捜査

 教授の邸宅から学院まではさほど距離がなく、歩いて十五分程度で私とミスタ・ホームズは顕学院の正門にたどり着いた。

 中に入ると、学生の姿はいつもと変わらないくらいに見受けられたが、その誰もが浮足立っているように感じられる。全ての情報は秘匿になっているはずだが、人の口に戸は立てられるものじゃない。

 医学科の教授たちが次々と意識不明――実際、父は寝ているだけだと診断していたけれど――になっていると、どこからかもれてきたのだろう。

 ひそひそと話す声には、未知の伝染病、殺人未遂、ここまで医学の発展した現代において、英知の結集と言っても良いだろう顕学院なのに、呪いといった類まで交じっていた。ここは未開のインディアンが輪を作って変てこな儀式をしたりなんかしない。

 そんな混乱のさなかにあるからか、どこからどう見てもその場に相応しいようには見えないだろうミスタ・ホームズの姿に気付く者はいなかった。


「リトルバード。件の教授の部屋はどこにある?」

「件のって、コリンズ教授の部屋ですか? それなら、教授棟にあると思いますけれど……」

「目的地はそこだな、案内を頼む」

「それは構いませんが、でも――」

「アリスっ!」


 飛んできた声が私の声を遮った。見ると、少し離れた所からキャロがこちらへと早足で向かってきた。


「なにやってるのよ、こんなところで。医学科、大変なことになってるみたいじゃない。朝から顕学院中がその話題でもちきりになってるわ。医学科は全講義を休止にするし、呑気に歩いてたら野次馬に囲まれるわよ」

「そのお嬢ちゃんは?」


 一息に言ったキャロを見やってから、ミスタ・ホームズが私に問うた。


「えっと、私の友人です。キャロル・ルイス。文学科に所属していて……」


 そこまで言うが、本当に珍しく、ぽかんとした表情をキャロは浮かべていた。

 よもやそこにいる黒ずくめの男が私の知り合いとは思わなかった。そんな言葉がありありと顔に書いてある。


「キャロ、こちらはえっと……」


 そこで視線をホームズにやる。


「ジョン・スミスだ」


 そこはやっぱり偽名を使うんだ、なんてことを思う。


「み、ミスタ・スミス。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。文学科所属、キャロル・ルイスと申します」


 慌てた様子でスカートを軽くつまみ挨拶をしたが、その様子はどこかいつもと違っていた。流石のキャロもこの男の鋭さには何か感じる所があるのかもしれない。


「挨拶をしてもらっておいて悪いんだが、これで失礼させてもらう。生憎時間が惜しいんだ」


 言うが早いか、くるりと身を翻してミスタ・ホームズは歩き始めてしまう。


「ごめんね、キャロ。私も行かなきゃ」


 困り顔のキャロを放っておくのもあれだし、もう少し詳しい説明もしたかったけれど、今は確かにそんなことをしている場合でもない。それに、ここで自分の役割を投げだすわけにもいかない。


「え、あ、アリス。今のって……」

「詳しくは言えないけど、その内話すから。ゴメンね」


 言って、私はミスタ・ホームズの後を追った。

 キャロから少し離れてから、彼は前を向いたまま聞いてきた。


「今のお嬢ちゃんとは親しいのか?」

「一応、この学院で一番親しくしている親友です」


 それに何か言うのかと思ったが、無表情のまま「そうか」とだけ言って歩を進める。


「そう言えば、何かを言いかけていたな」

「あ、はい。別に教授棟に案内するのは構いませんけれど、アポイントもないのに中には入れないはずです。最初にどの教授に用事があって、どんな用件で面会をしたいのか。事務室を通さないと」

「なんだ、そんなことか」

「そんなことって……」


 なんてマイペース……という言葉でまとめてしまって良いのだろうか?

 なんだか、目的のためには手段を選ばず。そんな思考と手段が人の形になったのがミスタ・ホームズのように思える。


「あれが教授棟です。でも……」


 そこには、いつもなら一人の警備員が立っているのだが、今日はこんなことがあったからか二人の警備員が立っていた。だが、ミスタ・ホームズはそんなことお構いなしに進んでいった。


「え、あ、ミスタ・ホームズ!?」

「あまり俺から離れるな。認識されるぞ」

「認識される?」


 一体何が?

 そう疑問に思う前に、前を歩く彼は悠々と二人の警備員の間にある扉を目指し、案の定警備員に止め――


「……なんで?」


 ――止められず、まるで警備員は誰も通らなかったかのように突っ立っている。私も恐る恐る彼に続くが、やはり警備員の二人は私の方に目をやる様子すらなかった。

 まさか精巧に作られた人形じゃないかと思ったが、そんなバカな話もない。

 ここにいる私たちなど目に入らない様子で、仕事が終わった後どこで一杯やるか、なんて話をしている。


「どういうこと……?」

「別にそいつらを観察してても面白いことはないぞ」


 こんなことがあって良いのだろうか?

 いや、そんなことはない。

 そう思うが、ミスタ・ホームズは入ったところにある案内板を見て、目的のコリンズ教授の部屋を三階に見つけると悠然と歩き始める。そこには、誰かの目を気にするという様子は一切なかった。

 廊下を歩き、階段を上って、三階にある教授室の前にまでやってきた。

 中で何人かの職員とすれ違ったというのに彼らは、私は元より、完全に部外者で不審者とさえ言っても良いだろう彼に気付く様子すらなかった。

 一体どういうことなのか、正直に言って訳がわからない。


「どうした、そんなに困惑した顔をして」

「それは……そうなりますよ。どうしてミスタ・ホームズは誰にも気づかれないんですか? ……もしかして、私だけが見てる亡霊なんてことはないですよね?」

「当たらずとも遠からずかもしれないな」


 ニヒルに笑い、そのまま部屋のドアノブを掴むが、捻っても鍵が開かない。

 それはそうだ。主がいない間、部屋には鍵がかかる。当たり前のことである。ここの事務室にはマスターキーがあるだろうけれど、もしや今度は事務室に堂々と乗り込んでそれを奪ったりするんだろうか?

 そんな風に不安に思ったが、そんな私の想像はあまりにも甘かった。


「え?」


 彼はスーツの内ポケットからリボルバーの拳銃を取り出すと、


「耳を塞いでおけ」

「っ!」


 一切の躊躇なく扉めがけて引き金を引いた。

 響き渡る甲高い発砲音。

 とっさに耳を押さえたが、破裂音が耳の中にぐわんぐわんと残る。そして、鍵が壊れたドアをミスタ・ホームズは片足で蹴飛ばした。


「まったく、手間をかけさせてくれる」

「あ、貴方、ば、バカじゃないんですか!?」

「そうピーチクパーチク喚くな」


 ああ、もう!

 こんな音をさせたら今に大量の人が押し寄せてくるに決まっている!

 なんとか言い訳を考えようと頭を回すが、十秒経とうが二十秒経とうが、そんな様子は微塵も何もなかった。

 口の奥から乾いた笑いが漏れてくる。

 ここまできたら本当に夢物語だ。自分はまだベッドの上で眠っていて、次の瞬間に目が覚めたら見慣れた天井が見えるんじゃないかとすら思う。

 しかし、「いつまで突っ立っているつもりだ?」というミスタ・ホームズの声が現実に引き戻してくる。見ると、彼は手慣れた様子で部屋をぐるりと見渡していた。

 ……もう、どうとでもなれ。

 半分以上諦めの境地だったと言って良い。

 実のところ、教授の部屋というものに入ったのは初めてのことだった。

 流石叡智の集まる顕学院で教鞭をとる人の部屋のことだけはある。部屋の中は広々とした印象を抱かせた。歓談用のソファが低いテーブルを挟むように置かれ、奥には教授用のデスクとチェア。奥と右手の壁は本棚にあてられ、大小様々な本が収められていた。乱雑に置かれた紙の束や無造作に置かれた本が、ここがサンプリングで作られたものではなく、普段から使われている場所だという感覚を与えてくる。

 ミスタ・ホームズはそんな紙の束やら本を端から手に取ると、いつもの鋭い目で手早くそれらを見ていった。

 散らばっているものに目を通したら、今度は書棚。

 収められている本にはあまり目をやらず、ひもでくくられた紙の資料を重点的に調べているようだった。

 もちろん悪いことだとは思ったし、止めるべき行為だとは思ったが、私がそんなことを言った所で聞くような人じゃないだろう。それに、これも事件の解決のため、と言われれば、多少は目をつぶらざるを得ない。

 それでも……


「こいつもハズレだな」


 左手に持った紙の束をその辺に投げ捨てて、私は慌ててそれを拾い集めた。

 この、手慣れた泥棒のような行為はなんとかならないのだろうか?

 使った物は元あった場所へ。初等科の子供でさえちゃんと出来るようなことなのに彼は全く気にも止めている様子はない。

 そこまで切迫しているのか――単なる性格か、私にはどうも後者に思えて仕方がない。

 全部が全部というわけにはいかないけれど、彼が散らかしたものを私が片付けて、そんなことを二十分も繰り返したところで、ミスタ・ホームズはあらかたの本棚を調べ終わったようで、次は教授のデスクに目をつけた。

 流石にそこをいじるのは……と思った次の瞬間には、彼は一番上の引き出しを開けていた。そして、中のものを片端から掴み取っては机の上にばら撒いていくものだから、もう私の手にも負えない。

 黙って彼の行動を見守るほかにどうしようもなくて……そんな機会がくるかどうかはわからないけれど、もし教授に謝罪を出来る時がきたら謝らないといけないだろう。

 そして、最後の引き出しを開けようとしたその時。ガチ、という鍵の引っかかった音と共に、ミスタ・ホームズは「ちっ」と舌打ちをした。

 また拳銃をぶっ放したりしないわよね……?

 そう思ったが、彼はポケットから黒の小さな箱を取り出した。開くと、中には様々に曲がった針がねのようなものが揃えられている。

 彼はその内の二本を取り出すと、鍵穴に突っ込んだ。そして、ものの二十秒もしない間に、カチャンと鍵が開く音がした。

 これはまた見事な手つき、としか言いようがない。彼には本格的に泥棒の才能があるのか……もしかすると、泥棒と名探偵は紙一重だったりするのだろうか?

 そして他の引き出し同様に中を漁ると、一枚の紙を手に取って目を細めた。


「………………」


 この部屋に入って初めて長く動きを止めたと言っても過言じゃないかもしれない。そのくらいじっと紙を見やってから、


「……ベッティ・ハイドリッヒ。その名を持つ人間に覚えがあるか?」


 私に問うてきた。


「ベッティ・ハイドリッヒ……それって」

「覚えがある、という顔だな」


 彼は来客用のソファの一つに腰をかけると、向かいに座るように私にあごで示した。 

 スーツの内ポケットから一本の紙を巻いた短い棒を取り出して口にくわえ、教授の机にあったマッチを勝手に拝借して先端に火をつける。

 話には聞いたことがあるが、あれはおそらく紙巻き煙草というやつだろう。二十年ほど前にあったクリミア半島での戦争中、兵士がパイプの代わりに生み出したと聞いたことがある。ただ、あまり広まっているとは言えず、実物を見るのは初めてのことだった。


「それで、そのベッティとやらは何者なんだ?」


 大きく息を吸って、白い煙を口から吐き出しながら問いかけてきた。

 私は「この事件と関係があるかどうかはわかりませんけれど」と前置きをしてから、この間あったことを出来るだけ簡潔にまとめて話した。

 まるで一言も聞き逃そうとしない様子の彼は、全てを聞き終わった途端に、パシンと手に持った紙を指ではじいた。


「上出来だ。今回のホシは間違いなくそいつだろう」

「間違いなくって……」


 確かにあの様子からすればコリンズ教授に何かしら悪い感情を抱いていてもおかしくはないだろう。

 キャロの話ではかなり困窮しているということでもあったし、切羽詰まるあまりおかしな行動を起こしてしまった、というのも考えられる。

 けれど、ミスタ・ホームズがどんな情報を得ていたとしても、そう簡単に決めつけて良いものなのだろうか……?

 そんなことをぼんやりと考える私を置いて、彼は紙巻き煙草をテーブルにあった灰皿に押しつけると、もうこの部屋に用はないといった様子で部屋を後にしようとする。


「あ! ちょ、部屋! どうするんですかっ?」

「俺たちが出て行けば、架空の泥棒の仕業になってくれる。取られた物は医学生について多少詳細に書かれた紙切れが一枚。破損は一ヶ所。ヨーロピアンレッドウッド製のドアのみ。顕学院からすれば軽微なもんだろ」


 なんて破天荒。

 まるで犯罪の肩棒を担いでいるような気分に、心が罪悪感でチクチクと痛む。

 もしかして、他の教授の部屋も荒らし回るつもりだろうか? ちらりとそんな不安が心をよぎったが、その様子はなく、彼はあっさりと階段を下りて教授棟を出た。

 そのまま顕学院を出ると、すぐの道で金持ちの学生を狙い待っていたと思われる二人乗りの一頭立二輪の辻馬車を彼は捕まえた。

 さて、私はこの辺でお役御免だろう。

 この後彼がどうするのかはわからないけれど……まぁ、たぶん事件の解決に動くに違いない。見てくれや印象がどうであれ、彼が倫敦で名を馳せるシャーロック・ホームズであることには変わりない。

 私はコリンズ教授の家に戻った方が良いかもしれない。父がまだそこにいるかどうかはわからないが、九人もの患者を同時に診るとなれば、雑用をこなす人間がいるにこしたことはない。

 そんなことを思った瞬間、


「リトルバード、先に乗れ」


 そう私に告げた。


「先にって……馬車?」


 予想外の言葉に、我ながらなんとも間抜けに思える言葉が口から出てきた。


「この状況でそれ以外の何かがあると思うのか? 残念だが、願うだけじゃあ時間は止まってくれやしないぞ」


 急かされるままに馬車に乗り込むと、ミスタ・ホームズはそんな私の横に何の躊躇もないまま腰を下ろした。

 一気になくなったパーソナルスペース。触れざるを得ないミスタ・ホームズの身体に、自然と心がバクバクと早鐘を打ち始める。

 実のところ、父以外の男性と、二人乗りの馬車に乗るのは初めてで……こんな所を知り合いに見られたら何か勘違いされそうだ。

 淑女たるもの、易々と懐に入らせることなかれ。もう古臭いと言われてしまうかもしれないが、それでもこれではまるで逢瀬を楽しんでいるかのようではないか。

 しかし、当のミスタ・ホームズはそんな私の気など知るよしもないという様子だった。そして、後ろに座っている御者を振り向かないまま、ベイカー通り近くの大通りの場所を告げる。

 御者も御者で、私たち二人がこれから楽しいデートでもするかと勘違いしているのか、「はいよ」という返答にはなんだか変な意味合いが込められているように思えたが ……これはさすがに勘違いかもしれない。

 ピシャリと鞭がしなると、馬が小さくいなないて、レンガ造りの道をカタリカタリと馬車が進み始めた。

 大通りの流れに乗って倫敦の街を北上し始めた所で、隣に座ったミスタ・ホームズをちらりと盗み見る。

 彼は眉間に僅かに皺を作ったまま、腕を組んでじっと目を瞑っていた。その表情から何かしらの感情を読み取ろうとするが、生憎彼のポーカーフェースは完璧と言って良かった。ほんの一欠片、彼が思っていることのごく一部に、私は触れることすら出来なかったと言って良い。


「何か言いたそうな顔だな」


 そんな中、彼は片目を開けてこちらを見やってから言った。

 普段なら漆黒に見えるだろう瞳が、どういうわけか僅かに紅く色づいているように感じられる。


「言いたそう……と言うか、私にはチンプンカンプンで……その、犯人のことも、ベッティ・ハイドリッヒのことも……本当に彼が犯人なのか、犯人だとしても、どうやって教授たちをあんな状態にしているのか、とか」

「………………」


 その言葉に、彼は一層ぎゅっと目を細めた。

 どこかこちらをうかがうような目に、先ほどとは別の意味で心の臓が拍動を大きくする。独特の色彩を帯びているように見えるそれに射抜かれると、なんだか私がいけないことをしたような錯覚を覚えてしまう。

 十秒ほどそうやって私を見やった彼はついと視線を逸らせると、煤煙ですっかり曇り切った空を見やってから、大きく長く息を吐いた。そして、そのまま言葉を口にする。


「ボーダーラインにいる、という感覚はあるか?」

「ボーダーライン?」

「ああ、そうだ。今回のことを、他の単なる事件や事故と同じに考えているようじゃ、お前は永遠にこの都市の幻影に弄ばれることになる。この街は女王陛下に愛された幻想都市だ。人々の形なき強い想いを、それが正の方向か負の方向かに関わらず『怪異』という形で具現化してしまう」


 『怪異』。

 あの教授の家でも彼が口にした言葉だった。

 それがなんなのかは変わらずわからないままであったが、少なくとも常識に沿ったことではないのだろう。

 教授たちが置かれている状況。

 気づかれないミスタ・ホームズ。

 鳴り響いたはずの銃声。

 ミスタ・ホームズがさかんに言う『幻影』都市というもののせいなのか、それとも彼の影響なのか――少なくとも、彼に出会うまでこんな奇天烈な出来事には遭遇しなかった――それはわからない。

 だが、今の状況を自分の持っている常識で計ろうとするならそれは間違った答えを導き出してしまうに違いない。

 ……ああ、そうなると、先ほど顕学院で思ったことを少し訂正しなければいけないだろう。ここ倫敦は現代の英知が集まった場所ではあるのは確かだけれど、全部が全部解明されたわけじゃないのだ。


「もちろん全てではない。そして、想いも尋常なものでは意味がない。自棄は当然の上、楽観や悲観、極度の愉悦や失意といったものですら生ぬるい。無意識的な自我すら神から全肯定されるような絶頂。自分の足元に、無限に光を呑み込む深淵が造られたかのような絶望。それらが与えられた時、この都市はその人間の想いを形作る」

「……それが、今回の事件である、と?」


 そう問うと、彼は少しだけ……本当に少しだけだけれど、驚いたように私を見やってから、その赤色を纏った瞳を逸らした。


「物分かりが良いな。理詰めが大好きな顕学院に通うくらいだ。もう少し頭がお堅いものだとばかり思っていた」


 それはたぶん、今のミスタ・ホームズが私に送る最大限の賛辞だったに違いない。

 渋滞が頻発している今日この頃だったが、馬車は比較的スムーズに目的地について、私たちは大通りに降りた。

 人通りは決して少なくはない。けれど、不思議なことに誰ひとりとして大通りから繋がるベイカー通りには気付かず、私たちがその道へと足を踏み入れてもそれを目撃する人はいない。これももしかしたら『怪異』の一種とやらなのだろうか?

 誰もいない通りを、真っ直ぐ221Bへ。

 部屋に着くと、彼はいつもの部屋を素通りして奥に続くキッチンへと入っていった。

 珈琲でも淹れるのかと思ってそっと扉から覗くと、彼はさらに向こうの部屋に繋がる扉に鍵を差し込んでいるところだった。

 ガチャリ、と鍵が開く音が僅かに聞こえる。彼はそのまま扉を開くと、こちらを見やって手の仕草だけで「こっちだ」と言った。

 一体奥の部屋には何があるのだろう?

 そんなことを思いながら彼に続いて部屋に入り、私はその雰囲気に一気に呑み込まれた。

 その部屋は、この221Bの部屋の中でも一等異質なものだと言えた。

 あくまで常識というスタンスで言うのであれば、普段からミスタ・ホームズがいる部屋もかなり変わったものだっただろう。弾痕がある壁などそうそうないだろうし、手紙の類を机にナイフで刺し留めて置く人は今までに会ったことがない。一般的という言葉は必ずしも適用出来なかった。

 だが、この部屋はそれとはまた違った雰囲気を醸し出していた。

 真昼間であってもきっちりしかれたカーテンは相当厚手のものらしく、外の光をほとんど通さなかった。そして、部屋を見渡してもランプの類も見当たらない。つまり、この部屋にはいわゆる光源がなかったのだけれど、今は、少なくとも周囲の状況を把握できるくらいには灯りがあった。

 その源はこの部屋においてもっとも異質な、部屋のほとんどを占めるサイズのジオラマだった。

 大きな円形の土台に、ミニチュアの家がたくさん並んでいる。

 その土台からは立ち上るように青白い光がもれだして、部屋全体をぼんやりと照らしているのだ。

 この状況を異質と呼ばないのだとすれば、一体何が異質だと言えるだろうか?


「…………っ」


 青白い光に照らされたジオラマに近づいて、その精緻さに思わず息を呑みこんだ。

 家の一軒一軒がしっかりと作り込まれている。いや、すでにそういった範疇ではない。

 壁の汚れ具合から、店先に出ているのれん。木々の一本一本は少しの風が吹けば本物のそれのようにさわさわと音を立てただろうし、レンガ造りの道など、本物の何千分の一のサイズのレンガを幾万も敷き詰めてあるように見える。

 そして、そんなミニチュアの家々のどれもと言って良いほどに見覚えがあった。

 最初に見つけたのは、この倫敦でも目立つ時計塔だった。

 そこから視線を動かすと、水こそ流れていなかったが、大きな川がジオラマの中心を横切っている。

 その川沿いで見つけたのは馴染みのパン屋さん。

 もしかしてと思って見ると、昔通った公立学校に顕学院もある。

 敬愛する女王陛下がいらっしゃる宮殿ももちろん。

 そして、私が住んでいる、ドクター・ドイルの診察所。


「ミスタ・ホームズ、これは……?」

「見ての通り、この幻影都市のジオラマさ」


 彼はスーツの懐に手を入れ、再びリボルバーの拳銃を取り出した。今度はこのジオラマに銃弾を撃ち込むのだろうか?


「そう慄くな。別にこいつをぶっ放すつもりはないから安心しろ」

「べ、別に慄いてなんていません。少し不安に思っただけで……」


 彼はシリンダーの部分を銃身の外に押し出すと、中に収まっていた銃弾を手のひらの上に落とした。

 出てきた銃弾は五発。その内から一発をつまむと、彼は親指でそれを弾いてジオラマに放り込む。

 からっ、かんっ、と音を立てて銃弾が不規則にジオラマの大通りで大きく跳ね、二階建てのアパルトメントの屋根にぶつかってから、小さな通りにコロコロと転がっていく。

 完全な円柱形でもなく、その動きはランダムそのものになるはずなのに、私の目にはまるで見えない糸に引っ張られているか、銃弾そのものが意志を持って動いているかのように思えた。

 実際そう言っても差しさわりがないほどその動きはスムーズだった。

 そして、放たれた銃弾は二十秒ほど巨大なジオラマの中を転がったかと思うと、中央区でも北の方に位置する、非常に狭い裏路地でその動きを止めた。

 そこでミスタ・ホームズはその路地裏をじっと見つめたまま、おもむろに口を開いた。


「一つ質問をするが、リトルバード。次の石炭雨はいつになると思う?」

「石炭雨?」


 なぜそんなことをと思いながらも、私は窓際によると、分厚いカーテンをめくって外を見やった。

 先ほど馬車に乗っている時にも思ったことだが、工場から出ている黒煙は大分空を覆っており、今すぐに黒い雫となって落ちてきてもおかしくないほど垂れ込めている。


「早かったら、今夜中にも降ると思いますけれど……」

「なら、今晩が『その時』だな」


 彼の視線の先では、一発の銃弾が青白いジオラマの光を鈍く反射していた。

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