第三章 ~竜の娘~
──お城がざわざわしている。
なんとなくそう感じたセリスは、最近頻繁に出入りするようになったリィンの執務室に足を運んだ。
「どう思います?」
「……挨拶もなくいきなり入ってきての第一声がそれですか。意味がわかりませんので詳細をお願いします」
部屋の主は城の見取り図のようなものに書き込む手を休めずに、控えていた部下に紅茶の用意を命じる。セリスは用意してもらった自分用の椅子に腰掛け、運ばれた茶菓子を口に運ぶ。
「んー♪」
幸せそうに頬に手をあてる。
リィンの用意するお菓子は美味しい。美味しいお菓子は全世界共通の幸せだと思う。
「……これを警備隊隊長まで」
「はい」
お茶を楽しむセリスを一瞥し、リィンは書き終わった見取り図を部下に渡した。これでしばらく暇が出来る。
「それで、何の用なんです?」
「あ、そうでした」
茶菓子に伸ばしかけた手を戻し、紅茶で喉を潤す。一息つき、セリスは感じているざわざわした気配のことを話した。
「……今頃気付いたんですか?」
前々から思っていたが、このお姫様は周囲の空気にかなり鈍感なのではないだろうか。そのざわざわした気配とやら、ここ一日二日のことでは無いのだが。
「先に聞いておきますが、グラン公国は知っていますね?」
「えーと、確かすごく小さい国でしたよね?」
「……ええ、確かにその通りなのですが、一番最初に挙げる特徴ではありませんね」
グラン公国はイーヴィスの南東に隣接する山々を国土としている小国だ。国内の大半が山谷となっており、平地は国土の一割二割といった程度。その限られた土地には竜人族と呼ばれる者達が住んでいるのだが、彼らは竜から人間に変化していったという逸話を持つ種族であることから、グラン公国は〝竜の国〟とも呼ばれている。
「んー、その竜の国とお城のざわざわに、どんな関係があるんですか?」
「話は最後まで聞いてください。……明後日、グラン公国からの使者が来訪する事になっています。我が国とグラン公国は同盟関係にありますからね。こういうことはそれなりにあるんです。貴女が言っているざわざわというのは、その準備で動いている者達の気配でしょう。当日の予定に合わせた訓練も随分前から始まっています」
「はー、そうなんですか」
軽く相槌を打っているが、数週前より準備を進めていた事に対して直前になって気付くというのは他国とはいえ王族として如何なものか。
「それにしても、この大陸で仲良しさんって珍しいんじゃないですか?」
再び茶菓子を頬張りつつ、思い浮かんだ疑問を口にする。
エンピスにいた頃はまったく政治に関わらなかったセリスでも、ラピス大陸の内情くらいは耳にしたことがある。
ここ数十年、大きな戦争もなく平和な時代を過ごしているように見えるが、一皮剥いてみればどの国も他国の隙を窺っているという。国の隙というものがどういう物なのかは全くわからないが、少なくとも各国が仲良しこよしではないことくらいは理解している。
「そうですね。私も資料で読んだことがある程度なのですが、グラン公国設立──というより竜人族が竜から人になったという頃、人としての生活に難儀していた竜人族に支援をしたのはイーヴィスだけだったそうです。その感謝の証にと、当時の竜人族の長はイーヴィスへの隷属を申し出ましたがその時代の魔王は拒否し、同盟国としての関係を提示。それ以降良き隣人としての付き合いになったそうです」
過去には王族同士の婚姻もあったそうですよ、とリィンも茶菓子を手に取る。──やけに目を輝かせたセリスと目があった。
「へぇー。……ねぇ、リィン」
「なんでしょうか」
「私、竜人族の人って見たことないんですよね」
「……」
セリスの言いたいことを察し、黙々と紅茶に口をつける。
「私も会いたいです。……駄目ですか?」
上目遣いでおねだりするセリスに、リィンは茶器を置いて答える。
「いいですよ」
「いいんですか!?」
「……何故驚くのです」
「だって、私、エンピスの王女ですし。駄目って言われるんじゃないかなって」
珍しく思慮を伴った言葉を口にしながら両手で茶器を弄ぶ。
まあ、気持ちは分かる。かく言うリィンも、当日彼女をどうするのかとアールマンに訊ねに行った際に『好きにさせろ』と言われたときは、流石にどうかと意見した。すると、
『人払いを要求されれば別だが、今回はただの暑中見舞いだ。聞かれて困るような話もないだろうし、侍女の格好でもさせて端に控えさせておけば問題ないだろう』
と退出させられた。
その事をセリスに話してやると、本人は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「魔王さん、いい人です」
「危機感が薄れているだけでしょう。あの方自身、この間まで公の場で家臣と会うことすら忌避していたというのに」
「え、そうなんですか?」
セリスが意外そうに目を丸くする。
──そういえば、この人は知らないんでしたね。
エンピスの王族であるセリスに話すか迷ったが、あえて口外することではないと思い直す。
「ええ。まあ、今では会議にもそれなりに出てくれるので仕事も捗っているのですがね」
それからは当日の予定を話し合い、リィンの部下が戻ってきた所でセリスは自分の部屋へと帰っていった。
………………。
二日後、竜人族の使者が到着したと報せが入ったのは予定より遅い、正午の鐘が鳴ったころだった。
本来なら少し時間を置いての謁見となるのだが、到着するなり使者が『贈り物がある、すぐにお渡ししたい』と即時の謁見を求めてきたため、急ぎ謁見の間に人が集められた。
帯剣したリィンを伴ったアールマンが専用通路を通り広間に入ると、部屋には既に平伏した使者の姿があった。広間の隅に控えている侍女の中にセリスの姿も見える。
「……ん?」
玉座に座り、使者を見ると奇妙なことに気づく。
事前に聞いていた話では使者は一人のはず。だというのに、平伏している竜人族は大きいのと小さいのと、二人いた。
アールマンが疑問に思っていると、大きい方の竜人族が頭をあげた。竜人族の特徴である額の角と丸みを帯びた瞳がアールマンに向けられる。
「この度は到着が遅れましたこと、重々お詫び申し上げます」
「構わない。そちらこそ、山越えに長旅ご苦労だった。──それで、休む暇も惜しいほどに渡したいものとはなんだ?事前の連絡には『友好の証を贈る』とあったが」
「古よりの約定を果たしに参りました」
そう言って傍らの小さな竜人族に小声で何かを呟くと、小さな竜人族も顔をあげた。
額の角は白銀の髪に隠れてしまいそうなほど小さく、体つきを見ても10代前半か半ば辺りだろうか。
「この方はグラン公国第三公姫のユウリ様です」
「…………ん」
小さな竜人族──ユウリと紹介された少女は小さく頷くと、アールマンをじぃっと見つめる。
その視線に多少戸惑いながらも、アールマンは使者に疑問をぶつける。
「使者は一人と聞いていたんだが?姫が来ることも連絡にはなかったな」
「はい、使者は私のみでございます。ユウリ様は約定の証ゆえ、使者ではありません」
「どういう意味だ?」
「ユウリ様はグラン公国から魔王様への贈り物です」
――――――――。
一瞬、確かに時間が止まった。それくらいに衝撃的だった。
「……なに?」
「我ら竜人族は、貴国から受けた恩を忘れることはありませぬ。魔王の血筋を絶やさず守ること、それが我らが祖先の誓いし約定の一つです」
周囲の沈黙など意に介さないように、使者は一礼して立ち上がった。
「私の役割は果たしましたので、これで失礼させていただきます」
そう言って退出する使者に皆が沈黙する中、セリスだけが目を輝かせながら使者の角を見つめていた。 使者が消えていった扉を茫然と見つめるアールマンの右腕に、いきなり重みが加わった。
驚いて目を向けると、ユウリがしがみつくようにアールマンの腕に抱きついていた。
「…………」
無言でアールマンを見上げる少女を、我に返ったリィンが引き剥がしにかかる。
「離れなさいっ!いくら公姫とはいえいきなりそんなこと、不敬ですよ!」
「……やだ」
リィンに抵抗するようにアールマンの腕を抱く力を強める。
「い────」
アールマンが声にならない悲鳴をあげた。
少女の姿をしていても、竜を祖とする竜人族だ。その体は見た目以上の怪力である。
骨が軋むのを感じながら、アールマンはリィンにやめるように訴える。
「リィン、やめてくれ、いたい」
「あぁ、すいません、大丈夫ですか!?」
竜人族の特性を思い出したらしいリィンがユウリから手を離す。その隙にユウリはリィンを警戒するように玉座の反対側に回り、今度はアールマンの左腕に抱きついた。
「また──!」
「リィン待って! ……全員、仕事に戻れ」
追い掛けようとするリィンを痛む右手で制し、アールマンは広間に残っている者達に解散するよう命じる。
困惑しながらも出口に向かう人波に逆らうように、頬を赤らめ興奮した様子のセリスが三人の所にやって来た。
「凄いですよね!角ですよ!角が生えてましたよ!見た目は私達とあまり変わらないのに、角が生えてました!ああ、この子も角があります!」
「……この状況でそこに食いつけるお前は凄いな」
呆れたような感心したような、複雑な思いでセリスを見ていると、リィンが取り繕ったような無表情で訊ねてきた。
「それで、どうするのです?ほとんど強引に押し付けられましたが……」
「どうする、と言われてもな……」
左腕に抱きついたままリィンを警戒するユウリを見ながら考える。
使者を呼び戻して……というのは無理だろう。アールマン自身も竜人族とは長い付き合いだ。彼らの頭の硬さ、もとい義理を通すためなら力技も厭わない気質はよく知っている。今すぐに返すと言ったところで聞きはしないだろう。それを成すには彼らの上司──つまりは大公を説き伏せられるような口実を用意する必要がある。
使者は〝魔王の血筋を守る〟と言っていた。
今現在、魔王の血筋に当たる王族はアールマン一人だ。つまり、その意図する所は──
「子供、作る?」
アールマンの思考が結論に達する前に、ユウリの口からそんな言葉が飛び出した。
「ち、ちょっ!そんなこと出来るわけがないでしょう!第一、貴女も子供ではありませんか!」
リィンが顔を赤くしてまくし立てる。先程被った面の皮が早くも剥がれていた。
「大丈夫。竜人族……身体は丈夫」
自分の言葉の意味が分かって言っているのか、頬を赤らめながらアールマンの腕に抱きつく力を少し強くする。
腕は痛くはなかったが、突き刺さるリィンの視線に涙が出そうになった。
………………。
──魔王陛下に側室!相手はグラン公国の第三公姫!
「ぶっ!」
翌朝、自室で新聞──民間の会社が発行している情報誌──に目を通していたリィンは、その見出しを見て飲んでいた紅茶を吹き出した。
むせながらも、見出しの下にある本文を読み進める。
──昨日、魔王陛下に竜人族の姫君が嫁いだとの情報が弊社にもたらされた。
王城からの正式な触れはまだ無いが、独自に取材を進める内に内情が明らかに。
竜人族の大公は、魔王の血を引くものが現魔王陛下一人であることを憂い、自身の姫を側室に迎えることを提案し、魔王陛下もそれを受け入れたという。陛下は未だ独身であらせられるし、正室として迎えられても良さそうなものだが、それは公国側が辞退したとのこと。改めて御正室を迎えられた時、姫君も正式に輿入れとなるのだろう。
急転直下とも言うべき報せではあるが、これは我々イーヴィス国民にとっても喜ばしい報せである。王族に関する問題は国民の誰もが案ずるところであった。少々気は早いが、我々は新たな王族の誕生に備えておくべきかもしれない。最早いつ、ご懐妊の報が飛び込んできても不思議ではないのだ。
イーヴィス第一新聞社は、期待を込めて今後も積極的にこの件に関心を向けていく方針だ──。
読み進めていく内に新聞を持つ手が大きく震えていく。その姿を見る者がいれば、鬼か悪魔かと思ったに違いない、強烈な覇気を放っている。
「だ、誰がこんな……!」
確かに、竜人族の公姫──ユウリが〝贈られて〟きた。だが、その事はセリスと同じ部外秘扱いになったはず。それなのに、翌朝の新聞の一面に載っているのはどういうわけか。
「と、とにかく陛下に相談しなくては」
荒立った気を落ち着かせて無表情を作り、新聞を握り締めて部屋を出た。
──メイドや兵士がすれ違う度に「ひっ」と悲鳴をあげたのは気のせいだろう。
そうして主の寝室の前に立ったとき、リィンは己が冷静であると認識していた。しかし実際には、いくつかの異常を見落とす程に動揺したままであった。
いつもこの時間にはアールマンの着替えを取り替えに来るはずの侍女とすれ違わなかった。扉を守っているはずの衛兵も、そもそも付近に兵士の影も見当たらなかった。冷静であればすぐに気付けたはずの異常だった。
そして、戸を叩いて伺いを立てる事もせずに、主の私室に立ち入ったことも冷静さを欠いた証左である。咎められても弁明の余地は無い。ああ、叱責ならば甘んじて受けよう。しかし、それはともかくとして、これは一体いかなることか。
ベッドにはいつも通りに微睡む主の姿。──そのかたわらに不自然な膨らみ。
目覚めが近いのか、むずがる赤子のような寝息を漏らしている。──明らかにそれとは違う声質の寝息。
視線を下げると、ベッドの脇に主が愛用しているブーツがきちんと並べられている。──その近くに脱ぎ捨てられた一回りほど小さな靴。
リィンの脳裏に先程新聞で見掛けた〝御懐妊〟の三文字が浮かんで消えた。
──いや、この方に限ってそんなはず──しかし、陛下も男であるし……。静かに出ていくべき? それとも……──などと葛藤しながらも、その手はアールマンを覆う掛け布団へと伸びていく。
「御免!」
布団を引っ掴み、一気に剥ぎ取る!
……予想通りというか、なんというか。布団の下から現れたのは、アールマンの隣で猫のように丸くなって寝息を立てているユウリだった。
とりあえず二人とも服を着ていたことに安堵の息を漏らす。叩き起こされる形となったアールマンが体を起こして胡座をかいた。
「…………なに?」
「あ……え、と、おはようございます」
「…………おはよう」
「……よく眠れましたか?」
「うん、まあ眠れたけど何故か叩き起こされたから目覚めは良くないな。何か言うことは?」
「…………申し訳ありませんでした」
深く──深く頭を下げるリィンに、アールマンは「うむ」と頷く。
「で、なに?急ぎの用事?」
「いえ、その……」
気まずそうに、未だ寝息を立てているユウリを見る。その視線をアールマンも追う。
「……なにかいるな」
「……陛下が招き入れたのではないのですか?」
「いや、そんな記憶はない。──おい、起きろ」
ユウリの肩を揺する。「むー」と不機嫌そうながらも可愛らしい声を漏らした。更に揺すっていると、もぞもぞと動きだし、アールマンの膝の上に頭を置いて満足そうな吐息を漏らした。
その首根っこにリィンの手が伸びる。
「……いい加減にしなさい」
首根っこを掴み、ごろんと仰向けに転がす。これには流石にユウリも目を覚ました。
「む……、…………なんでリィンがいるの?」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
ぼうっとリィンの顔を見つめていたかと思うと、その口から出た言葉がこれだ。リィンの切り返しにも動じた様子はなく、ふぁっと欠伸をした。
「――――」
「……ユウリ、説明をしてくれるか」
その反応が癇にさわるのか、口の端をひくつかせるリィンの代わりに、アールマンがユウリに促す。
「ん……夜中、かわやに行ってこの部屋の前を通ったら……おっきいおじさんがいた」
おじさんとはおそらく、警備に就いていた兵士のことだろう。
「おじさんが『ああ、早速ですか』って言って中に入れてくれた。……こんな手して」
胸の前で右手を握り、親指を上に立てる。
「なんだかいい笑顔だった」
ユウリの話を聞いて、リィンは頭を抱えたくなった。
恐らくユウリの存在を聞いていた物わかりの良すぎた兵士がユウリを部屋に入れ、更には勝手に空気を読んだ結果、気をきかせて部屋を離れ、侍女にも気を配るように言ったのだろう。
……まさかリィン(上司)が早朝からやって来るとは、想像もしなかったに違いない。
──絶対に後で呼び出そう。
リィンから取り戻した布団にくるまり、二度寝の体勢に入ったユウリを眺めながら、リィンはそう決めた。
………………。
「まあ、確かに早すぎるな」
芋虫と化したユウリの横で新聞を広げ、アールマンが感想を口にする。
「では新聞社に行って情報源の特定を──」
「いや、その必要はないだろ」
動き出そうとしたリィンが止まる。
「……何故です? これは明らかに内部からの情報漏洩です。将軍職を任される身としても、見過ごすわけには」
責任者としてのリィンの発言に、アールマンも国王として答える。
「こういうのは武官ではなく文官の仕事だろ。この件はファルンに任せるから、リィンは口を出してはいけないよ」
しかし、と口を開きかけるリィンの口元に人差し指を置いて黙らせる。
「まあ確かに、発表の準備も何も用意出来ていない内から記事にされるのは困るな。一応、その辺り釘を刺しておこうか。リィン、悪いけど広報部に、出版元への抗議文の用意と、差し障り無い程度に公式な報せを出すように言っておいてくれ。後の事はファルンが上手くやるだろう」
「よろしいのですか?」
リィンの問いに、アールマンは寝息を立てるユウリを見て肩をすくめる。
「仕方ないさ。経緯はどうあれ、明るみに出た以上送り返すわけにもいかないだろう」
「……はぁ、分かりました」
………………。
「それは楽しそうですねー」
昼下がりの中庭、天気がいいのでお茶会をしようとリィン、ユウリを集めたセリスが今朝の顛末を聞いて暢気に言った。
「楽しくなどありません。まだ一日も経っていないんです。早すぎます」
リィンの苦言に当事者のユウリは素知らぬ顔で、用意された茶菓子を黙々と口に運んでいる。今日の菓子は単純だが素材にこだわった小麦粉の焼き菓子だ。
「でも、寝てただけだからいいんじゃないですか?」
「誤解を招くようなことをするのが問題なんです。結局、陛下もユウリ様の行いに関しては何も仰いませんでしたし」
あの後、アールマンは大事な用事があると言って、ファルン卿と共に北方にある町へと向かっていった。その際、ユウリに関する事は何も触れず、セリスの様子を見ておくようにとだけ言って城を出ていった。
「最近の陛下は何を考えているのか分かりません。……いえ、昔からよく分からない方でしたが」
愚痴をこぼすリィンの言葉に、興味を引かれたセリスが反応する。
「昔からって、リィンはいつから魔王さんに仕えてるんですか?」
「正式にお仕えしたのは十年ほど前ですね。正確には先王陛下に、なのですが」
仕える主にして剣の師でもあった先王。リィンにとって、第二の父親とも言える人だった。
ふと、視線を感じてユウリを見る。
興味を引いたのか、焼き菓子を頬張る手を止め、もぐもぐと咀嚼しながらリィンを見ていた。
目は口ほどにものを言うと聞くが、ユウリのそれは本当に分かりやすかった。
「……聞きたいんですか?」
「ん」
「はい」
ユウリに訊いたつもりだったのだが、セリスからも返事が返ってきた。
「面白い話ではありませんよ」と先に釘を刺し、リィンは語り部となる。
十年前、リィンがまだ守られる立場だった頃の懐かしい記憶。
………………。
──強くなりたかった。役に立ちたかった、と言い換えてもいい。
リィンはいくつかの縁が重なって稀代の剣豪と謳われる先代の魔王に師事していたが、それでもまだ守られる側の存在だった。
役に立つ機会が無ければ、身に付けた技も無用の長物に終わる。そう考えていた時期のこと。
いつものように打ちのめされた修行の終わり、地面に倒れ付したリィンに涼しい顔をした魔王が声をかけた。
『まだまだ弱いな』
そう言って笑う強面の師に、リィンはしかめ面で答える。
『弟子が、師に叶うはずがありません』
『だから弱いんだよ、ばーか』
手に持った木刀でリィンの頬を突きながら、ニヤニヤと笑う。
彼の王は子供のような人だ、と周囲は評する。
魔術は苦手でその才は剣術にのみ特化している。故に王でありながらも政務より体を動かすことを優先した。しかし、臣下には友のごとく親しく接し、人望を集めることに長けた求心力のある王。
その評価にはリィンも同意する。しかし、彼らの予想よりもずっと、この人は子供っぽい。
子供のおやつを横から奪う。妻に叱られて涙ぐむ。八つ当たりに弟子を全力で叩きのめす。
……とくに、大の男が九歳の子供に八つ当たりするのはどうかと思う。
『ああ、そういや、もうすぐ誕生日だな、お前も』
『……はい』
『十の祝いだ。近衛に入れてやる』
『…………』
『なんだ、嬉しくないのか?』
『いえ、……疑っていました』
『正直者め』
近衛──近衛隊とは、王族を守護する精鋭の集まりだ。そんなところにリィンのような子供が所属できるわけがない。現に、今も守るべき対象に叩きのめされたばかりだ。
疑心の目を向けるリィンに、魔王が木刀を弄びながらまた笑う。
『ま、条件付きだ』
一つ、魔王に剣を教わり続けること。
二つ、魔王の許し無く任務に関わらないこと。
その条件を聞いて、リィンはからかわれたと判断した。
『今とあまり変わらないじゃないですか。意味ないです』
『そんなことはないぞ? 肩書きっていうのは一つあるだけでも気分が変わるもんだ』
『…………』
『配属は追って知らせる。今日は帰っていいぞ』
今日の夕飯は何かなー、と木刀を振り回しながら帰っていく魔王に、リィンは小さく呟いた。
『ばかって言う方がばかなんですよ』
………………。
「え、王様に馬鹿って言ったんですか?」
「面と向かっては言ってません。聞こえてもいなかったはずです。……ええ、まあ、子供だったので……」
何しろ、八つ当たりでボコボコにされた挙げ句、木刀で頬を突つかれながら馬鹿と言われたのだ。少しくらい言い返したくなっても仕方ないのではないか。相手が去った後に口にしただけ利口と言ってもらいたい。
「アールは?」
「……確認しますが、それは陛下の事ですか?」
「ん」
頷くユウリに、何か言おうと口を開きかけるが、自分にも似た経験があるのを思い出して諦めた。自分も落ちると分かっている穴を掘り広げる趣味はない。
………………。
──再び時を遡る。
リィンが十の誕生日を迎えた日の朝、リィンは父に呼び出された。
『まずは誕生日おめでとう、と言っておく』
人間族である母の血が色濃くほぼ人間族と変わりない見た目の自分とは違い、様々な種族の特徴が混ざりあった魔族と呼ぶにふさわしい風貌の父親は、開口一番にそう言った。
その口調は父としてではなく、王族守護の任を与えられた近衛隊長としてのように感じられる。
『先程、文が届いた。──リィン・ツァンバを近衛隊第一部隊に籍を置くものとする。なお、その指揮権、及び人事権は魔王が所持する』
文を読み上げ、リィンに差し出す。それを受け取ると、眉間に皺を寄せて唸るようにため息を吐いた。
『第一部隊、つまり俺の隊に入ることになる。だが実質的には、お前は陛下直属の私兵扱いだ。近衛隊を纏めるものとして包み隠さずに言うが、扱いづらいことこの上ない』
『……』
『お前は陛下の教えもあり、幼いながらも剣の腕は立つが、やはり子供の域を出ん。精鋭の揃う近衛隊はお前にとっても、周囲にとっても重荷になるだろう。我が隊にこの程度の荷で潰れる者はいないが、お前は別だ。苦境を耐え抜き、心身共に精進せよ』
『……はい』
厳しい言葉に、リィンは頷いた。それを見た父も『うむ』と頷き、纏っていた雰囲気を柔らかくした。
『よし、では朝食にしよう。昨日から母さんが張り切っていたから、朝からご馳走だろう。食べ終わったら一緒に登城するぞ』
『はい!』
肩に置かれた手の力強さを感じ、リィンは父に畏敬の念を込めて返事を返した。
正式に登用されてからの初登城──と言っても、ツァンバ家の屋敷は近衛隊隊長という父の都合上、城のすぐ真横にあるので感慨のようなものは一切なかった。
隣を歩く父が家を出た時点で既に近衛隊長の顔になっていたので、そういうものを抱ける空気ではなかったというのもある。
朝に授かった父からの忠言。それを現実として受け入れさせられるのは、父に連れられて近衛隊の隊舎に入った後だった。
あの一切の緩みもない、耳鳴りがしそうなほど張り詰めた空気は今でも覚えている。
身じろぎ一つせず、入口の広間で整列する隊員たち。ほんの一瞬だけ向けられた視線は、リィンの異物感を如実に物語っていた。
『お前たち全員に集まってもらったのは、新たな隊員を紹介するためだ。本日付けで、このリィン・ツァンバが近衛隊第一部隊への入隊を命じられた。知っている者も多いだろうが、これは私の娘でもある。だが気を使う必要などない。我ら近衛隊の任務は馴れ合うことではなく、王族に害を為す全てから陛下、王妃、王子を守り抜くことのみである。この一言のみを胸に刻み、各々職務に当たれ。以上、解散』
父の号令で宿舎から隊員たちが出ていく。途中でリィンに向けられた視線は一度も無かった。
常在戦場とでも言うべき雰囲気に気圧され、すがるように隣に立つ父を仰ぎ見る。勇気づけられる言葉が欲しかったのかもしれない。だが、父は父親ではなく近衛隊を率いる隊長としての言葉を口にした。
『──何をしている。号令が聞こえなかったのか、お前も早く行け』
甘えを許さない厳しい声に、リィンは視線をさ迷わせ、近衛隊長に背を向けて走り出した。
少しだけ、視界が雨に濡れたように霞んでいた。
………………。
『はっははは! 娘相手でもその態度とは、まさしく仕事の鬼だな』
涙目で執務室にやって来たリィンに詳細を訊いた魔王は、冗談でも無く心底面白そうに笑っていた。
『たまには俺もそうしてみようかな。そうしたらお前はどうするよ、アル』
窓辺で外を眺めている息子に話を振る。アル──幼きアールマンは父に顔を向け、真顔で言った。
『少しはそうした方が母上の小言も減ると思いますが』
『はっ、ははははは!違いない!』
家庭内の勢力図が露になったにも関わらず、魔王はまた笑った。
妻に小言を言われるのは事実だし、子供を味方につける努力をした覚えもまったく無いので当然の結果なのだ。
『それでは父上、リィンも来たし、戻っていいですか?』
『え、もうちょっと父と歓談する気はないのか?』
『仕事を休む言い訳にされるなと、母上に言われているので嫌です』
『はっは、お見通しか』
にべもなくあしらわれたにも関わらず、大して気落ちした様子の無い父王を尻目に、アールマンはリィンの手をとって執務室を出ていく。
『うーむ、やっぱあれかね、男より女がいいのかね』
扉が閉まる寸前、耳に届いた言葉にリィンは少しだけ赤くなった。
アールマンの部屋に入り、リィンは椅子に座らされた。
『ちょっと待ってて』
父の前でのそれとは違う、リィンにだけ向ける年相応の口調でそう言うと、机の引き出しから細長い小箱を取り出した。
『はい、入隊祝い。おめでとう、リィン』
『あ、ありがとうございます』
差し出された小箱を受け取りつつ、素直な祝福に照れた。年下だが生涯の主と決めている相手からの贈り物は嬉しい。
『じゃあ、開けてみて』
『は、はい』
急かされるように小箱の蓋を取ると、中には白銀色の首飾りが入っていた。
鎖の部分に細かい装飾などは無く、簡素に見えるその首飾りには石のようなものが収まっている。
リィンは何故か、その石に心惹かれた。
『相性は良さそうで良かった』
安心したようなアールマンの言葉に、リィンはああ、と思い至る。
『これは魔法石、ですか?』
『うん。リィンは火の魔術が使えるけど耐性はないでしょ? だから火に強くなる効果があるのを選んだんだよ』
『使えるといっても初歩の魔術だけです。大したものじゃないです。それなのに、いいんですか?』
一般的に、魔術を扱うには相性が重要だと言われている。相性が良ければ多種多様な魔術が扱え、悪ければ魔術の行使すら難しくなる。
火の魔術なら、相性が良ければ燃え盛る竜を作り出すことも出来るというが、残念ながらリィンでは手のひらに炎を生み出す程度の事しか出来ない。
しかも魔術への抵抗力の低い人間族との混血児であるリィンは、火力の高い魔術を行使すると自分の魔術で火傷を負ってしまう恐れがある。
それゆえにリィンは魔術に対して諦めのようなものを抱いていたのだが、それを知るアールマンからこのような贈り物をされて困惑していた。
『それには火除の呪いが入ってる。使えるものを使わないのは勿体無いじゃない。火傷しなくなれば練習だって出来るようになるよ』
『でも……』
アールマンの言い分は分かるが、リィンはそれでもと渋る。
魔法石によって耐性を上げた所で、相性──才能まではどうにもならない。だからリィンは魔王にも見込まれた剣の道を選んだのだ。初歩しか扱えない魔術では役に立てるはずがない。
『大丈夫だよ。父上も〝初歩を極めることで立派な武器になる〟って言っていたし』
『うっ』
今頃は次々と上がってくる仕事と格闘しているだろう父の名を出し、リィンの反撃を封じてみせる。
先んじて抵抗の言葉を奪われたリィンは、諦めて首飾りを取り出して身に付けてみた。
『……どうでしょうか』
『うん、似合うと思うよ』
不思議なもので、アールマンに褒められると受け取ることへの抵抗感が一瞬で消え去り、言われた通りに頑張ってみようかなという気になった。
リィンのにやける顔を見つめながら、アールマンも満足そうに笑みを浮かべていた。
………………。
「魔王さんは昔から優しいんですねぇ」
「いい人」
二人の似たような感想に、リィンは「まぁ、そうですね」と返す。
昔語りの間に陽は傾き、夏虫の鳴き声が昼夕混ざりつつあった。そろそろ解散しようと声を掛けようとしたとき、ユウリがリィンの胸元に注視しているのに気がついた。
「……それ、そう?」
「これですか?」
リィンが服の内側から白銀色の首飾りを取り出して見せると、ユウリは頷いた。
「よく分かりましたね。石は劣化してしまって付け替えていますけど、今話した品で間違いはありませんよ」
「へぇ、それが魔王さんからの。ユウリちゃん凄いですね」
二人の驚く様子を見て、ユウリは若干誇らしげに胸を張った。
「火は竜のしもべだから」
「……えーと、どういう意味です?」
首を傾げるセリスに、その後ろから歩み寄ってきた人物が答える。
「竜は火を糧とし、生まれながらに火の魔術を操ると言われている。竜を起源とする竜人族にとっても火は身近なものなんだよ。ユウリは首飾りに込められた火属の魔力を感じ取ったんだろう」
驚いて振り向くと、そこにはファルン卿を伴ったアールマンが立っていた。椅子から飛び降りたユウリがアールマンの腕にしがみつく。リィンも立ち上がって礼を取った。
「陛下、いつお戻りに?」
「ついさっき。三人仲良くお茶してるって聞いたから寄ってみたんだ」
そう言いながらユウリの頭を撫でるアールマンの後ろで、ファルン卿が一人頷く。
「ふむ、将軍もやはり年頃の娘ですな。歳の近い娘相手なら、感情の起伏が出やすいと見える」
噂に従うなら明日は雨でしょうかな、と天を仰ぐ鷲頭に、リィンが「気になるなら気象学部を訪ねては?」と冷たい視線と言葉を送る。
「ははは。さて、この場は若い者に任せて、私は自室に戻るとしましょう。皆様、失礼します」
何に満足したのか、ファルン卿は機嫌良さそうに笑いながら立ち去っていく。
「あの方と話していると、先王様を相手にしている気分になります」
「父上にもファルンにも娘はいないからな。幼い時分から知ってるリィンに構って欲しいんだろう」
「そんな理由なんでしょうか……」
これをきっかけにお茶会は解散となったが、リィンは何故か明日の天気が気になって一人気象学部に足を運んだ。
──明日は雨らしい。
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