怪異観測機関

継木マツリ

序章

 ――岐阜県奥美濃市矢代織町やしろおりちょう


 ジャリッと小石を踏む軽い音を立て、細身で長身の男はノートに色々と書きつけながら浅葱色の袴を穿いた神職の青年の後について境内を歩いていた。

 時計の針は17時をとっくに回っていたが夕方らしい涼しさは一切なく、じっとりと汗ばむ風のない夕方、蝉の鳴く声が四方から耳に届く。

 メモを取っていた男――瀬田は、そんな気温の中でも不快さを感じた様子がなく、熱心に神職に質問を続けている。


「では、こちらの奥美濃澤女神社おくみのさわめじんじゃでは、半年前から社務所で妙な現象が起きるようになったのですね」


「そうです。授与所を16時に閉め、それから廊下で繋がった社務所のほうで片付けや事務作業をいたしております。そこの一室で、女性のすすり泣く声や、襖を叩く音などがするということで……。先日も、怪奇現象を怖がった巫女さんが一人、辞められてしまいました。私としても、困っていたところなんです」


「なるほど……それは一人でいる時ですか? 二人以上いるときは起こりますか?」


「うちは神職の数も少ないので、夕方の清掃や事務処理など、それぞれの場所を一人が担当することが多いですね。ああ、着きました。ここがその社務所です」


 瀬田の質問に答える神職はそう案内して、入り口の引き戸を開けた。

「どうぞお入りください」


 そう言って案内された瀬田は、鳥居の下をくぐる時のように軽く一礼をしてから玄関に入った。そうしてふと視線を上げると、先に玄関を上がり廊下の手前に立つ若い神職と、その後ろ――少し離れた廊下の曲がり角に、巫女のような装束の女性が立っているのが見えた。


「あ、巫女の方もいらっしゃるんですね」


 瀬田が見えたままそう伝えると、若い神職は「……え?」と訝しそうに軽く眉根を寄せる。神職の反応に少し戸惑い、もう一度その背後に視線を送ると、いつの間にか女性の姿は居なくなっていた。


(またやってしまった……)


 瀬田が心中で反省をし「すみません、見間違いでした」と愛想笑いを浮かべると、神職は「そうですか……」と、ホッとしたように息を吐く。だが、その表情はまだ少し強張っているようにも見えた。


 ガラガラと音を立てて瀬田が玄関の扉を閉めると、室内は暗さを増す。靴を脱ぎ、細長い廊下を歩いていくと、案内されたのは十畳ほどの和室であった。


「ここは?」


「ここはお守りやお札などの在庫を置いている場所です。あとは、こちらの机で翌日以降の御朱印を作製したりと、作業場のように使っています」


 瀬田は部屋を見渡す。

 なるほど、確かに小さな段ボール箱が部屋の隅に置かれ、文机には硯や筆がきちんと揃えて置かれている。


 部屋の様子を観察していると、沈黙を破るように神職の声がぽつりと耳に届いた。

「ここで、例の声などを聞いたのです」


「もしかして、森さんも実際に声を聞いたのですか?」


 瀬田がそう尋ねると、森と呼ばれた神職の男性は、「ええ、実は……」と肯定するように小さく首を縦に振った。


「その、現象というのは、ここだけですか? 他の部屋では」


 瀬田の問いかけに、森は首を右斜め後ろに向けた。

「あちらは授与所に繋がってますが……そこで作業をしていても特になにも。声を聞いたのはこの部屋だけですね」

 最後のほうの語気は、“ここにいるなにか”に聞き取られたりしないように声を抑えてのものか、弱弱しいものであった。


 そのときだ、カチッと小さな音が鳴る。

 軽く肩を震わせて反応をしたのは瀬田のほうだった。森は慣れたように、「ああ、18時ですね。作業をしていると没頭することも多いので、区切りとして、1時間ごとに針が指した時の音が大きい時計を置いているのです」と、柱時計を指した。


「集中していると、そうなりますよね」

 瀬田が分かるというように、頷いて同意を示すと、森は笑った。少しずつ、彼の緊張が解けているように見える。


 背負っていたリュックを畳の上に置き、「少し室内を調べさせていただいても構いませんか?」と尋ねると、「どうぞどうぞ」と森は隅のほうに移動して邪魔にならないようにその場に正座した。

 屋外から聞こえる蝉の鳴き声がいつの間にか、ミンミンミンという賑やかなものから、澄んだカナカナカナというものに変わっていた。

 森は、日差しの加減で影の濃い場所に、静かに座っている。


 神職の人の中には彼のように“静”の性質を持つ者が多いけど、彼は特に静かな佇まいの人だな、と瀬田は心中で感想を抱き、ノートを再び開くと部屋の様子を書き留め始める。

 部屋の間取り、段ボールを置いてある場所の方角、部屋に貼っているお札の文字などを丁寧に書きつけていき、ふと文机の引き出しに目を留めた。

 中身を確認してもいいか許可を取り、引き出しを開けると、大量の墨書が出てきた。文庫本より少し大きいサイズの和紙に、「奥美濃澤女神社」と墨で書かれてある。


「これは……?」


 朱印が押されていない墨書を手に取り瀬田が尋ねると、森は「あ、それは……」と正座のまま腰を少し浮かせ、「私が、空いた時間に字の練習をしておりまして……すみません、あとで纏めて焼却するので溜め込んでおりました」と言って、気恥ずかしそうに首に手を当てた。



「字の練習……ですが、十分達筆だと思いますが」

「いえ……宮司である私の父は、もっと力強い筆遣いでして。私は、まだまだ遠く及びません」

「なるほど。何事も精進の道なんですね。こちらは、焼いて破棄するんですか?」

「はい。一応、神社の名を書いたものですので、しかるべき手順によって破棄いたします」


 森がそう言ったとき、ぺたぺた、と裸足で木の床を歩いた時のような音が近づいて来るのに気付いた。

 突然の第三者の気配に、思わず二人とも黙り込む。瀬田が森の顔を見ると、すっかり血の気が失せたようであった。

「あれが……」と小声で尋ねると、「ええ……恐らく」と森は隅に正座をしたまま身を固くして答える。


 ぺた、という音は部屋の襖の前で止まる。

 ゴクリと唾を呑み込む音が瀬田の耳を打った。


 トン、トン、トン、トン、トン、トン――と、六度、襖を叩く音が森の耳に届く。

 彼は、声を漏らさないように自分の口に掌を当てて押さえていた。


 音が止んだ直後、瀬田は、「え……?」と訝しそうに襖と森を交互に見遣る。森さん、と呼びかけようと口を小さく開いた時、突然襖がスラっと開かれた。



「うわぁっ!!」

 森は口から手を離し、叫び声を上げる。


「え、なんだ!?」と、その叫び声を浴びて驚いた声を上げたのは、襖を開けた人物――黒いパーカー姿に黒い袴を穿いた20代前半の男だった。全身黒に包まれた彼は、同じように黒いウエストバッグに黒い防具袋を斜め掛けにしていた。


 いきなり現れた第三者に、森は混乱が隠しきれずに目を見開く。てっきり“女の姿をした化け物”がそこに立っていると思ったからだ。

 だが、その数秒間の静寂を破ったのは、瀬田の淡々とした声だった。

「あれ、三善みよし君じゃないか」

「……瀬田さん? 八百白館やおしろかんもここに来ていたんですか」


 見知ったように会話を始めた二人に困惑を隠しきれない森は、「お二人は……その、お知り合いですか?」と隅から立ち上がって尋ねる。

 三善と呼ばれた男は、森に視線を向けると瀬田に戻した。

「そうなんですよ、偶然ですが」と瀬田は森に答えると「こちら、ここの神社の神職の方で、森さんと仰るんだ」と三善に紹介をする。

 瀬田からの簡単な説明を受けて、三善は分かったと言わんばかりに「ああ」と一度小さく頷くと、森に正面を向けて一礼をした。


「勝手に入ってすみません。玄関で何度か呼んだのですが、返事がなかったものでして……妙な気配も漂ってきてたので上がらせてもらいました。俺……私は、境越祓所さかいごしのはらえど所属の三善と申します」

「さかいごし……」

「森さん、彼は僕と同じ怪異観測機関の人間です。部門は違うのですが」

 瀬田の補足に、森はやっと肩の力が抜けたように「ああ……そうだったんですね。いや、お見苦しいところをお見せして、お恥ずかしい限りです」とはにかんだ。


「三善君、さっきちょっと変なことがあってさ……僕ら以外誰もいないはずのこの部屋で、襖の向こうから女性の声がしたんだ」

「え……?」

 瀬田の言葉に、森は小さく訝しそうな声を上げる。

「あの、私には、襖を叩くような音に聞こえたのですが……」

「え! そうなんですか?」

「……はい」

 そんな二人の遣り取りを黙って見ていた三善は、なにかを考えるように顎に人差し指を当てて皮膚を軽く掻いた。


 そして再びその場に座り込んでいる森と、続いて瀬田が手に持っている墨書をちらりと見遣って、自分が歩いてきた廊下を振り返った。瀬田は、三善のその行動を黙って見ている。

 三善は一人で得心がいったような表情を浮かべると、後ろ手で襖を閉じた。


「森さん、……俺は、この神社で起きている怪奇現象を解決するために、ここに呼ばれたんですよ」

 着いたら神職の人が誰もいなくて焦ったけど、と不満そうに小さく文句を付け加える。

「あ、はい。それで、瀬田さんと一緒に今その原因を……」

「報告書にあったその怪奇現象ってヤツは、『誰も書いた覚えのない墨書が、文机の引き出しから大量に出てきた』というものなんですよ」

 三善の淡々とした言葉に、瀬田は「え……」と眉を顰め、森は状況が掴めずにぽかんとした表情を浮かべる。


「あなたなんですよ、森さん……。森清次さん」

「わ、私……?」

「森清次さん、ここの宮司の森清蔵氏の次男、半年前に交通事故で亡くなられている。覚えていますか? 横断歩道で児童を庇ってバイクに撥ねられたんですよ」


「あ、ああ……、あああああああ…………」

 三善の言葉に、森は頭を抱えて畳に額を擦り付け、喉の奥から絞り出すような声を上げた。


「森さん……」

 瀬田の呼びかけにも、森は反応せず頭を抱えたまま震えている。

 森に近付こうとした瀬田を片手で制し、三善は森の前に片膝をついた


「あなたの無念は『ここ』にあった。だから、亡くなった後も……死んだことすら忘れてここにあなたの魂は囚われている」

 三善の言葉に、森は両手を頭から離して畳に肘を付けたまま、ゆっくりと三善を見上げた。

「私の、無念……?」

「どうして、字を書いていたのですか」

「……それは、字が上手くなりたくて……父のように」

「お父様のように……?」


「……そうすれば、父が、安心すると、思って」

 そこまで言って、森はなにかを思い出したかのように目を見開くと、畳から上体を起こし再び整った正座の姿勢をとる。

 気持ちを整理するように静かに目を閉じると、睫毛を伝って涙が頬を滑った。


「僕が10歳のときに、兄が亡くなって……僕は、この神社の、父の跡を継ごうと決めたんだ。父は、自由な道を選べと言っていたけど、僕は、それが親孝行だと思ったから。神様に仕える、ということは生まれたときから生活の中にあって、僕にとっては自然なことだったし。でも、僕はまだまだ神職として色々なことが未熟で、字だってそうだった。僕の字を見て、父は『お前らしいな』と笑ってたけど、こんなんじゃ、いつまでも父は安心して引退できない。もう年で、日々の御勤めだって体力的に厳しいはずなのにっ……」


 吐き出すように己の内を語ると、涙腺が決壊したかのように両目からとめどなく涙が溢れる。

 三善は呼吸を整えるように一度小さく息を吸って吐くと、「森さん」と呼びかけた。


「今の言葉、俺がちゃんとお父様に伝えます。だから、あなたはもう安心して、いっていい」

「いく……」

 三善はゆっくりと頷く。

「そうだ。これからの神社のことは、生きている人間がどうするか考えればいい。だから、死んだ後まで、あなたが気にすることじゃない。あなたがすべきことは、もう終わったんですよ。あなたの魂が安らかな場所へ行くこと、それがあなたのお父様の願いのはずでしょう」


 三善の言葉に、茫然とした表情で言葉を失っていたが、やがて憑き物が落ちたかのように森は年相応の青年らしく破顔した。


「そうか……そうだったんだ……」

 そう言って、涙を手の甲で拭うと、三善とその奥に立ち尽くした瀬田に顔を向け、美しい姿勢で畳に手を付いて頭を下げた。



「ありがとうございました」



 森の透き通る声の後――彼が座っていた場所には、もう誰の姿もなかった。



「三善君、終わった?」

「ええ、話の通じる相手で良かったです。それに、彼にはここの神様の加護がずっとありましたからね」

 三善は立ち上がりながらそう言うと、窓の外に見える本殿に視線を向けた。


「僕が、さっき聞いた女性の声さ……『おもいだして』って、そう、聞こえたんだよね。

最初はなんのことだろうと思ったんだけど。彼に、自分が死んだ人間であることを思い出してほしかったってことなのかな」

 瀬田の呟きに、三善は小さく笑う。

「さぁ……、そこまでは俺にも分かりませんよ。でも、ここの神社の主神、澤女命さわめのみことは、泣沢女神なきさわめの派生神という説もあるそうですよ。泣沢女神は、最愛の妻を喪って泣いたイザナギの涙から生まれた女神。涙を流し死者を弔う性質を持った神様だ」


「そうか、だから。彼の耳には、女性の……女神の、泣き声が聞こえていたのか。……良かったの、言わなくて」

「なにがです?」

「ここの主神が、彼を見守っていたことだよ」

「……必要ないでしょう。彼の心残りは、父親のことだけだった。これ以上、この神社のことで死者が考えることなんてない。そうでしょ?」


 淡々と告げる三善の言葉に、瀬田は「そういうものかなぁ」と独りごちた。







「結局、瀬田さんはあそこでなにしてたんです? 除霊なんて、八百白館の仕事じゃないはずでしょ」

 砂利を踏む音を響かせながら境内を並んで歩いていると、三善がふと思い出したように尋ねた。


「僕は、昨日隣町であった祭りの研究で派遣されていたんだよ。その祭りは、奥美濃澤女神社とも由縁があるというので、取材許可を貰おうと思って立ち寄ったんだ。そうしたら、怪奇現象が頻発しているという相談を受けてね。怪異観測機関イコール除霊のプロみたいに思われていることもあるからなぁ……」


「相変わらずの巻き込まれ体質ですね」と、三善は呆れたように笑う。


「三善君は、任務として?」


「そうっす。今朝うちの部門に通達があったんすけど、俺は昨日から別の任務で愛知にいたから、一番近くにいるってことで派遣されました。行ったら行ったで、社務所からは妙な気配がするし、瀬田さんもいるしで、ビックリしましたよ」


「僕はそういうの、あんまり分からないからなぁ……」


「瀬田さんは、逆に見えすぎて、神様も幽霊も普通の人間と同じように認識しちゃうってのが、危なっかしいっすよね」

 溜息を吐いた瀬田に、三善はからかうように軽口を叩いた。




 境内を出て鳥居の前で一礼をする。

「結局、宮司さんはお留守だったね」

「また明日、連絡取ってみます」


 大通りに出て、駅まで徒歩5分の距離を歩いて行く。

「瀬田さんは、今から戻られるんですか?」

「いや、もう遅いし駅前のホテルに泊まって、明日朝ここを発つよ」

「じゃあ、今晩どっか飲みに行きません?」

 歯を見せて笑う三善に、「そうだね、こんな機会めったにないし」と瀬田も頷いた。


 駅前のタクシープールの近くで立ち止まり、スマホを手に近くの居酒屋を検索していた二人の背に、声を掛ける者がいた。

「おい、もしかして瀬田と三善か? 珍しい組み合わせだな」


 名を呼ばれた二人が声のした方に顔を向けると、グレーのスーツを着た30代位の男と、濃紺のスーツを着た小柄な青年が並んで駅構内から歩いてきた。


「あ! ミミちゃん先輩じゃないですか~。お久しぶりっす!」

「ミミちゃんって言うな!」

 三善に“ミミちゃん先輩”と呼ばれた男――美海みみは、うんざりしたように顔を顰める。

 女性の名前のような苗字に対して、物心ついた頃からいじられることが多かったが、慣れたとはいえ愉快なものではない。


「そちらの方は?」

 軽く会釈で返した瀬田の問いかけに、小柄な青年は「兎園寮とえんりょう滋丘しげおかです」と初対面の二人にお辞儀をする。


裏神祇事務局うらじんぎじむきょくと兎園寮が一緒って、神社関係とかっすか?」

 三善の疑問に「ああ」と美海は答える。


「この近くにある奥美濃澤女神社についてだ」

「それって怪奇現象のこと? もう終わりましたよ」

「はぁ!? 神社で怪奇現象があったのか?」

「え、違うんですか?」

 素っ頓狂な声を上げた美海に、瀬田が尋ねる。


「怪奇現象というか……この一帯を流れる伊瑞川いずいがわで報告された怪異と澤女命が関係あるかもしれないということで、神社に調査依頼をするところなんだが。なんだよ、神社でもなんかあったのか?」

「僕は、いまネットで話題になってる怪奇現象の目撃情報が奥美濃澤女神社周辺に集中しているので、実態調査をしようと思いまいして。裏神祇事務局と一緒に行けば神社に聞き込みしやすいですから、美海さんの調査に同行させてもらいました」

「えぇ、なんだ、その偶然。ホントに偶然かぁ?」

 美海と滋丘の言葉に、三善は口端を引きつらせる。


「というか、神職の人誰もいなかったですよ」

「ああ、今日は神職会で留守にされているから明日宮司に会う予定で前入りしている。――知らなかったのか?」

「聞いてねぇ……アポ関係ザルすぎるだろ~、俺のトコ」

「それよりお前、怪奇現象ってなんのことだ」


「そうだ、二人ともこの後よければ僕たちと一緒に飲みに行きましょうよ。立ち話もなんだし」

 三善に詰め寄ろうとする美海だったが、瀬田の提案に「それもそうだな」と頷いた。

「飛騨牛のうまい店があるんだよ」

 スマホで店の地図を出しながら、美海がタクシーのほうへ歩き出す。その背を追い、「うわ、楽しみ!」とガッツポーズを取る三善に続いて、「シメは高山ラーメンがいいなぁ……」と呟く滋丘の言葉に「いいですね~」と瀬田も頷く。


 タクシーに乗り込み、美海が店の場所をドライバーに伝えると、「あそこ美味しいですよね」と、地元でも有名な店であることを教えてもらった。

「お兄さんたち、お仕事帰りですか?」

 ドライバーに尋ねられ、「ええ、そうです」と瀬田は笑顔で返した。







 江戸幕末まで続いた怪異にまつわる各機関は、明治の近代改革の一つ『非科学事象否認案』によって政府と切り離されて歴史の海に捨てられようとしていた。

 それを掬い上げたのが当時の神祇省役人・山鹿全徳やまが たけのりと陰陽寮官吏・土御門晴旭つちみかど はるあきである。彼らと、その考えに賛同した一部の政府高官たちが私財を投じて立ち上げた組織が『怪異観測機関』だ。

 『怪異観測機関』というのは大元の組織名であるが、機関の代表格というものは存在せず、組織内に設けられた四つの部門の長の合議制によって運営されている。

 四部門の名称は、八百白館、裏神祇事務局、境越祓所、兎園寮といい、それぞれ専門性が異なる。日本各地で起こった情報を素早く共有するために、日本を四つのエリアに区分し、中心地に各部門の拠点を構え、それぞれが独立して動いている。

 専門や拠点こそ異なるものの、各部門は現在でも結束し、互いに友好な協力関係を継続している。それは「怪異と人との中道の在り方、相互関係良化の探究」という怪異観測機関の行動原理・理念が今もなお受け継がれているからだ。

 これは日本全国をまわり怪異と関わり合う人々の、日常と非日常が織り成す物語。




***




・澤女命【さわめ-の-みこと】


 岐阜県奥美濃市矢代織町にある奥美濃澤女神社の主神。

 水を司り、権能は降雨、鎮魂、延命。


 現在の奥美濃市一帯を流れる伊瑞川の水量が減り、田畑に引く充分な水が確保できない恐れがあった年に、矢代織村(現・矢代織町)の百姓であった清五郎が雨乞いを行った。

 雨乞いの行われた夜、清五郎の夢枕に非常に美しい女神が舞い降り、「これより五日間、作物を育てるのに充分な雨を降らそう」とお告げを残した。

 お告げの通り、矢代織村には慈雨が降り注ぎ、旱魃から救われた村人たちは、この地に社を立て、その主神として澤女命を奉った。


 古事記にも日本書紀にも、澤女命という女神の名は確認できない。

 土着信仰によって誕生したか、あるいは『古事記』に登場するナキサワメ(泣沢女神)から派生した水神との説がある。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る