失敗作と性転換


『痛い、痛い、お腹が痛い』


 苦しそうな声に引き寄せられて、学校敷地隣の森の中へ足を踏み入れた。その声は森の奥深くから聞こえる。更に進むとその先で、大きな木の幹に背中を預けてぐったりする熊の姿があった。まだ子どもみたいだけど、立てば成人男性くらいの身丈がありそうだ。


「こんにちは、お腹が痛いの?」

『だ、誰、人間……』


 熊という生き物は恐れられているが、元々臆病な性質なのだ。彼を怖がらせぬようそっと声をかけてみると、相手は怯えていた。だけど攻撃する元気はないみたいだった。


「少し触るね──痛いの痛いの飛んでゆけ」


 硬そうな毛で覆われた熊の腹部にそっと触れて、おまじないをかける。私の手を通して温かい力が流れ込む感じがしたのか、熊の体が小さく震えた。


「悪いもの食べちゃったのかな。あっちの方に行けば食べられる果実が実る木があるかも」


 ルーカスと遭難したときに食べた果実のことだ。あれは栄養価も高いらしい。

 鳥たちも食べてるから食べ尽くさないでね。私は熊にそう声をかけると、長居せずにすぐにその場から立ち去った。

 私が立ち去っていくのを後ろから見つめる視線に気づいたけど、振り返らなかった。別に見返りが欲しくてしてるわけじゃなくて、私がただ助けたかっただけだから。


 目を閉じれば、動物達のおしゃべりがあちこちから聞こえる。ここの森がどの程度の広さかは知らないけど、私がまだ出会えていない動物たちがいるんだろうなぁ。

 将来はやっぱり、動物たちと関わる仕事がしたいな。未来の自分を想像しながら、私は寮へ戻っていった。



◆◇◆



「本日は育毛促進剤を作成します」


 今日の薬学の授業では、以前私も使用した育毛促進剤を学ぶようだ。

 薬の作り方の手順や諸注意を聞いて、道具や材料を準備すると、いつものように調剤しはじめた。

 3年目となると小慣れしはじめてくる。だけどその慣れが怖いのだと先生はいつも口酸っぱく注意して来る。それはルーカスにもよく言われていることなので、私も慢心しないように心掛けている。


「リナリア! それは最後に……!」


 しかし私は作業工程をすっ飛ばしてしまったらしい。ルーカスから注意が飛んでくる。

 たった数滴、制作途中の薬に垂らしただけだったのだが、薬は突如ボコッと大きな泡を吹き出した。鍋の中で沸騰したかのようにボコボコッと波打つ薬。

 や、やばい消さなきゃ。

 とりあえず火を消そうと火元に手を伸ばしたが、強い力で抱き込まれてそれはできなかった。


「危ない!」


 焦った彼が私に覆いかぶさって来たのだ。その直後に彼の体がぎくりと強張り、苦痛の声を漏らす声が耳に届いた。

 肉の焼けた臭いがして、周りでは悲鳴が上がった。

 驚いた私は身を強張らせて固まる。彼は私を庇って怪我をしたのだ。


「クライネルト君、急いで医務室へ! 君達は教室内で待機! それと作業は一旦中断するように!」


 すぐさま先生がルーカスを浮遊術に浮かせて搬送した。教室内にとり残された私はオロオロしていた。

 また私はやらかしてしまった。ルーカスにもあれだけ手順を守れと言われたのになんて大変なことをしでかしたのだろう。自分の失敗がいつも以上に情けなくて恥ずかしくて悲しくなった。

 私が怪我させてしまったのだ。また、彼を傷つけてしまった。


「大丈夫よ、リナリア。あとでお見舞いに行きましょ」

「薬を作るときはちゃんと手順を確認しなきゃ。一歩間違えたら大事故よ」


 友人達は私の肩を軽く叩いて慰め、優しく窘めててくれた。だけど私の心は沈んだまま。本当、自分が嫌になる。成長できたと思ったのに、私はいつもどこかでやらかしてしまうのだもの。


 そのあとしばらくしてから先生だけが教室に戻ってきたので、ルーカスの容態はと尋ねると、先生は困った顔をしていた。


「火傷はすぐに治ったけど……ちょっと別の問題が出てきて。ブルームさんが作った薬の鍋、調べるのに一旦預かってもいいかな?」

「……? はい、構いません」

「あぁ、それと彼の意識ははっきりしているからそこは大丈夫。お見舞いにいってご覧。驚くと思うけど」

「?」


 意味深なことをいう先生に私は首を傾げる。

 その後私の薬のせいで人が怪我したこと、作業手順を無視したことをしっかり先生に注意された。こればかりは私も自分が悪いと理解しているのでおとなしく説教を受け入れた。

 罰として自分とルーカスの使用していた道具を片付けること、今日の授業の薬の製造工程をレポートにして提出すること、後日薬を作り直して提出を命じられたのである。



◇◆◇



 授業を終えてから私はすぐに医務室に駆け込んだ。

 扉を開けると出迎えた医務室のキルヒナー先生が私の顔を見るなり「また怪我をしたの?」と尋ねてきたので、私は否定する。


「違います。ルーカスはどうなったんですか?」


 怪我も意識も問題ないとは言われたけど、それだけじゃ安心できない。ルーカスの無事な姿をこの目で確認しなきゃ安心できない。


 先生は合点がいったようで、「元気よ。少なくとも精神に異常はないわ」と言いながら医務室の奥に誘導した。

 真っ白なカーテンで目隠しされたベッド。そこでルーカスは休んでいるらしい。


「クライネルト君、ブルームさんがお見舞いに来たけど、開けてもいいかしら」

「……どうぞ」


 カーテンの奥から返事があった。

 しかし私はそれに異変を感じる。声変わりを迎えてすっかり低くなってしまった彼の声が、以前のボーイソプラノに戻っていたからだ。

 もしかして、私が失敗した薬による影響……? 変わり果ててしまった彼の姿を想像しながら、先生によって開かれたカーテンの先にいる人物を見て、私は目を見開いた。


 腰の辺りまで伸びたダークブロンドの髪、群青の瞳の美しい女の子がそこにいたからだ。彼女は美しい顔をしかめて気まずそうに目をそらしていた。


「なんて美しいの……」


 私が感嘆のため息をもらしながら称賛すると、ベッドの上の住人になっている彼女は不快そうに眉間にしわを寄せていた。

 それにはっとした私は冷静になった。

 私はルーカスのお見舞いに来た。先生はここに誘導した。ぱっと見だとルーカスの妹のように見える彼女は、おそらくルーカス本人だ。


「え、えぇと、ルーカス? よね?」

「……君って本当にびっくりするようなことしでかしてくれるよね」

「な、なんで女の子みたいになっているの?」


 最近じゃ私よりも背が高くなっていたのに、すっかり身体も小さくなってしまっている。彼の身になにが起きたのだろうか。


「それは僕が聞きたいよ。育毛剤がなぜ性転換薬になるんだい?」

「……えぇと、ごめんなさい。でもとてもきれいよ、ルーカス」

「嬉しくないよ」


 私のせいだと言外に言われて、謝罪と称賛を投げかけたけど、彼の機嫌は急降下してしまった。

 どうしよう、怪我をさせた上に性別を変えてしまったなんて自分で自分が恐ろしい。不機嫌なルーカスを前に私は迷った。どうやって彼に詫びようかと。

 そしてあることを思いつく。


「あの、今のあなたの体の大きさじゃサイズが合わないと思うの。私のお洋服貸すわ」

「必要ないよ」

「じゃあ新品の使っていない下着あげましょうか」

「君は僕を変態にしたいのか」


 よかれと思って提案したけれど、彼はすべて断ってきた。

 でも男性用の服じゃぶかぶかだと思うし、下着だって不都合が出てくると思う。それに今は同性同士だから変態も何もないと思う。


「君はレディなのだから慎みを」

「なにを言っているの! 今のあなたは私と同じ女の子なのよ!」


 ルーカスはいつものように私を注意しようとしてきたけど、今回ばかりは私も言い返した。


「あなたの理論でいうとあなたも慎みを持ってレディとして生きなくてはならないの!」


 今のルーカスは誰が見ても見惚れてしまう超絶美少女なのだ。きっと好意を抱く男子だって出てくるはず。だめだ、今の彼……いや彼女を放置しておけない。私以上に危険な気がするんだ。

 白くて小さくなった手を握り締めると、ルーカスの青白かった頬に赤みが差す。


「大丈夫、私があなたを守るわ!」


 私の誓いにルーカスは目を丸くして固まっていた。

 女性としての自覚が生まれないまま、閉鎖された学校に投入されたらきっと何かしらの問題が生まれるに違いないわ。これに関しては女性歴14年の私の方が詳しいからわかる。

 いつもルーカスに守って貰ってばかりだから今回は私が守ると言ったのだけど、ルーカスはなんだか泣きそうな顔をしていた。


「やめてくれ、僕の男としての矜持が折れ曲がりそうだ」


 遠回しに私じゃ力不足だって言いたいのだろうか、それは。

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