【KAC20234】人魚

雪うさこ



 ——クソ。加藤の野郎。おれのほうが。おれのほうが優秀なのに……。


 今月の営業成績ランキング。おれは一位だった。なのに。課長は何故おれを褒めない?


『加藤、がんばったな。お前、先月よりも20%もアップじゃないか。地道に頑張っているからな。お前は』


 みんなの前で褒められているあいつ。本当にむかつく。


『船越。お前はいつも通りだな。この調子で頑張るように——』


 ——船越はいつも同じだよ。

 ——あいつは、できて当然。だろう?


 そんな同僚たちの囁き。耳から離れない。眠れなかった。今日は新月だ。都会の夜は新月も満月も関係がない。いつだって煌々と明かりが灯り昼も夜も関係がない。建物の合間から少し見える夜空に星など見えるわけもなかった。


 30歳。独身。製薬会社の営業をしていると、時間などあってないようなものだ。一応、彼女はいるけれど、ゆっくりデートしている暇もないし、彼女もそこまで望んではいないのだろう。こっちから連絡をしなければ、全く音沙汰なしだ。


 つまらない人生だ。なんのために生きているのか。おれのしていることは、なんの意味があるというのだ——?


 そう考えると、到底眠ることなどできない。二年前に購入したマンションを飛び出して、深夜の散歩に繰り出そう。たまにはいいじゃないか。当てもなく、ぶらぶらと歩くのも。


 子どもの頃。夜の闇が恐ろしかった。夜中に間違って目が覚めてしまうと、周囲の暗さに心が押しつぶされそうになった。母親の耳元で「お母さん」と囁くと、どんなに熟睡していても、ぱっと瞼を開いて、おれを抱きしめてくれた。


 あの頃が一番幸せだったのかも知れない。小学生だったおれは、自由が欲しくて。大人が羨ましかった。好きなものを買い、好きな服を着て、好きなものを食う。それから、自由に好きなところに行けるのだ。


 ——ああ、早く大人になりたい。


 そう思っていた。けれど——。大人なんて、なってみるものではない。こんな理不尽でクソつまらない世界だったとは思ってもみなかったのだ。


 通勤で通る駅までの道を避けようと、何気なしに足を踏み入れた裏路地。歩いていて、ふと気がついた。雑居ビルの隙間は、先が確認できないくらい奥まで続いていて、そして真っ暗闇だったのだ。


 ——おれは大人だぞ。怖くなんてねーんだよ。


 夏だというのに、妙にひんやりした裏路地は真っ暗闇。昔、読んだ怪談話を思い出し、一瞬躊躇いの気持ちが湧き起こったが、それもすぐに奥底に押し込める。


「この世で一番怖いのは人間だ。それ以上に怖いものなんてあるかよ」


 まるで自分に言い聞かせるかのように、おれは歩みを進めていった。表通りの喧騒が、あっという間に聞こえなくなる。なんの音も聞こえなくなると、耳の奥でキーンという音が響いていた。


「どこまで続いているんだ?」


 こんなにビルが連続して建っている場所はなかったはずだが——。ポケットのスマホで位置情報を確認しようとしたその時。目の前がぽっかりと明るくなった。おれは足早に路地を抜けて、そこに足を踏み入れた。


 そこは——。ネオンや街燈が煌々と灯る場所ではなかった。何もないその場所は、ぼんやりと仄かに明るい。


 その中心には、自転車の荷台に古ぼけた風呂敷包を、紐で縛り付けようとしている老人がいた。彼はおれの足音に顔を上げる。


「おや、珍しいね。ここで人に出会うなんてね」


「な、なんだよ。じいさん。ここは——」


 彼は焦茶色の山高帽のつばをくいっと持ち上げると、にかっと不気味な笑みを見せる。その顔はシワシワでクシャクシャだ。開かれた口から見える歯は、ほとんどが欠損していて、二本ばかりしか残っていないように見えた。


「おいで。おいで。せっかくだからね。いいもの見せてやろう」


 じいさんは荷台に括りつけようとしていた風呂敷包を解いた。すると。そこには——。


 人魚がいた。硝子でできた金魚鉢に入っていたのは人魚だった。


 露出されている上半身は、まるで雪白の肌。腰から下は、浅葱色の鱗に覆われて七色の光を発しているようだった。


 は、黒目がちの大きな瞳でおれを見ていた。そうだ。この人魚は男だ。


 彼は、すらりと伸びたその手を、硝子の金魚鉢にくっつけて、おれを見ていたのだ——。


「じいさん。これは——」


「人魚さ。お前さん、知っているだろう?」


「知ってるって……いや。初めて見たんだけど……」


「気に入ったのかい?」


 小さい金魚鉢に入っている人魚は、おれを見つけて、優しい笑みを浮かべる。


 ——ああ。欲しい。これが欲しい。


「これ、おれにくれ」


「おやおや。お前さんじゃあ、ちょっと手に余る代物さ」


 じいさんはそう言って笑った。


「手に余るって——」


「この人魚は人肉しか食わない。お前さんに、それが準備できるというのかい?」


「できるさ。きっとできる。おれはなんでもできるエリートだからな。きっと、じいさんよりも上手くできるさ」


「そうかい。そうかい。じゃあ、明日の晩、またここに来るから。持っておいで。人肉をね」


 じいさんはそういうと、金魚鉢を風呂敷ですっかり包み込んでから、自転車に乗って走り去っていった。


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