思いに飛び降りた。

 男はつんのめるようにして階段のへりに駆け寄った。這いつくばり、それ以上に身を乗り出し、下を覗き込む。

 吹き抜けとなったその底は遥か遠く闇に沈んで見えない。その中で黒衣がはためく。その黒い姿は小さくなり小さくなり。そして、見えなくなった。


「ぁぁ……、ああ……」

 男の口から嗚咽が漏れる。

「あなたは、また……」

 階段のへりを掴んでいた手を離し、男は真っ逆さまに暗い穴の中に落ちていった。底知れぬ闇へと、自分の体が飲まれていく。


 その時。

 強い輝きが男の視線の先で光った。その色は黒竜の血の杖の戴く宝玉のように赤く。途端、男の髪が逆立った。その白い髪に、風、火、水、土、それら四元素が浮かび、輝き、踊る。色とりどりの光が満ちみちて、男の体を包んだ。

 暗い底より、その闇よりもずっと強くずっと黒い、一頭の竜が首をもたげる。溢れ返る色とりどりの光の中、それらをすべて受けてなお強く黒くそこに在る黒き竜。全身を包む黒い鱗は燦然と輝き、大きく広げた翼は世界のすべてを覆うよう。男が記憶の蓋を固く閉じ、その最奥に大切に大切にしまい込んだ姿が、目の前にあった。


「ああ、ああ……! あなたは、また……!」

 歓喜の声が男の口を突いて出た。

 竜は一つ大きく羽ばたくとその背に男を受け止めた。優雅に首を回してその瞳を男に向け、淡い微笑みを浮かべる。

「長らく待たせましたね。ずっとあの杖を持っていてくれたこと。心より礼を述べます。ありがとう」

 輝きに満ちた宝玉のような瞳が男の顔を映す。

 男の意識は過去へと飛んだ。






 『時の書』にも綴られた在りし日。

 偉大なる黒き最後の竜の王が討たれた時。竜の王に宿りし四元素の精は、輝きの失せた宝玉のような瞳を見つめる他なかった。

 黒き竜の体が失われていく。傷からは赤き血が滴る。そのにおいを流す風は己のものではなく。その体を燃やす火は己のものではなく。その全身を打つ水は己のものではなく。その体に付いた土は己のものではなく。それは何もかも、人のもたらしたもの。

 口から嗚咽が漏れる。それはもはや、ただの声では足り得なかった。

 風が、火が、水が、土が。今度は四元素の精の体から溢れ出していく。それはこの場だけに止まらず。天変地異、そう呼ぶべきものとなって。世界に広がり、飲み込み、押し潰して、すべてをなくしてしまおうと荒ぶる。四元素の精の、およそ当人の感覚らしいものは失せていく。

 その中で。


「およしなさい」

 その声は暗闇の中で輝くように。

「そんなに嘆き悲しみ、怒り憎しむものではありません。これも世界の理なれば。あなたはそれを壊してはならない」

「ですが、ですが……!」

 声を取り戻して、四元素の精は夢中で叫んだ。手に何かが握らされる。その感覚を得た。

「これをあなたに託します。私の血を以て創ったそれを頼りに私は戻ります。例え何があろうとも、私は戻ります。そうしたらその時は、共に行きましょう」

 視界の中、輝きが徐々に遠ざかっていった。

「だからあなたは、これだけを覚えていて。〝黒竜の血の杖を保管する〟。そうすれば、私は必ず――」

 輝きが遠く去り、荒れ狂う四元素も現世から遠く去り、四元素の精の意識も、遠くへ去った。




 老爺はふと目を上げた。いにしえの魔道保管庫のエントランスホールにて。その視線の先には、固く閉じた蓋と、一本の杖、そしてその周りでたゆたっている四元素の残滓が。

 老爺の館長はカウンターから出てどこからともなくロイド眼鏡を取り出し、その残滓の上に差し出しそっと手を離した。一人の男が、横たわった姿で現れる。色のない白い髪。その手には黒竜の血の杖を握りしめて。

「お前さん、ここで働くかの」

 目を開いた男に、館長はそう声をかける。何もかもを読み知っているかのような穏やかな表情で。

「お前さんにはそうじゃな、魔道具の管理をしてもらおうか。雇用期間は迎えが来るまでじゃ」






 男の意識がハッと今に戻った。竜の瞳は変わらずに淡い微笑みを浮かべて男の方を見ている。

「さぁ行きましょう。我々は勤めを果たした。ならば後は次代に任せて楽隠居と、相場が決まっています」


 果てなく見えた螺旋階段。その中を、垂直飛びにまっすぐと昇って、昇って。

 跳ね上げ扉からエントランスホールへ出る。

 ステンドグラスから光の降り注ぐ中、そこには館長が立っていた。老爺の館長は風変わりな姿をしていた。人と竜の混じったような姿。


 館長は、姿を現した黒き竜に深々と礼をした。

「偉大なる黒き最後の竜の王よ、長らくの御勤め、ご苦労様でございました」

 竜は老爺を見つめ言った。

「主従共々、世話になりましたね。手間を掛けさせました、時の。寛大な対応に、感謝を」

 老爺は「いえいえ」と首を横に振って答える。

「実を言いますと非常に助かりましての。……もう少し居てくれと頼みたいくらいですじゃ」

「いや」

 エリザベートその人は、まるで少女のような口調でそう言った。

「彼が大事なものだって知ってるでしょ。だってこのあたしのもの、なんですもの」

 最後その口端にチラリといたずらっぽい笑みが覗く。それに館長は微笑み、改めて深々と頭を垂れた。


 館長は身を起こし、男の方に目を向けた。色とりどりの光が男の顔の上で踊り、それに呼応するかのように男の表情は明るく輝いている。それを見て館長は再び微笑みを浮かべた。

「お前さんも長らくの間、御苦労じゃった。では、達者での」

 男はそれに答える。文字通り、顔を輝かせて。

「お世話になりました、館長……!」




 黒き竜はもう一度翼を羽ばたいてまっすぐに上へと飛び上がった。向かう先は丸天井のステンドグラス。それを突き破り、しかしステンドグラスには傷一つ付けず、その先の空へ。

 その際、天井に釣り下げられた巨大な鐘を竜の尾が叩いた。鐘の音が鳴る。一回、二回、三回……。

 遠ざかっていく黒い影が、色とりどりのステンドグラス越しに見える。時の変化を告げる鐘の音を背に、遠い彼方へと力強く飛んでいく。


 鐘の響く中、館長はカウンターデスクについた。鱗の生えた手で『時の書』第四巻の最後の頁をめくる。

 もう零れる光に変化はなかったのだが、その中でふと老爺は目を通していた書物から視線を上げた。

 あの地下への扉はその視線の先になかった。しかしその蓋のあった場所に一本の杖が落ちている。赤い宝玉を戴き、それを抱えるように鎮座する黒い竜の装飾が施された短い杖。その宝玉の色は鈍く、しかし一瞬、まばゆい光を放った。

「ほ……」

 筆を執り、数行を書き付けて本を閉じる。そこに四つ目の鐘が鳴った。

 老爺は立ち上がりカウンターから出ると本を棚に戻した。それは五つ目の鐘が鳴ったのと丁度同じ折。館長の姿が人間の老爺のものに変わった。『時の書』の五巻が机の上に現れる。

 館長は再び机に向かうと、今度は節くれだった手で『時の書』の頁をめくるのである。



 かくして真に 竜の時代は終わりを迎えた

 最後の竜が自らの翼で飛び立った時 その体と魂は共に空へと

 間際 黒き竜はその血を用いた一本の杖を地上に残し

 己の意思を貫かんとする者のために 親愛を込めて託したという

            『時の書』第四巻終章「変わる魔法の形」より





お題:指定の「魔法のお守り」をテーマにした短編(ノベルアップ+企画)

   お守り・「黒竜の血の杖 ~いにしえの魔道保管庫から発見された杖。媒体は竜の血だと伝えられている~」

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