逆巻きの時計

 あまりにもさり気なく発せられた一言はするりと私の耳から入ってきた。


「自分が本当は何者か……?」


 どういう意味だろうかと思うと同時に、再び鼓動が強くなるのが感じられた。

 自分が何者か?

 変な問答にも思えたが、ただの言葉遊びのようには思えない。

 おそるおそる口を開く。


「私は……元々ストレートチルドレンだったと聞いています。スラム街で……ただ、あまりグループに馴染めていなかったようで、父はそれに見かねた、と……」

「なるほど、ドクターはそう教えているのか」


 ドクターはそう『教えて』いるのか。

 頭が言葉を理解すると同時に、まるで火にあぶられたかのような熱が一気に全身を駆け巡る。

 ひゅ、という自分が空気を吸う音が聞こえ、僅かに呼吸が乱れるのを感じた。

 じんじんとした脈動が頭の中で暴れる。


「違う……のですか?」

「ああ、違う。お前はそんな凡俗な者じゃない。ある意味この倫敦に選ばれた存在だ」

「倫敦に選ばれた存在?」

「ドクターがどういう風に教えているかはわからない。が、今のお前が大きな誤解をしているということだけはわかる。金銭的……またはそれに類する賎陋な理由で自分は捨てられた孤児である。そう思っている。違うか?」


 これも何かの観察と推測を元に導き出されたものなのだろうか?

 私は何も言えず、小さな呼吸音だけが耳の奥に残る。そして、それが彼の質問の対して何よりも雄弁な答えだった。

 彼は新聞をデスクに置くと、引き出しを開け、手のひらほどのサイズの木製の箱を取り出して私に差し出した。

 おずおずと手に取る。整った木目に、表面には丁寧にラッカーが塗られ綺麗な光沢を放っていた。それだけでも、それがかなり高価なものであることがうかがえた。


「開けてみろ」


 言われるままにゆっくりと箱を開ける。

 そこには黒のレザーに保護された一つの銀色の懐中時計が収められていた。何かのモチーフなのだろうか? 蓋には、月桂樹を思わせる複雑で精緻な装飾の中心に、一人の女の子がかたどられている。


「それはこの世にほとんど存在していない逆巻きの時計だ」

「逆巻きの時計?」

「開いてみればすぐにわかる」


 時計を手に取り、蓋の上部についていたつまみを押して蓋を開く。

 十二個刻まれた印に、中央では内部でかちかちと動く歯車の様子がうかがえた。シンプルな造りながらも、完成された上品さを感じさせる。

 時刻は十二時の少し前。十一時五十分ほどを指していた。だが、私はすぐにその指し示している時間が全くの無意味なものだと気がついた。

 逆巻きの時計。この時計の一番の特徴はすぐにわかった。


「この時計……」

「そう。その時計は時間を刻んではいるが、一般的な時間を刻んでいるわけじゃない。見てもわかる通り、逆回りに時を刻んでいる」


 カチリカチリ。

 一秒経つごとに、一番長い秒針が左へと動く。

 普段当たり前に右回りに動く時計を見ているからか、きっちり一秒ごとに逆回りに針が戻っていく様はどこか得体の知れない不気味なもののように思えた。

 その不気味さを振り払うように、私は口早に言葉を放った。


「それで、これが私と……私とどう関係しているんですか?」

「その質問には……そうだな、二つの意味で俺はまだ答えることが出来ない」

「二つの意味?」


 その問いかけに彼はすぐには答えず、パイプを口にくわえた。

 煙草を中につめ、ひどくゆったりとした動作で――もしかしたら、これは急いていた私が特別そう感じただけかもしれないけれど――火をつけると、二、三度パイプから紫煙を立ち上らせた。


「……アリス・リトルバード、と言ったな。物事を知るということは非常にリスキーなもんだ。知識を得ることによって大きく前進出来ることもあるが、時には自身を壊してしまうほど後退させてしまうこともある。これはわかるか?」


 その言葉に小さくうなずく。

 一般的に知識を得ることはその人の成長に繋がり、精神的な成熟をもたらす可能性を多いに秘めている。

 だが、そうだからと言って何もかもを知ろうとすることが絶対的な幸福であるとは言い切れない。

 無知ということが必ずしも悪徳でないとされるように、無知は純粋の象徴とも言え、時には知らなかった方が幸せなことだってある。

 彼はそれを言いたいのだろう。


「良いだろう。それが一つ目の理由だ。リトルバード。お前にとってこの知識が有益かどうか、俺には判断をつけられない。そしてもう一つ。仮にこの情報がお前にとって有益であったとしても、今はまだその時でないと思うからだ。真実を知るにはいくらかの覚悟が必要となるだろう」

「覚悟?」

「ああ。お前はまだこの幻想都市に対しての耐性がほとんどない。そんな状態で事実を目の前に晒されたとして、お前がその事実をどう扱うか……いや、今の段階ではまだ扱う扱わないという段階にまでいかないだろう」


 再びパイプを口にくわえて、彼はぎしりと椅子を鳴らせた。

 沈黙が降ってきた中でカチリカチリと逆巻きの時計だけが音を発しているように思えた。逆巻きに動く秒針が一周戻ると、長針が一つ左に動く。

 パイプをくゆらせながら、ミスタ・ホームズは鋭い目つきのまま私に問うてきた。


「お前は、真実を求めるか? リトルバード」

「それは……どういう意味でしょうか?」

「今のお前は幻想の中にいる。そのままでは真実に到達し得ないだろう。そう。まるで霧と煤煙につつまれたこの寵愛都市の中で生きているようなもんだ。それは幸福かもしれないが、真理を得るとは言い難い。そして、幻影に守られた幸福は、案外容易く崩れ去ってしまうことがある」


 もちろん、真実が必ず幸福だ、などというつもりは毛頭もないけどな。

 彼はそう付け加えて、何かを探るように私の両の目を見る。


「どうする、リトルバード? 幻影に守られ、己の真実など無視して生きる道もある。それを選択するのなら、今日のことはすっぱり忘れ、俺と会ったということも墓の下まで持っていけ。だが、もしお前が多少でもこの出会いに意味を見出そうとするのなら、俺の助手を引き受けてみるのも一つの手だ。そうすれば、この幻想都市の表の顔も裏の顔もそれなりに知ることが出来る」


 言葉を区切り、視線を外して彼はゆっくりと大きく呼吸をした。揺らぐ煙に部屋全体が不思議な霧に包まれていくかのような異質な空気を覚えずにはおられなかった。

 そして、再び私を――まるで研ぎ澄まされたナイフのようなその視線で貫こうとするかのように見やってから、


「そうしている内に、真理を……つまりは、自分が『何者』であるかという問いの答えを目の当たりにする機会も訪れるかもしれないな」


 彼はそう告げたのだった。

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