第10話 運悪く置かれた場所に坐して滅びるよりも

 ところで。

 私と孔明先生を引き合わせてくれたのは、三国志の幕開けから喜怒哀楽を分かち合ってきた劉備(字は玄徳)公だった。


 命としのぎを削る乱世にありながら玄徳公は、居城こそ持たないものの、その仁義と名声は既に天にとどろいていた。

 その玄徳公が、まだ何の実績もない、晴耕雨読生活を営む無名の、二十歳も年下の孔明先生を迎え入れるべく、三度も礼を尽くして山奥にある庵を自ら訪問したのが世に言う「三顧さんこれい」である。

 三顧の礼に感激して出廬しゅつろした孔明先生が臣下になっても、玄徳公は昼夜も年齢差も問わず敬意を払い続け、その水魚の君臣関係は、一国の客将が一国の皇帝になっても変わることはなかった。


 当時、たかが十三歳の私でさえ知っていた「三顧の礼」に見る、人との接し方。人生の大先輩にあたる担任教師は、まさか、ご存知なかったのだろうか? 


 私が師と呼ぶのは、同じ時代、同じ教室に生きながら絶望と失望を与え「それでも生きる価値はあるのか」と詰問する自称・人間という生き物なのか。

 はたまた、時代も国も違えど、私に生きる勇気と希望を与えながら「たった一度きりの人生、人としてどう生きるのか」を教えてくれる孔明先生を始めとする三国志の英雄達なのか。

 言わずもがなである。


 夢をコテンパに破壊されても、侮辱されても、身に覚えのない不条理な目に遭わされても、生きるのをやめなかったのは、あの世で孔明先生に会うため。


 あの世へ行く前に、大好きな英雄たちの生き証人となっている中国へ行きたいがためだけだった。


『三国志』が日本ではなく、中国が舞台だったことは、当初言葉と現実の壁を感じさせたものの、生きるための意義はその分だけ、大きかった。


 情熱の源泉と私の居場所が机上でも教室でもなく、地球上にあると知った時

「今この生き地獄のような日々だけが、今いるこの環境だけが、全てではない」

 と客観的に気づくことができた。


 地球上には日本以外にも中国という国がある。他の国もある。

 長い人生に於いて、運悪く置かれたこの環境が死ぬまで永遠に続くわけじゃないんだという現実に気付いたら、生活の上辺だけを取り繕ってでも、誤魔化してでも、何でもいいから生きようと思えた。


 翌年にはクラス替えがあるから、まずはこの一年を生き抜こう、と。

 そう決断したら、少しずつ状況が変わった。

 

「私には三国志の英雄達がいるから、大丈夫!」


 そしてここから、私の命を十三年で終わらせようと仕組んだ人生への逆襲がジワジワと始まったのだった。 


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