第3話


 俺、奥田千歳は惣台村という小さな村で生まれた。

 祖父の家で、祖父と両親との4人暮らしだったけれど、両親は事故で亡くなり、俺は祖父との2人暮らしになった。


 祖父は長年この村の村長をしている。村の運営に関することだけでなく近所の人たちの御用聞きのようなこともしているが、いつも笑顔で人の悩みを受け入れる祖父のことを幼い頃から尊敬していた。


 だが、お年寄りとの2人暮らしというものは妙な寂しさが生活の中に漂う。若い人間と比べて死期が近いからだろうか、元気そうにしているがふとした瞬間に「ああ、いつか俺がひとり取り残されるんだろうな」という漠然とした感傷が浮かぶ。そんなときに、この家には寂しさが漂うのだ。


 昨日、2人の村外の人がうちに泊まりにやってきた。年齢の割に枯れた雰囲気を持つおじさんと陽気なお兄さんだ。

 祖父の話によると、不思議な出来事に関して研究をしている人たちで、この村の呪いが本当なのかどうかを調べて来たらしい。

 彼らがうちに来て、家の中に漂う寂しさの気配が少し薄まったように感じた。





 夕方遅くになって2人は戻ってきた。

 鈴川さんはかなり疲れた様子で、なにがあったのか聞くと老髪山に登ってきた帰りなのだという。


「あの山に昔神社があったかどうかですか? 私が子供の頃にはそんなものはなかったですね。……懐かしいな、以前同じようなことを娘婿にも聞かれたことがあります」


「平安時代末期には確かにあったそうです。義息子さんは、資料でそのことを知ったのでしょうね。……その、ちなみに、あの山に登られたことは……」


 鈴川さんはなぜか言いにくそうに聞いてきた。鈴川さんの様子のおかしさに、祖父と顔を見合わせて疑問に思った感情を共有する。


 そして、あの山は遠足で登ったり秋になると栗拾いをしたりなど、山に入る者は多いことを説明した。俺も小学校の遠足で山頂まで登ったし、それ以外にも山に入る機会は何度かあった。父のノートを読んでいたので、あそこにかつて神社があったらしいことは知っていたが、今ではそれが分かるものなどあの山には一切残っていないはずだ。


 祖父と俺の説明を聞いていた中村さんが、「遠足でも利用する」と話したときにふと妙な表情を浮かべた。


「それって、山頂でお弁当とか食べたこともあるってこと?」


 中村さんの質問の意図がよく分からなかったが、俺はその問いに首を横に振った。

「山頂では食べてないですよ。頂上から下山する途中に広いとこがあって……そこで食べたかな」


 俺の言葉に祖父も頷き「この村の人間は山頂で飲食はしませんよ。しないように周りの大人たちに言われて育ってますから」と言い足した。


「え……、それは、どうしてです?」


 鈴川さんの顔色が悪くなったように見える。なぜそんなに驚くのか分からない。


「別に。多分だけど、蜂とかが寄ってくるからだと思うんですけど……」


 特に理由は分からないが、あの山の上では飲み食いしないほうがいいと聞いている。だから飲み食いしない。ただそれだけのことだった。



「やっぱり水なんか飲んじゃいけなかったんじゃないか」

「まあまあ、でも収穫はあったでしょ」


 二人の会話の内容が分からずにいたが、『水』という単語で両親のノートに書かれていたおまじないらしき文章のことを思い出した。だがここでそのことを持ち出すと、ノートを隠れて読んでいたことが祖父にばれてしまう。

 俺は黙っておいた。あとから聞けるようであれば、なにがあったのか聞いてみよう。





 祖父が先に自室に戻ると、中村さんはタイミングを窺っていたようで俺に声をかけた。


 「千歳君、蔵にあったノートってさ、全部お父さんが書いたものなの?」


 「……? 詳しいことは俺も分からないけど、多分、そうです。あ、違う。時々母さんも手伝ってたかな」


「ふぅん……、そっか。ああ、そうだ、あのノートさ、2冊目だけ探しても見つからなかったんだけど、知らない?」


「2冊目……」と中村さんの言葉を復唱して、「あ」と思い至った。

 少し待っていて欲しいと告げて自分の部屋に入ると、机の一番下の引き出しを開けた。表に「vol.2」と書かれたノートを手に取り、居間に戻る。



「千歳君が持っているかもって、よく気付いたね」と鈴川さんが感心したように呟くと、「村長さんはあまり資料に触れてなかったっぽいですし、このノートはお父さんの遺品ですからねー」と答えた後、はっとした表情に変わり「ごめんね……」と詫びられた。


「大丈夫です」と答えてノートを中村さんに手渡す。


「ありがとう、少し借りるね」と言って中村さんはそれを受け取ると、「でもどうしてこのノートだけ?」と尋ねた。


「これ、内容のほとんどが母さんが俺のために書いてくれたものばかりだから」と答えた。

 俺の言葉に中村さんからノートを受け取った鈴川さんは開きかけた手を止め、「読んで大丈夫?」と確認してきた。律儀な人だと思う。俺は「もちろんです」と頷いた。


 俺の言葉を受けて、鈴川さんは机の上にノートを広げて中村さんにも見えるように寄せた。



「『夢渡りについての歴史』……?」

 最初にめくったページに書かれていた文字を声に出して読む中村さんに対し、鈴川さんは集中しだしたように文字を読みながら、なにかを呟いていた。


「ノートは1冊目が昔この地に住んでいた神仕えの親子の話、3冊目が子殺しを示唆した内容と、あの山にかつてあった社について書かれていたよね」


「はい。2冊目がなくても話の前後は繋がるなと思っていたんですが、なぜ娘が殺されたかの理由がどちらにも記されてなかったんですよね。それが、この2冊目で解説されているのかもしれませんよ」


「それと夢渡りになんの関係が……。とりあえず次のページめくるよ」


「あ、あの」と、声をかけた。集中しているところ邪魔をしてはいけないとも思ったのだが、どうしても気になったことがあったからだ。

 二人はノートから顔を上げて「どうしたの?」と聞いてくれた。「勝手に盛り上がっちゃってごめんね」とも付け足された。


 俺は、自分こそ邪魔をして申し訳ないことを一言入れると、夢渡りとはなにかと尋ねた。


「夢渡りって、夢歩きとはまた違う意味なんですか?」

「……夢歩き?」と、二人は声を合わせて不思議そうな顔をする。


 中村さんが「夢渡りっていうのは、簡単に言うと夢の世界を現実世界と同じように意識を保って行き来するってことなんだけど……、それで夢を通して遠く離れた人と意思の疎通ができることもあるらしいよ。でも夢歩きって言い方は聞いたことがないなぁ……こっちのほうではそう言うのかな」と答えながら首を小さく傾げた。


「千歳君は、どこでその夢歩きって言葉を知ったんだい?」


 鈴川さんから聞かれて、俺は机の上に身を乗り出すとノートを数ページめくって言った。

「ここです。このページからは、母が書いたものなんですが……『夢を歩くときの注意点』って。それで、夢歩きってのは俺が勝手にもじって言ってるだけなんですが」


「本当だ。どうしてこんなことを書いて、というか……どうしてこんなことを知っているんだろう」

 二人の視線を受けて、俺は今まで両親以外の誰にも話したことのないことを話し始めた。



 祖父には心配をかけまいと言えなかったこと。

 不思議な出来事を研究してきたこの2人なら、なにか知っているのかもしれない。





 毎日同じ夢を見る、と言って一体どれだけの人に共感されるだろうか。

 正確に言うと、「毎日見る夢の始まりが同じシーン」なのだ。


 それは物心ついたころからずっとそうだったので、当たり前のことなのだと思っていた。ふと、たわいない日常会話のつもりで母に話すと、母はとても驚いたようだった。その驚き方は、なんだか普通ではない様子で、俺はなにか言ってはいけないことを言ってしまったのではないかと、そのとき後悔したのを覚えている。



 はじまりは、いつもこの場面。

 賑やかな夜の町。といっても、その町並みは市内にある商店街というようなものではなく、小学校の修学旅行で見た宮城の蔵の町というところに似ていた。建物はあんな感じで古く、道路はコンクリートではなく、ならした土の道だ。建物には等間隔に赤い提灯が吊り下げられていて、それが夜でも町並みを明るく照らしていた。


 そして、お祭りのときみたいに、建物の前には所々に出店が開かれていて、美味しそうな匂いが充満している。


 この通りを抜けると、道がいくつか分かれている。どの道を選ぶかで、夢の内容が変わる。けれど、最初のこの入り口はいつも同じだ。





 俺がそう語ると、二人は神妙な顔つきになった。


 先に言葉を発したのは鈴川さんだった。

「千歳君、君は夢の内容を全部覚えているのかい?」


 これは、母にも尋ねられたことだった。俺は頷き、「時間が経てば細かいことは忘れることもありますが、結構長い間覚えていますよ」と答える。夢で起きたことも、現実で起きたことも、等しく覚えている。


 そう話すと、鈴川さんは信じられないことを聞いた、といった表情を浮かべた。なにか、俺には分からない難しいことを考えているのか、暫くの間黙り込んでしまっていた。

 中村さんはその間、俺に夢でどんな体験をしたのか詳しく質問してきたが、内容が知りたいというより雑談といった雰囲気だった。



「千歳君のお母さんが『夢を歩く』と書かれた理由が、少し分かった気がする。千歳君にとって、夢は“見る”ものではなく“歩いて進める世界”なんだね」

 ようやく口を開いた鈴川さんの言葉を、だが俺は理解することができなかった。


「夢渡りは、自分の夢と誰かの夢を路で繋いで渡るものなんだ。自分の精神世界と相手の精神世界を繋ぐ、と言ってもいい。それはとても曖昧模糊とした世界で、夢を渡っても目が覚めるとそれが確かなことか、渡った本人も分からないものなんだ。だけど、千歳君。正確に言うと、君は恐らく夢を見ていない」


「え……?」

「君が毎夜、眠っているときに見ているのは……多分、夢ではない。“異界”だ」 

「……いかい」


 鈴川さんの言っている意味が、半分以上も理解できなかった。



「つまり、こういうことですか。千歳君は、眠っている間に違う世界に行っている、っていう」

 中川さんの言葉で少し理解ができたが、それでも完全に分かったわけではない。夢の内容をよく覚えているだけで、どうしてそんなことが分かるのだろうか。



「千歳君、小野篁という名前の貴族が、平安時代にいたのだけれどね」

「は、はぁ……」

 突然内容が変わって困惑するが、恐らく説明をしようとしてくれているのだと相槌を打つ。


「彼が一部で有名なのは、生きている間に地獄と、元の……生きている人間の世界とを何度も行き来していたからなんだよ。京都に、彼が地獄へ行くときの入り口になった伝説の井戸というのも残っていてね」


「それは、凄いですね」


「ああ、凄いんだよ。それが本当なら」


「と、いうと? その話は実は噓だった、とか……ですか」


 俺の質問に、鈴川さんは首を横に振って否定する。

「いや、当時の資料だけでは嘘か本当かは断言できない。でもね、生身で地獄に行って帰って来られたとしたら……そしてそれを何度も繰り返すというのは尋常じゃない。それは、神様にだって容易に、簡単にできることじゃないんだよ」


 鈴川さんの言葉に、中村さんのほうが先に思い当たったように口を開く。

「日本神話ですね」

「そう」


「千歳君、この国の成り立ちを書いた神話があるんだけど、イザナギとイザナミの話って聞いたことある?」

 名前だけならゲームで聞いたことがあるが、詳しいことは知らない。俺は素直にそう答えた。


「まあ学校で習うわけじゃないしね。簡単にいうと、イザナギは男の神様、イザナミは女神様、二人は夫婦。ここまではOK?」と中村さんは、親指と人差し指で輪っかを作ったジェスチャー混じりに尋ねた。


「お、オッケー」と、同じように指の形を作って返す。


「2人の間には多くの神様が生まれたんだけど、運悪くイザナミは出産後に死んで、黄泉の住人になってしまうんだ」


「死んで……黄泉って地獄ってことですか?」


「んーっと……、正確には違うんだけど、死者の世界ってことでこの場合は同じニュアンスだと思っておいて」


「はい」

 鈴川さんは、なんだか口を挟みそうなのをぐっと我慢したような顔をした。



「イザナギはイザナミのことを愛していて、もう一度会いたい、できれば死者の国から連れ戻したいと思った。そこで黄泉に行き、イザナギに会おうとした。でも、会えていないんだ」


「黄泉に行けなかった、ってこと?」


「黄泉の世界の入り口までは行ったそうだよ。家で例えると、玄関先って感じだね。けれどイザナギが最初に聞いたのはイザナミの『声』だけで、この入り口段階では姿を見ていない」


「それは……壁とかがあって見えなかったとか?」


「この辺がね、よく分かっていないんだ。神話のことを描いた絵では、壁越しに会話をする2人が描かれたりもしているけど、イザナミが姿を隠して声だけ届けたとか……まあ、黄泉の世界自体がどうなっているかよく分かってないしねー、そこは置いておいて」


 中村さんが見えない箱を移すジェスチャーをした。



「重要なのは、この後。イザナギはイザナミとの約束を破って彼女の黄泉での姿を見てしまう。イザナミは……分かりやすくいうと、ゾンビみたいな姿になってたらしいよ。それで驚いたイザナギはダッシュで黄泉から逃げようとする。イザナミは怒って追いかけるんだけど、あの手この手でなんとか逃げ切った、という話なんだ」


「なんか……神様の話なのに、人間っぽいですね」と俺が突っ込むと、「日本の神様って結構そういうお話多いよ」と鈴川さんが笑った。


「そうそう、なんか親近感湧きますよね。それで、黄泉から戻ってきたイザナギは体中が穢れ……要は悪いものがいっぱい付いていたから洗い流して身を綺麗にした、という話」

「そう。イザナギという、神様であっても黄泉から戻ってくるのはそれほど大変なことなんだ。約束を破ったペナルティがあったことを省いても、黄泉から帰れば神の身体でも『悪いものがつく』。じゃあ、ただの人間だった小野篁は死者の国をどうして行き来できていたのか。――それは、肉体を伴わなかった。つまり、魂だけが地獄に行っていたのだと考えると、生身のまま行くより簡単なんだよ」


「臨死体験なら経験ある人は、結構いるみたいですもんね。ほら、三途の川を渡りかけたって、ドラマとか漫画とかでもあるでしょ。あれって別に架空の設定じゃなくて、リアルでも起きていることなんだよ」


「三途の川は分かりやすい表現なだけであって、魂が体から離れて違う世界に行って、そして体に戻ってきた、というのが臨死体験だね。まあ僕は経験したことないから、どんなものかはよく分からないんだけど……」


「じゃあ、俺の夢もそういうこと……って、話ですか?」



 話が繋がってきたことで、鈴川さんの言いたいことが徐々に分かってきた。


 俺は眠っている間、こことは違う世界に行っていて、その間魂は体から出ているということなのだろうか。白い風船のような魂が、口や鼻から抜け出ている図をイメージした。


 毎日幽体離脱しているなんて、怖すぎる。よく戻って来れていたな、と自分に対して思う。そのまま魂が体に戻れず、朝起きたら体が冷たくなっていた……とかいうことになったらどうしよう。

 悲しむ祖父の顔が脳裏に浮かんだ。


 そのとき、ふと左肩に温かさを感じて顔を上げると、鈴川さんが僕の肩に手を置いていた。


「大丈夫だよ。君のそれはもう、習慣化されている。ざっくり言うなら、体質だ。そして、注意事項を君のお母さんがちゃんと書いている。どうしてそんなことを知っているのかは謎なんだけれどね」


「母さんが……」


 そう言って、開いていた机の上のノートに視線を落とした。





 「夢を歩くときの注意点」


 一、生き物の気配のする、にぎやかな場所を歩く。

 二、食べ物を食べたり、水を飲むのはOK。ただし、火を通した物は食べない。

 三、誰かに相談されても引き受けない。

 四、自分の氏名を教えない。

 五、最初の夢がいつもと違う景色だったら、それ以上先に進まない。その場に座って目を閉じ、10秒数えてもう一度目を開ける。





 その日も夢を見る。

 いや、正確には夢ではないらしい。


 まだよく実感が湧かないが、鈴川さんの話では夢ではなく、俺が生きているのとは違うルールでできている世界、ということだった。

 夢でも現実の記憶と意識を持っていることは、俺のなかでは普通のことだったけれど、誰もがそうではないという。


 眠るときはいつもと違って緊張したけれど、母が守ってくれているのだと考えると不思議と大丈夫だと思えた。



 ふと一瞬目の前が暗くなり、目を開けるといつもの見慣れた風景が広がっていた。だが、今日はどこか様子がおかしかった。

 町並みは同じなのだが、雰囲気が違う。

 予告なしに急な来客の対応をしなければいけないときの、どこか忙しない、どこか戸惑った空気に似ていると思った。


 俺が周囲の様子に注意を払いながら歩きはじめると、3本の分かれ道に差し掛かった。いつもの道だ。いつもは、できるだけ賑やかな雰囲気の道を選ぶ。


 だが、この日は違った。どの通りの店もピシャリと戸を閉め切っていて誰も人がいない。

 正面の道も、右手の道も、左手の道も、人っ子一人いない。



 どうしよう。

 引き返したほうが良いのだろうか。


 後ろを振り返っていつもの景色を確認し、もう一度前を見た。



 もう1本、道ができていた。



 目の前の数メートル離れた先に、正面の道に対して垂直に道ができていたのだ。三又に分かれた道の根元を貫くようにして。さっきまではなかったはずだった。

 咄嗟に、『誰かが道を繋げたんだ』という考えが浮かんだ。鈴川さんの夢渡りの話を聞いたからかもしれない。


 その新しく繋がった道を、誰かが歩いてくる気配がする。紙芝居で次の話を見せるときにゆっくりと紙を引いていくように、通りの両サイドに並んだ建物、その右側の建物の影から着物姿の人たちが行列を作ってゆっくり歩いている。

 先頭に1人、その後ろは2人が横に並んで2列を作っている。列の終わりは建物の陰に隠れて見えないが、まだ続いているようで、全体が何人なのかは分からなかった。


 先頭の1人は、少しおかしな歩き方をしていた。よく観察すると、杖をついて不自由そうに足を動かしているのが分かった。黒い着物に、黒い袴を穿いている。列の人たちは、白い着物に、袴の色は紫だったり水色だったりと、バラバラだ。

 だけど、全員が笠のようなものを被っていて、顔はよく見えない。


 先頭の1人が、ピタリと立ち止まった。ちょうど、俺の目の前に続く正面の通りの、中央に差し掛かった辺りだった。俺はどきりとしたものの、なぜか怖いと思えなくてその場に立ち止まったままだ。


「小僧、女を見なかったか」


 低い男の人の声がした。

 俺はなんと答えていいか言葉が見つからずにいた。すると、もう一度声がした。


「着物を裏返しに着た女を探している」


 ふと、あの話の後で鈴川さんたちに聞いたことを思い出した。

 老髪山に行ったこと、ノートに書かれていた内容を実践してみたこと、着物を裏返しに着た人間の下半身がカメラに映っていたこと、中村さんはなぜか女の人だと思ったこと、などだ。

 あのときはなにか知らないかと聞かれたが、全く心当たりがなかったので、役に立つような情報を提供できなかったのだが。



「その人なら、老髪山の頂上にいたそうです」


 俺はその低い声に対して、“知っていることはなんでも話さなくてはいけない”ような気がした。だから知っていることを話した。


「承知した」


 声が返ってきた1秒後、先頭の黒い着物の人がこちらに顔だけ向けた。とはいっても笠の動きからそうだと思っただけで、顔は影になって見えない。


「では、夢渡りはこれで終いだ」


 笠が上向き、口元が見えた。

 笠の影から、白い、犬の鼻先のようなものが見えた。



 そこで夢から覚めた。

 いや、正しくは元の世界に戻ってきた、と言うべきなのだろうか。


 俺は布団から飛び出し、このことを鈴川さんたちに早く伝えなければと思った。


 外がうるさい。サイレンの音が遠くから聞こえているのだ。なにかあったのだろうか。

 鈴川さんたちは1階の客間にいるため階段を下りると、祖父はもう起きていてどこかに出かける様子だった。


「千歳、早いな。今書き置きを残そうかと思っていたところなんだ」

「じいちゃん、どうしたの? 火事?」


「いや、山崩れだ。老髪山の一部が崩れたらしい。じいちゃんは今から現場に行くから、お客様たちのことは任せたぞ」


 そう言って、祖父は慌ただしく家を出ていった。


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