異変と立場
冬の足跡が聞こえ始めている。
徐々に寒くなって来ているこの倫敦でも、石炭雨の影響か今日は一等に冷え込み、この秋で初めて談話室の暖炉に火が入れられた。
私は四つ備えられたソファの内の一つに座り、談話室に置かれていた書籍のページをめくっていたが、内容はほとんど頭に入って来なかった。
パチパチと薪がはじける音と、石炭雨が窓ガラスに打ちつける音だけが静かな談話室に響き、外を見れば煤煙を含んだ雲が低く垂れ込めている。
まだ日が沈む時刻じゃないのに外はひどく暗かった。この分でいくと明日も石炭雨が降り続けることだろう。
その時、コンコンコンと音がした。
書籍を本棚に戻して返事をすると、一組の夫婦が職員に連れられて入って来た。
案内されるまま私の向かいに二人が座る。
石炭雨のおかげで全員真黒な服を着ていて、まるで葬儀の場にいるような感覚が嫌だった。
……いや、実際目の前の二人は葬儀の時に浮かべるだろう表情と大差ないものをその顔に浮かべている。
キャロがいなくなって今日で二週間。
目の前のお二人はキャロのご両親だ。ほんの二回ほどだけれど、ご両親がキャロに会いに来た時に食事をご一緒させていただいたことがある。
なんと口を開けば良いのかわからず、ただ薪の弾ける音と、雨の音を背景に沈黙が進む。
いなくなって三日目までは学院側が内々に調べるだけで公にはしなかった。
顕学院の寮にはもちろん厳しく門限が決められているけれど、一年の内に何人かはそれを破って街を遊び歩く生徒が出る。私は、キャロはそんな性格ではないと学院側に訴えたが、結局スコットランド・ヤードにキャロの捜索届が出され、ご両親に一報が伝えられたのはキャロがいなくなってから四日が過ぎた時だった。
「すまないが……」
そんな中、キャロのお父さまが重たそうに口を開いた。口元に僅かにひげを蓄えた、いかにも貴族といった感じの方だ。
「あの子は……キャロルは、何か君に言っていなかっただろうか? 学院の話によると、キャロルが最後に言葉を交わしたのは君ということになっているのだが」
私は小さくかぶりを振った。
「言葉を交わしたのは私ですが……特別な何かをほのめかすようなことは何も。ただの雑談をしただけで……」
「そうか……」
お父さまは口をつぐんだ。
夫妻の顔には疲労の色がありありと見て取れた。キャロは時折ご両親の愚痴を冗談半分に話していたけれど、二人がどれだけキャロのことを大切にされていたのかは十分わかっているつもりだった。
まだ二週間。しかし、もう二週間とも言えた。
キャロの部屋には一つの書き置きがあった。
『アデュー、アデュー、アデュー。どうか、私を忘れてください』
達筆だったキャロの手で確かに書かれた言葉。
外出着も荷物もほとんど手つかずのままに残っていたそうだ。長いこと人目を忍んで過ごすのは難しいだろう。
スコットランド・ヤードも探しているのに何の手掛かりすら見つからないとあっては、どうしても頭には良くない考えばかりが思い浮かんでしまう。
私の胸にあるのは後悔ばかりだった。二週間前のキャロは確かにどこかおかしかった。
それを話しながら感じていたのに、私は深く何かを聞こうともしなかった。
もっと、もっと親身になって聞いていれば、もしかしたら、彼女がその心の中に秘めていた何かを話してくれたかもしれないのに、私は何も出来なかった……。
「あの」
次に口を開いたのはお母さまだった。
「お見合いのことについて、あの子は何か言っていませんでしたか?」
「お見合い?」
聞き返すと、お父さまは「おい」と少し咎めるような口調でお母さまに言った。
「でも、やっぱりそれしか……」
それに、お母さまが言葉を返す。
少しの沈黙。
お父さまは随分と悩まれた様子だったが、錆びついた機械が動くように言葉を吐き出していった。
「……娘がいなくなる三日ほど前に、見合いの話をしたのだ。その時、ひどく口論になってしまって……」
その言葉に、怒鳴り声を上げるキャロの姿を思い出した。
確かにあの翌日からキャロは学院を休み、その二日後にいなくなってしまった。
「何か、聞いてはいないかね?」
すがるような目。けれど、私にはどうしようも出来なかった。
「何も……お見合いの話も、今初めて聞きました……。ただ、彼女がひどく怒っていたことは覚えています。電話の後で……本人は少し気分が昂ってしまっただけだと言っていましたが、涙を見せて……」
私の言葉にお父さまは大きな後悔の色をその顔に露わにして俯かれた。
「やはりそうか……」
そしてそう小さく独りごちた。
言葉が見つからない。
そういった様子で彼は何度も口を開いては閉じ、苦渋を舌の上で転がすように味わうような顔をして、やや狼狽気味に言葉を続けた。
「愚かだったんだ、私たちが。あの子がそんなのことは何一つ望んでいないとわかっていたのに」
両目を片手で覆う。
どうしようもない後悔が彼の中でうずまいているのが私の目にもわかった。取り返しのつかない失敗を……そうなるだろうとわかりながらやってしまった。
その後、お父さまは、まるで私に懺悔するように言葉を続けた。
ルイス家の資金が段々と苦しくなりつつあること。
そして、ルイス家が持つ政治への影響力を欲したらしい新進の商会の幹部が、資金援助の話と共にキャロへの縁談を持ちかけてきたこと。
キャロが文筆家としての夢を持っていることも、貴族という制度にはほとほと嫌気がさしていたことも知っていたらしい。
もしルイス家という子爵貴族を存続させたいと思うなら、遠縁から養子を迎えて、自分とは勘当してくれと言っていたほどだったそうだ。
だが、それでもお父さまはキャロにルイス家に継いで欲しかった。
我が子可愛さというやつだろう。
それに、結局はそちらの方が苦労をせずに済むのは明白だ。
今でこそ女性作家はそこまで珍しいものではなくなったけれど、それでも女一人がペン一本で生計を立てようとすれば、並大抵ではすまない努力が必要なのは間違いない。
それであるなら、文筆は趣味として、あくまで貴族の娘として生きていった方が良いと考え、彼女に問うことすらせずにその見合いの話を承諾してしまったらしい。見合いを承諾したとあれば、それは結婚が決まったのと同義である。
全てを話し終わってお父さまは唇を噛みしめた。
もしかしたら、何か罰の言葉を欲しているのかもしれない。
なんでそんなことを。
そんなことをしたから彼女は。
あなたのせいで、彼女は。
そんな言葉を吐くのは簡単だったけれど、私にはそんなことを口にする気には到底なれなかった。
お父さまだって決して私利私欲やキャロのことを嫌ってそうしたわけじゃない。あくまでも親心からだ。そこにさらに鞭打つことなど私には到底出来そうになかった。
顕学院近くのホテルに泊まるというご両親を学院の門まで見送り、時計を見やる。
石炭雨のせいでもう辺りは暗かったが、まだ夕食までは少し時間がある。私はそのまま足をベイカー通り221Bへと向けた。
*
雨であろうがなかろうがここにはいつも人気がない。
いつもの扉には相変わらず鍵はかかっておらず、私は雨になるべく濡れないようにしながら中へと入って階段を上った。
これで、この要件でここを訪れるのは三回目だ。
ノックをしてもあまり意味がないとわかりながら一応ノックをして、それから扉を開く。
部屋の中ということで少しは暖かくはあったが、それでも暖炉はたいていないらしい。部屋の主は扉を背にした窓際の椅子に座って、フラスコに入った無色の液体を軽く揺らしていた。そしてこちらを向くことなく、
「何の用だ、リトルバード」
言葉はそう言っていたが、端から用件はわかっている。そんな語調だ。
「キャロの居場所を探して欲しいんです。協力してください」
私も端的に言葉を告げる。が、
「断る」
彼の言葉は、前の二回と同じものだった。
「どうしてですか? 彼女がいなくなってもう二週間が経ちます。スコットランド・ヤードも探しているのに、これだけの期間姿を消しているのはおかしいでしょう? 『怪異』っていうやつなんじゃないんですか?」
「スコットランド・ヤードに信頼を置き過ぎだ。中にはレディーコートのように多少は出来るやつもいるが、そんな人間ばかりじゃない。鉄道を使って外に出たということだって十分に考えられる」
「でも、前にも言ったじゃないですか。キャロの部屋には外出着も荷物も、ほとんど何もかもがそのまま残されていたんです。スコットランド・ヤードも念のため駅で聞き取りをしてくれたみたいですけれど、それらしい人は一人もいなかったって」
「それは彼女が単独で動いていればの話だろう? 外部の協力者がいれば話は別だ。この倫敦を離れるのは難しいことじゃない」
「そんなこと、キャロがする理由がありません。自暴自棄になったり、そういう無茶苦茶をするような子じゃないんです、キャロは」
「まるでそのお嬢ちゃんの全てを知っているような物言いだな」
どこかバカにするような口調に私はカチンときた。
「親友ですから。全てとは言いませんけれど、ある程度のことはわかっているつもりです」
「大した思い上がりだ。友情という言葉がいかに不確かなものなのかを知っているか? 『お互い友人だと言っても、それを信じるのは愚か者。この名ほど世間にありふれたものはなく、その実ほど天下に稀なものはない。』仏蘭西のとある詩人の言葉だ。覚えておくといい」
そんな彼の言葉に歯噛みする。
まるで私とキャロの間にあった友情さえも否定されている気持ちだった。
これがこの寵愛都市倫敦で名声を欲しいままにしているシャーロック・ホームズかと思うと悔しささえこみあげてくる。
「加えて言うなら、俺があんたの申し出を断っているのには別の理由がある」
「一体何の理由があると言うんですか?」
ぎゅっと目を細めて発した言葉は自分でもわかるくらいに怪訝なものだった。
彼はガラス瓶を机に置くとおもむろに振り返った。その顔は相変わらず目つきが鋭く、どこかむずがる子供を相手にしているようなものに見えた。
「リトルバード。お前にとってそのキャロとやらの娘がどの程度のものなのか知れないが、それにしてもお前の入れ込みようは褒められたものじゃない」
「幼い時からの親友なんです。必死になるのは当たり前でしょう?」
「いいや、当たり前じゃない。良いか? お前は、誰か一人を特別扱いしちゃいけないんだ」
不思議な物言いだった。まるで親が幼子に社会のルールを教えるような口調だ。
「そんなこと、あなたに言われる筋合いはありません」
「そうでもないさ。こう見えても俺はこの倫敦の平和と安寧の一翼を任された身でもある。違えそうな道から正すのも俺の役割の一つと言って過言じゃない」
「だから、どうして私がキャロを特別扱いしちゃいけないということになるんですか?」
「それこそ単純な話だ」
近くにあったマグカップを手に取ってミスタ・ホームズは言葉を続けた。
「それは、お前が愛されるべき永遠の少女だからであり、誰かを愛する少女ではないからだ。この幻想都市で皆に等しく女王陛下の愛が与えられるように、お前は皆から等しく愛されるべき少女である必要がある。その少女が誰か一人を特別扱いをしてみろ。平等に愛される存在が誰かを贔屓すれば、そのバランスは途端に崩れてしまう」
「言っている意味がわかりません」
「それはそうだろうな。ドクター・ドイルは、本当に何もお前に教えていなかったらしい」
ミスタ・ホームズは自分の椅子に座ってマグカップの中の珈琲をすすった。視線で「お前も座ったらどうだ?」とソファに向けられるが私はそれを無視した。ここに座って悠長におしゃべりに興じるつもりは毛頭なかった。
「物語は想像しているよりもはるかに単純なもんだ」
懐からパイプを取り出し煙草をつめると、ミスタ・ホームズは紫煙をくゆらせた。
「何もこの倫敦に住んでいる人間の全てが登場人物なわけではない。多くの人間は舞台に上がるどころか観客席にも座っていない人間だ。それでも、この倫敦は何の不自由もなく成り立っている。それは、物語というものが、例え役者がたった一人であったとしても立派に成り立つからだ。だが、役者が観客でもない人間に現を抜かし、舞台から降りるようなことがあればこの限りじゃない」
「わかりません。わかりません、ミスタ・ホームズ」
「それは、お前がまだこの倫敦を真正面から見ようとしていないからだ。もう薄々でも感じているんだろう? 理解出来ずとも、しっかりと感覚は捉えているはずだ」
彼の言う通り、このところ私の頭の奥底では常にツキリツキリと鈍い痛みがあった。
この倫敦という街に確かに存在している……目に見えない存在が私のすぐ横で手招きをしているかのような感覚。少しでも手を伸ばせば私は身体ごとずぶりとその中へと呑まれてしまうに違いない。
私は軽くかぶりを振った。
ここでこれ以上話していても彼は何のアクションも起こさないだろう。
「今日はこれで失礼します」
「あまり首を突っ込むなよ、リトルバード。お前は大切な登場人物だ」
その口調はまるで悪戯好きな仔ネコに釘をさすかのように優しいもので、私は余計に苛立たしく思えた。
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